第2話
文字数 2,672文字
「いったい何をしていたのだ、ボンクラ」
譜を持って戻るとロベルトはリョジュンに怒鳴った。
とがった鷲鼻に鋭いハシバミ色の目。リョジュンは機嫌の悪いロベルトがこの世で一番恐ろしかった。
リョジュンはもう今年で二十三だったが、八つになったばかりの頃に初めてここへ来たとき、挨拶をするより先に、ロベルトは恐ろしい形相で怒鳴りちらしたのだった。ロベルトは、リョジュンをここへ連れてきた人買いの男に腹を立てていたのだが、幼かったリョジュンには、悪魔の館に放り込まれたとしか思えなかった。それほどに、その時のロベルトの様子がとてつもなく恐ろしく感じられたのだった。それを、未だに引きずっている。
「申し訳ありません」
ぼそりと言うと、その手にあった譜をロベルトがひったくるようにして奪う。
それにリョジュンがびくりと首を引っ込め、そのびくびくした様子に周りにいた兄弟子たちが密やかに笑う。いつものことだった。
リョジュンは生まれつき右足が思うように動かない。いつも片足を引きずるようにして歩くため、人より幾分歩くのが遅かった。そして彼のリョジュンという名は、彼の母方の先祖が、海を隔てて北方にあるペルドトという国の者であったことから、祖母がそのペルドト風の名を付けたもので、この国の人々には耳慣れない響きであり、少々発音が難しい。そのために、ロベルトは彼のことを昔からボンクラと呼んでいた。
「譜が湿っているじゃないか。まったく、お前は何をやらせても一人前にできないのだな」
「申し訳ありません」
もそもそと言って腰を折るが、彼が頭を上げた時には、もうそこにロベルトの姿はなかった。それにリョジュンは自然と笑む。
ロベルトに新たな用事を言いつけられなかったということは、もう今日は宿舎に戻っていいということであり、それはつまり、リラを弾いていいということに他ならなかった。
リョジュンは重い右足をも弾ませて自室に戻り、美しい赤布に包まれたリラを手に取ると、広間からはしごを登って、リラの音に埋め尽くされた二階へと上がった。そこは門下の者たちが唯一自由にリラを弾くことのできる場所だった。
リョジュンが顔を出すと、近くにいた門下の者たちが彼に頭を下げ、道を空けた。ロベルトや兄弟子たちには、ボンクラなどと呼ばれているリョジュンだが、門下の中では、もう経歴も技術も最上部にいて、ロベルトの左手 と呼ばれている者の一人だった。
左手(ヨド)とは、ロベルトに認められた、たった六人のリラ弾きのことで、リラを弾くのに重要なのは、弦を弾 く右手よりも、音の高さを決める左手だ、ということにちなむ呼び名である。そもそも、ロベルトの新譜という機密を取りに行くなどということは、左手 にしかできない仕事のひとつだった。そしてそんなリョジュンの下には、もう十人あまりの弟子がいた。
二階は、何十人もの門下生が奏でる音で充ち満ちていて、自分の咳払いさえもよく聞き取れないほどだった。
彼はいつもの場所――窓際の一段高く作られた場所――に腰を下ろすと、抱えていたリラをくるむ赤布を取る。花咲くように開かれた赤布の中から飴色につやめくリラが現れる。美しい花模様の細工の施されたリラだった。その花模様の中に繊細に装飾されたロベルトの名が入っている。ロベルトの銘が入ったリラの、絹の弦は、花模様の散るリラの腹に映えるよう、特別に鮮やかな黄色に染め上げられていて、それをリラ弾きたちはあこがれを込めて《金の糸》と呼んでいた。
オン
そっと弾くと、リョジュンの指に答えてリラが一声口ずさむ。少しずれた音を糸巻きを巻いて整え、リョジュンは金の糸に指をかけた。
とうとうと指先からこぼれ出すリラの甘やかな歌声に、リョジュンは指の先から幸福にくるまれていくのがわかった。
耳をなでる心地よい音、音、音。
高い音、低い音、強い音、弱い音、優しい音、悲しい音、荒々しい音、寂しい音。リラの奏でるどんな音も、彼の友だった。
リラは、リョジュンの指から伝わる思いに答えて歌い、彼もまたリラがどんな音をほしがっているかわかるのだった。自分の全てがリラの音に溶け出して、世界と自分との境界が曖昧になってゆく。部屋の中に満ちている他のリラたちの音が遠ざかって、ただ、自分が抱いているリラの、その声で満たされる。この音さえあればいいとリョジュンはいつもそう思う。
先ほどロベルトに怒鳴られたことも、兄弟子に笑われたことも、呼びにくい名前のことも、自分のくぐもった声のことも、足が悪いことも、その足のせいで故郷を離れなければならなかったことも、うれしかったことも、楽しかったことも、悲しかったことも全て、全て音に咲いて流れてゆく。
リョジュンは歌うことはおろか、ふだんから譜面屋のロイ以外とはほとんど話すことがなかったが、リラを抱えてさえいれば、誰よりも饒舌だった。
リラと共に歌っている時、リョジュンは自分を世界で一番幸せな人間だと信じることができた。
「あれはボンクラか」
階下を通りかかったロベルトは誰に言うとでもなくつぶやいた。隣にいたニイドは耳をそばだてると、オンオンとうなるように響いてくるリラのざわめきの中から、りんと響いてくる、ひとつの旋律を見つけ出す。妙な弾き方だった。誰かの弾く旋律に合わせて、全く別の旋律を弾いている。しかしそれがうまく解け合って、まるでひとつの曲であるかのように聞こえた。
「ボンクラのようですね。またあのように、他人の旋律にもたれかかるようなことをして」
ニイドはあざ笑うように言ったが、ロベルトはそれにふと笑む。
「あいつは普段ボンクラのくせに、リラを持たせるとまるで別人だな。次のサルーガルでの演奏にはあいつを連れて行こう」
それに驚いてニイドはロベルトをあわててふり返る。
「サルーガルにはご子息をお連れすると……」
「あれはまだまだ使い物にならん。私と同席できる段階にはいない。よく音色について教えておけ」
「しかし」
「ボンクラはあれでも、お前と同じ左手 の一人だ。人となりや見た目はどうしようもないが、リラの技術だけ見れば問題あるまい」
有無を言わせない強さで言い、ロベルトは呆然とするニイドを待たずに歩き出す。ニイドはなおも食い下がろうとしたが、それを何とか腹の内にしまい込む。ロベルトの決めたことに自分たちが口を挟むことを、彼が好まないこともよく知っていた。
また、少々不確かな旋律に寄り添うりんと弾む旋律が耳に届く。それを苦々しく聞きながら、ニイドはロベルトを追って部屋を後にした。
譜を持って戻るとロベルトはリョジュンに怒鳴った。
とがった鷲鼻に鋭いハシバミ色の目。リョジュンは機嫌の悪いロベルトがこの世で一番恐ろしかった。
リョジュンはもう今年で二十三だったが、八つになったばかりの頃に初めてここへ来たとき、挨拶をするより先に、ロベルトは恐ろしい形相で怒鳴りちらしたのだった。ロベルトは、リョジュンをここへ連れてきた人買いの男に腹を立てていたのだが、幼かったリョジュンには、悪魔の館に放り込まれたとしか思えなかった。それほどに、その時のロベルトの様子がとてつもなく恐ろしく感じられたのだった。それを、未だに引きずっている。
「申し訳ありません」
ぼそりと言うと、その手にあった譜をロベルトがひったくるようにして奪う。
それにリョジュンがびくりと首を引っ込め、そのびくびくした様子に周りにいた兄弟子たちが密やかに笑う。いつものことだった。
リョジュンは生まれつき右足が思うように動かない。いつも片足を引きずるようにして歩くため、人より幾分歩くのが遅かった。そして彼のリョジュンという名は、彼の母方の先祖が、海を隔てて北方にあるペルドトという国の者であったことから、祖母がそのペルドト風の名を付けたもので、この国の人々には耳慣れない響きであり、少々発音が難しい。そのために、ロベルトは彼のことを昔からボンクラと呼んでいた。
「譜が湿っているじゃないか。まったく、お前は何をやらせても一人前にできないのだな」
「申し訳ありません」
もそもそと言って腰を折るが、彼が頭を上げた時には、もうそこにロベルトの姿はなかった。それにリョジュンは自然と笑む。
ロベルトに新たな用事を言いつけられなかったということは、もう今日は宿舎に戻っていいということであり、それはつまり、リラを弾いていいということに他ならなかった。
リョジュンは重い右足をも弾ませて自室に戻り、美しい赤布に包まれたリラを手に取ると、広間からはしごを登って、リラの音に埋め尽くされた二階へと上がった。そこは門下の者たちが唯一自由にリラを弾くことのできる場所だった。
リョジュンが顔を出すと、近くにいた門下の者たちが彼に頭を下げ、道を空けた。ロベルトや兄弟子たちには、ボンクラなどと呼ばれているリョジュンだが、門下の中では、もう経歴も技術も最上部にいて、ロベルトの
左手(ヨド)とは、ロベルトに認められた、たった六人のリラ弾きのことで、リラを弾くのに重要なのは、弦を
二階は、何十人もの門下生が奏でる音で充ち満ちていて、自分の咳払いさえもよく聞き取れないほどだった。
彼はいつもの場所――窓際の一段高く作られた場所――に腰を下ろすと、抱えていたリラをくるむ赤布を取る。花咲くように開かれた赤布の中から飴色につやめくリラが現れる。美しい花模様の細工の施されたリラだった。その花模様の中に繊細に装飾されたロベルトの名が入っている。ロベルトの銘が入ったリラの、絹の弦は、花模様の散るリラの腹に映えるよう、特別に鮮やかな黄色に染め上げられていて、それをリラ弾きたちはあこがれを込めて《金の糸》と呼んでいた。
オン
そっと弾くと、リョジュンの指に答えてリラが一声口ずさむ。少しずれた音を糸巻きを巻いて整え、リョジュンは金の糸に指をかけた。
とうとうと指先からこぼれ出すリラの甘やかな歌声に、リョジュンは指の先から幸福にくるまれていくのがわかった。
耳をなでる心地よい音、音、音。
高い音、低い音、強い音、弱い音、優しい音、悲しい音、荒々しい音、寂しい音。リラの奏でるどんな音も、彼の友だった。
リラは、リョジュンの指から伝わる思いに答えて歌い、彼もまたリラがどんな音をほしがっているかわかるのだった。自分の全てがリラの音に溶け出して、世界と自分との境界が曖昧になってゆく。部屋の中に満ちている他のリラたちの音が遠ざかって、ただ、自分が抱いているリラの、その声で満たされる。この音さえあればいいとリョジュンはいつもそう思う。
先ほどロベルトに怒鳴られたことも、兄弟子に笑われたことも、呼びにくい名前のことも、自分のくぐもった声のことも、足が悪いことも、その足のせいで故郷を離れなければならなかったことも、うれしかったことも、楽しかったことも、悲しかったことも全て、全て音に咲いて流れてゆく。
リョジュンは歌うことはおろか、ふだんから譜面屋のロイ以外とはほとんど話すことがなかったが、リラを抱えてさえいれば、誰よりも饒舌だった。
リラと共に歌っている時、リョジュンは自分を世界で一番幸せな人間だと信じることができた。
「あれはボンクラか」
階下を通りかかったロベルトは誰に言うとでもなくつぶやいた。隣にいたニイドは耳をそばだてると、オンオンとうなるように響いてくるリラのざわめきの中から、りんと響いてくる、ひとつの旋律を見つけ出す。妙な弾き方だった。誰かの弾く旋律に合わせて、全く別の旋律を弾いている。しかしそれがうまく解け合って、まるでひとつの曲であるかのように聞こえた。
「ボンクラのようですね。またあのように、他人の旋律にもたれかかるようなことをして」
ニイドはあざ笑うように言ったが、ロベルトはそれにふと笑む。
「あいつは普段ボンクラのくせに、リラを持たせるとまるで別人だな。次のサルーガルでの演奏にはあいつを連れて行こう」
それに驚いてニイドはロベルトをあわててふり返る。
「サルーガルにはご子息をお連れすると……」
「あれはまだまだ使い物にならん。私と同席できる段階にはいない。よく音色について教えておけ」
「しかし」
「ボンクラはあれでも、お前と同じ
有無を言わせない強さで言い、ロベルトは呆然とするニイドを待たずに歩き出す。ニイドはなおも食い下がろうとしたが、それを何とか腹の内にしまい込む。ロベルトの決めたことに自分たちが口を挟むことを、彼が好まないこともよく知っていた。
また、少々不確かな旋律に寄り添うりんと弾む旋律が耳に届く。それを苦々しく聞きながら、ニイドはロベルトを追って部屋を後にした。