第9話

文字数 2,270文字

 いきなり強い力で肩をつかまれて、リョジュンはゆっくりと目を開けた。
「リョジュン! よかった、大丈夫か?」
 ロイに揺さぶられて視界が揺れる。
「話を聞いて探し回っていたんだ。思い当たるところは全部探したのに見つからないから、本当に心配したんだ。ああ、こんなに冷たくなって。どうして上着を持っていながら着ていないんだよ」
 ロイは一人でべらべらしゃべりながら、冷たく冷え切っていたリョジュンの体を抱えるようにしてさすった。
 ロイの肩越しに見上げると、薄暗い路地にいるようだった。ぼんやりと霞のかかった頭で記憶をたどると、ふらりと立ち寄った路地に座り込んだところで動けなくなって、そのまま眠っていたようだった。
「おい、リョジュン。大丈夫か?」
 いつまでも口を開かないリョジュンの顔をロイがのぞき込む。それに、うん、と鈍く言ってうなずく。
「とりあえず僕の所へおいで。こんな寒いところにいてはだめだ。荷物は?」
 リョジュンはのろのろと傍らにあった小さな包みを指す。
「これだけ?」
「うん」
「リラは?」
「燃やした」
 ロイは目を見開いた。
「――燃やした……?」
 リョジュンはこくりとうなずく。
「さようなら、したんだ」
 ロイは何とも言えない顔をして、リョジュンを力一杯抱きしめた。その腕が小さくふるえているのがリョジュンにも伝わった。
「なんてことを――」
「僕が、悪いんだ。僕があんなことをしたから……」
「それ以上言うな。それ以上言ったら僕はロベルトさんを殴りに行ってしまう」
「だめだよロイ」
「わかっているよ!」
 ロイに触れているところからじんわりとぬくもりが伝わって、リョジュンはまた眠ってしまいそうになった。
「……ロイ……ロイ」
「うん? どうした?」
 リョジュンをのぞき込んだ目が赤い。そこからこぼれ落ちた雫をそっと指でぬぐって、リョジュンはおずおずと口を開いた。
「お願いが、あるんだ」



「またよろしくお願いします」
 愛想良く客を見送ると、ロイはまた後ろを見やってため息をついた。
 あの日からリョジュンは、ロイの店の倉庫にこもりっきりなのだ。
――紙と、インクを売ってくれないかな
 弱々しい声で、リョジュンはそう言ったのだった。譜を書くために。しかしリョジュンはほとんど字が書けない。譜の奏法を指示する言葉や、生活するのに必要最低限の言葉しか書くことができない。ロベルトは他の小間使いと同様に、リョジュンに何かを教えるということをほとんどしなかったのだった。
 譜なんか書けるのかとロイが問うと、読めるものは書けると言って、ロイが倉庫に紙とペンを用意してやると、彼はそのまま倉庫から出てこなくなった。
 持って行った食事はきちんと食べているようだし、疲れればそのまま眠っている。しかし紙に向かうリョジュンの顔つきには、日頃からは考えられないような鋭さがあり、ロイは心配でならなかった。
 いろいろ考え出すとロイは腹が立って仕方がなかったが、リョジュンが特別にひどい扱いを受けているというわけでもないのだった。ロベルトの所にいる門下生のほとんどは似たようなものだった。
 最近彼が演奏会にやたらと左手(ヨド)のニイドを伴っているのは、最近どんどん悪化していく彼の手首を、だめにしてしまうためだろうとロイは思っていた。誇り高いニイドは、今の場所から転がり落ちることも、落ちていく技術にも耐えられない。きっと近いうちに彼はリラをやめてしまうだろう。
 ロベルトは自分を脅かす者を許したりはしない。左手(ヨド)は彼がつぶしていく者の一覧表なのだ。
 リョジュンのことも、彼に天才的なリラの才能があると知って、彼を手元で飼い殺しにするために側に置いていたのだろう。ロイはそれにうすうす感づいていたが、かといって、リラのこと以外何にも興味を示さないリョジュンに、他の生き方があるとも思えず、どうすることもできないでいたのだった。
 しかし、あんなリョジュンを見るぐらいなら、もっと何かしてやれたことがあったのではないかと悔いていた。


 譜を半ばまで書き進んで、リョジュンはぴたりとペンを止め、弦を弾くように右手を動かすと、首をふって紙をぐしゃぐしゃと丸めた。
「違う違う。こんなんじゃない」
 あの時聞いた音は、こんな旋律ではなかった。
 読めるものは書けるだろうと思っていたが、これまでまともに譜など書いたことのなかったリョジュンには、なかなか思い通りに書き進めることができないでいた。
 リョジュンはそうと知らずに、譜の中にある規則性を感覚で覚え、譜を直感的に先読みして弾いているようなところがあった。だから、いざ譜にしようと思えば、知らないことがとてもたくさんあることに、このときようやく気がついたのだった。
「そうじゃないんだ。もっとうねるような旋律の、その裏で、もっと弾むような音で……」
 何かわからないかと、側にあった譜をぞんざいにめくる。と、その譜の山が崩れてカタリと音を立てた時、ようやくその横に、食事が用意されていたことに気がついた。ロイが持ってきてくれたのだろうが、全く気がつかなかった。
 リョジュンはペンを置くと、譜の山を元のように積み直し、その一番上の譜を読むでもなくぱらぱらとめくる。
 この譜の山はロイが参考にと用意してくれたものだった。
 ロイはいつでもリョジュンに優しかった。それは昔からだった。リラがまだうまく弾けなかったリョジュンにも、こうしてリラを失ったリョジュンにも。
 顔を上げると、明かり取りの小窓から光が射し、そこに小さなちりがきらきらと舞っているのが見えた。
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