第14話

文字数 1,368文字

「ね? 違うでしょう?」
 マートルがそう言って差し出したのは確かにリラだったが、そのリラには四本あるべき弦が二本しかなかった。しかし切れて失われてしまったという風ではない。糸巻きもふたつだけ。左右にひとつずつしかない。
「あなたは余所(よそ)から来たから知らないかしらね。今じゃみんな華やかな四弦のリラばかり弾くけれど、元々ヤッカのリラは二弦だったのよ」
 マートルは呆然としているリョジュンに笑って、その二弦のリラをなかば押しつけるように手渡す。
「これは私のおじいさんが、そのおじいさんからもらったリラなのよ。ほら、腹に「アルバート」と彫ってあるでしょう? それがおじいさんのおじいさんの名前よ」
 古めかしいリラは所々色がはげ落ちていて、アルバートと彫られた文字も決して美しいとは言えなかった。それでも、どうしようもなく――
「娘が言うのよ。よくロウはじょうずにリラを弾く真似をするのに、どうして本当には弾いてくれないのかしら? って」
 呆然とふり返ると、マートルはまたやわらかな笑みを浮かべた。
「あなたは薬指が動かないと言ったけれど、他の指は動くのでしょう? だったらこの二弦のリラなら弾けるんじゃないかと思って。うちにはもう二弦を弾ける人がいないし、ずいぶん長い間物置にしまってあった古い物だけれど、大事に使ってきたリラだからちゃんと音は出ると思うの」
 弾いてみて、とマートルは言った。
 その言葉に、一瞬にして心をつかまれる。
――弾いてよリョジュン
――リラを弾いて
 リラを

 オン

 リラはリョジュンの指に応えて鳴った。
 四弦リラの、第一と第三の弦と同じ音。
 頭はしびれたようになって何も考えられなかったが、リョジュンの左手は勝手に糸巻きに伸びて、ずれた音を合わせた。そして弦に沿わせた左手の指は、しっかりとその二本の弦を感じ取った。

 ロオン


 音が

 音が

 音が

 音が満ちる――

 リョジュンはあえぐように息を吸う。
 もう指を止めることができなかった。
 老人特有の頑固さで、長く物置に置かれて鬱屈した音色。それでもアルバートのリラはリョジュンの語るとおり、よどみなく音をほとばしらせる。彼もまた、弦を(はじ)く指を待っていたのだった。

 ヤッカの町を埋め尽くす雪
 春に咲き乱れる白い花
 遠くで響く大漁の太鼓
 酒場の男たちの騒がしさ
 ボルの大きな声と、奥さんの丸い笑い声
 北の山を登る自分のいびつな足音
 夕日に照らされたルーベンの町
 さようならと言った時のロイの顔
 「あなたの腕に幸多かれ(カフ・ギユーフ)」とリョジュンのひたいに口づけた母の手のぬくもり――

 その全てが音になって咲いてゆく。
 弦は二本だったが、リョジュンの薬指が動くこともなかったが、足りないものなど、失われたものなど何もないかのようだった。
 リラの美しい音色がそこにいた全てをくるみ、再びリョジュンを幸福が包み込んだ。

――ああ、この音だ。この音だった。

 ついに弾けなくなって、リョジュンはリラを抱えて声を上げて泣いた。
「僕は、リラが弾きたい、リラが弾きたい、弾きたい、弾きたい――」
 丸まった背中をマートルがなでる。
「なんてことなの? 上手なんてものじゃないじゃない。あなた、有名なリラ弾きだったんじゃないの? ね、そうでしょう?」


 生きられると思った。


 この音と共に生きたいと、ただひたすらにそう強く願った。




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