第5話

文字数 2,498文字

***

 ためらった指が弦を乱暴に(はじ)いてしまい、引きつった音が辺りにこだましてリョジュンは手を止めた。深くため息をついてがりがりと頭をかくと、しわがれた声が笑った。
「今日は全然だめだね、坊や」
 星読みのばあさんは、重そうに腰を上げるとリョジュンのすぐ側までやってきて《星》を見上げ「明日は曇りか」と誰に言うとでもなくつぶやいた。
「今日のは、手習い初めの孫がいつも弾いてるありふれた練習曲ばかりだし、お前は少しも楽しんでいないね」
 それを聞くと余計に気分が滅入って、リョジュンはもうひとつため息をこぼして自分の指先に目を落とした。
 念入りにヤスリをかけて整えられた爪だった。それが小刻みにふるえて、リョジュンは思わずそれをぎゅっとにぎる。
 あの舞台の日以来、恐ろしくて仕方がないのだった。
――ロベルトの音をこれからはお前が奏でる
 ロベルトの意図していることが、リョジュンには理解できなかった。リョジュンには、リラを弾くための全てのことが楽しみでしかなく、苦痛に感じたことなど一度もなかった。だから、リラを弾かないリラ弾き、というものをどう理解していいのかわからないのだった。
 ロベルトの音を、自分が弾く。それは確かに名誉なことなのかもしれなかったが、それはリョジュンがこれからずっと、ロベルトの音を弾き続けるしかないということでもあった。同じ曲に、同じ奏法、同じ音色。
――お前は私の影となって私の音になればいい
 内側がきゅっと引きつるように苦しくなって、リョジュンは思わずリラを抱きしめた。
 あれからまだロベルトの代わりに弾くことはしていない。しかし、それをいつまたやれと命じられるかと思うと恐かった。
 そしてあの日以来、こうして星の塔に来ても、自分の曲を弾く勇気が持てずにいるのだった。ロイの店に顔を出しても、彼の譜を見せてもらうこともしていない。そんなリョジュンを心配して、ロイは自ら「新しいのがあるよ」と言ったりしたが、リョジュンは曖昧に笑って店を出て行った。
 息ができない――
 少しずつ、自分の中に満ちあふれていた音が、しぼんでくすんでいくのがわかっていた。それでも、何があろうとも、リラを弾けなくなることだけは嫌だった。たとえこのままずっと、ロベルトの影であり続けなくてはならないとしても、リラに触れられなくなるよりはましだった。だからリョジュンは言われたとおりにするつもりでいた。
 幼い頃に「お前は必要ない」と親から示されたことが、彼の知らないところで深く残ったままになっていて、ロベルトに従うこと以外自分にできることはないのだと、リョジュンは少しも疑うことなくそう信じていた。
「今日はもう弾かないのかい?」
 星読みのばあさんにうつむいた顔をのぞき込まれる。
「……今日はもう、やめておきます」
 それだけ言って、リョジュンは抱えていたリラを赤布にくるんだ。
「そうかい。そりゃあ残念。まあ、また元気になったら弾きにおいで。私もいつまで星読みをやれるかわからないからね」
 リョジュンはぎょっとして彼女をふり返る。
「星読みを、やめるんですか?」
「しばらくはやるつもりだが、私は見ての通りこんな歳だし、もうこの町の星読みは私で最後。国王様は、もう星読みを廃止するおつもりのようだし、私がここにいる間は、坊やを遊ばせてやれるが、私が引退したらこの星の塔もどうなるかわからないからね」
 リョジュンはまたひとつ、目の前で扉を閉められた思いがした。


 いつしか長雨もすっかり止んで、北の山の木々が金色に染まりルーベンに秋が満ちていた。
 そしていつになくぐっと冷え込んだ日の朝、ちらちらと雪が舞い、リョジュンはそれを宿舎の窓から眺めていた。もう自分の吐く息が口元に白く霞み、指先が冷たくなってしまう。
 雪に埋もれる時期の娯楽としてリラが親しまれていたヤッカでは、暖炉の側に集まって酒で体を温めながら弾いたのだという。いつも練習部屋で他のリラの音に埋もれながら弾くか、星の塔か、舞台に一人きりでしか弾いたことのないリョジュンには、絵物語のような話だった。星読みのばあさんやロイのように、リョジュンのリラを好きでいてくれる人たちが、暖炉に集まって共にリラを弾いたりできるのだとすれば、それはとても尊いことのように思われた。
 今日はまた、ロベルトとニイドの二人と同じ舞台に立つ日だった。ロベルトと同じ舞台に立つのは、サルーガル以来だったが、リョジュンは気が重くてならなかった。
 また、ロベルトはリョジュンに代わりに弾けと言うのだろうか。
 思ってリョジュンはぶるぶると首をふる。今日は宿舎から一番近い劇場で、比較的小さな劇場なので客席と舞台とが近い。さすがに指と音とのずれに気づかれてしまうだろう。
 あれからリョジュンはロベルトに言われた通り、彼の譜を忠実に弾いてきた。弟子たちの音を追って、別の旋律を重ねてみるということもしなくなった。そしてリョジュンの弟子たちにも、ロベルト譜を忠実に弾くようにきつく教え込んだ。リョジュンも弟子たちも見事にそれを弾きこなしたが、もうその音楽で心が満たされることはなかった。それが少しずつリョジュンを追い詰めていったが、それに彼自身は気づいていなかった。
 そしてニイドもまた、三日に一度は医者に行っていたが、手首はさらに悪化したようだった。もう音の高低の幅が大きく早い曲には左手がついて行かなくなった。それでもロベルトは彼を舞台に立たせ続けている。少し休ませてやるべきなのではないかとリョジュンは思ったが、もちろんそんなことをロベルトに言えるわけもない。ニイド本人に言っても、腹を立てられるだけで聞いてはもらえなかった。
 どちらにせよ、ロベルトに会うのも恐かったし、常に不機嫌なニイドに強く当たられるのも気が重かった。
 大丈夫、今日は客席との距離が近い。それにもし、ロイが聞きに来てくれていたら、彼の顔を見れば少しは気が晴れるかもしれない。そう思って、リョジュンはいつまでもぐずぐずいていた寝床から抜け出した。
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