第10話

文字数 1,694文字

 リョジュンが倉庫にこもって十日ほどが過ぎた日の朝、ロイは店の前にたたずんでいるリョジュンを見つけた。屋根で遊んでいる小鳥を眺めているようだった。
「リョジュン」
 呼ぶと、彼はロイをふり返り、ふわりと笑った。
 その顔には前のような絶望的な色はなく、すっかりと全てが洗い落とされているように見えた。しかし、まっさらの白い紙のようになったリョジュンからは、大切なものも全て抜け落ちてしまっているように思えて、ロイは不安になった。
「書けたよ」
 差し出された分厚い紙の束を、リョジュンから受け取り、ロイはそれをぱらぱらとめくってみる。紙の束の半分は奏法の指示譜のようだったが、ざっと読んでみただけでもロイが今までに見たことがないほど入り組んだ複雑な作りになっていた。
「――すごい。これは難曲だぞ」つぶやいて、ふと目をとめる。「リョジュン、署名が入っていないよ」
「いいんだ。僕の名前は読みにくいし」
「何を言っているんだ。読みにくくても何でも、君の名前だ」
 うん、とリョジュンは曖昧に笑う。
「ありがとう、ロイ。すっかりお世話になって、ごめん」
 その言葉に、ロイはリョジュンが、彼の小さな荷物を抱えていることに気がついた。
「リョジュン?」
 ありがとう、とリョジュンはもう一度言った。
「その譜に、ロイのことも書いたから、それは君にあげるね。いつか誰かに弾いてもらって」
「――待って、リョジュン。どこに行くつもりなんだ」
 ロイは思わずリョジュンの腕をつかむ。
「あんまり、迷惑をかけちゃいけないし」
「何言ってるんだ。迷惑なんかかかってない」
 リョジュンが、へへっ、と笑い、ロイはリョジュンの腕をつかむ手に力を込めて首をふる。
「カデンツに戻るよ」
「戻るって、君……」
 ロイは思わず、リョジュンの右足を見やって言いよどむ。
「大丈夫だよ。もう大人だから」
「だめだよ、リョジュン」声がふるえて、ロイはうつむいた。「もう冬が来るし、左手の傷もまだふさがっていないじゃないか。治るまで、いや、治っても、ずっとここにいたらいいよ。僕は全然かまわないんだ。ロベルトさんが何か言ってきたって、僕が追い返してあげるから。ロベルトさんだって、いつまでも幅をきかせていられるわけじゃないんだ。きっと君はまたリラを弾けるよ。君にはすごい才能があるんだし、こうして譜だって書いたじゃないか。もしリラが弾けなくても、これからたくさん譜を書けばいい。君の譜はきっと人気が出るよ。僕はそれを何枚にでも写して売ってみせるから、だから――」
 この町に住み続ければ、リョジュンはずっと傷つき続ける。そして自分も父親の店を手伝っているだけの若造に過ぎず、ロベルトからリョジュンを守ってやる力などないのだった。だからこんなことを言っても、リョジュンの心を少しもなぐさめてやれないとロイにはわかっていたが、それでも友を失いたくなくて次々と言葉を口から送り出した。
「ロイ」
「こんなのは嫌だよ」
 ロイが絞り出すように言うと、リョジュンは彼の手をそっと自分の腕からはずし、ロイの頬を両手で包む。
あなたの腕に幸多かれ(カフ・ギユーフ)
 そう言ってリョジュンはうつむいたロイの髪に口づけた。
 それは別れや旅立ちの折に、大切な相手の幸福を祈るテサの古い習慣だった。
「僕にはずっと、リラしかないと思っていたけれど、ロイも、ずっといてくれたよね。たくさん僕のリラを聞いてくれて、本当にありがとう。僕の、最後の音を、ロイが聞いてくれたことは、本当にうれしい」
「また会えるよね?」
 リョジュンはまた、へへっ、と笑った。
「さようなら、ロイ」
 ロイはとっさに手を伸ばしたが、腕から滑り落ちそうになった譜を抱え直している間にリョジュンが離れていく。この時、どうして彼をきちんと引き留めなかったのだろうかと、ロイはこの後何度も後悔した。
「リョジュン、僕はずっとここにいるから!」
 リョジュンの不揃いな足音が遠ざかって、ついには聞こえなくなっても、ロイは彼の譜を抱えたまま、長い間その場に立ちつくしていた。

 ロイはさようならと言わなかったが、この先リョジュンがこの町に戻ってくることはもう、なかった。
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