カフ・ギューフ 後編

文字数 2,580文字

「その、ロウってリラ弾きは、もしかして、右足を引きずっていないか?」
 それを聞くと男はひょいと白髪交じりの眉を持ち上げた。
「ああ、そうだよ。あいつは右足と左手の指が悪いんだ。なんだ、本当に兄さんロウの知り合いなのかい?」
 ロイは心臓が止まりそうになった。
「――そのロウってやつはどこにいるんだ?」
「さあ、俺はそれほど親しいわけじゃないから、どこに住んでるかまでは知らねえ。夜になれば、どっかの店に顔を出すだろうけど」
 その言葉を最後まで聞かずに礼を言って、ロイは店を飛び出していた。
 昨日見た人影は、見間違いではなかった。
 色々と解せないことがたくさんあるが、この町にリョジュンがいる。そう思うだけでいても立ってもいられなかった。
 ロイは町中駆け回ったが、ヤッカもまたリラのよく聞かれる町で、音だけで判別するのはとても骨が折れた。色々と人にたずねたりもしたのだが、彼を知る者はみんな一様に「どこかそのへんで弾いてるんじゃないか」と言うばかりだった。そんなことはロイにだってわかっていた。その手にリラがあって、弾いていられる時間があるのなら、一日中だって弾いているに決まっている。
 しかし困ったことに、リョジュンの旋律を弾く者がとても多いのだった。それにはもう笑い出したい気分だった。
「まいったなあ」
 さすがに息が切れて、膝に手をついて息を整えていると、またどこからともなく切れ切れにリラの音が響いてきた。
 それはかすかな音だったが、それでもロイにはわかったのだった。昔から繰り返し繰り返し聞き続けたあの音。聞き間違えるわけがなかった。
 あわてて辺りを見回すと、小さな池のそばに座っている人影が見えた。音は、そこから流れてくる。
 彼がふり向くと、ロイは知っていた。
「リョジュン!」
 だって彼は、恐ろしく耳がいいのだ。
 彼の思ったとおり、人影が立ち上がるのが見えた。顔はよく見えない。だが、彼にはわかるだろう、この声が。
「リョジュン!」
 久々に出した大声に、声が裏返る。それでも――
「ロイ!」
 ほら
 のどの奥が熱い。
 うっとうしくこぼれてくる雫を腕で乱暴にぬぐいながら、ロイは重たい右足を引きずりながら駆けてくるリョジュンに向かって走った。
 何年かぶりに見るリョジュンは、ロイの記憶にあるより日に焼けていて、いつも伸ばしっぱなしだった前髪もきれいに整えられていた。
「リョジュン!」
「ロイ! 本当にロイ? どうしてこんな所にいるの?」
 よろめいたロイを受け止めたリョジュンの声は、面白がっているような響きを含んでいた。
「リョジュン、弾いてるのか、リラを。弾いてるんだな?」
 ロイは確かめるように言ってリョジュンを見上げると、彼はロイが今まで見たこともないような晴れやかな顔で笑った。
「うん」
 ロイはもうそれ以上何も言えなくなってうつむくと、リョジュンの両腕をつかんだままうれしさにうめいた。
「ロイ、ロイ。ロイはすごいよ。あの時、ロイは僕がきっとまたリラを弾くって言っただろう? 譜だってたくさん書くって言った。本当に僕は、またリラに巡り会えたんだよ。譜もいっぱい書いている。僕はそんなことがあるはずがないと思っていたのに、どうしてロイにはわかったの? ねえ、ロイ」
 ロイもそんな日が本当に来るとは思っていなかった。ただ、それはロイの願いだった。
「君がもうリラを弾かないなんて、そんなことがあるわけないじゃないか!」
 リョジュンは少し泣きそうな顔をして、あの時のようにロイの涙をぬぐった。
「どうして手紙を書いてくれなかったんだ。君がリラを取り戻したのなら、僕はそれを知りたかったよ」
「ごめん。僕は字をよく知らないから」
「だったら指示譜で書けばいいじゃないか。“楽しく弾むように弾く”とか“重々しい音で弾く”とか、それをつなげて。僕はそれでちゃんとわかったのに」
 ああそうか、とリョジュンはおかしそうに笑った。
「だいたい、ロウって何だよ。君の名前はリョジュンだ。読みにくくても何でも君の名前だって言ったのに。おかげでこの町に君がいるのに気がつかないところだった」
 リョジュンは「聞き間違えられちゃって」と笑い、それにロイはため息をつく。
「君は本当にリラのことばっかりで、それ以外のことをほったらかしにするんだから」
 やれやれと言うと、今度はリョジュンがふにゃりと顔をゆがめ、ごしごしと目元をこすった。
「最初にロウって呼ばれたときに、音がロイみたいだなって思ったんだ。呼びにくい名前じゃなくて、これからもずっとそれを聞くなら、それもいいかなって」
 思わずロイが言葉を失ってリョジュンを見やると、彼は、へへ、っと照れくさそうに笑った。
「僕は、ロイが「君は本当にリラのことばかりだな」って、そう言うのを、ずっと聞きたいと思っていたんだ。だから、本当にうれしい」
 そう言って泣き笑いするリョジュンを、ロイはいつかと同じように力一杯抱きしめた。


「今は二弦を弾いているんだけれど、たまに四弦も弾いているんだ。前のようにはいかないけれど、それでもやっぱり楽しいから。でも二弦には二弦の面白さがあるし、足りない音は、仲間に弾いてもらえる。たくさんの人で弾くのは、とても面白いんだよ」
 あそこにいる人たちもリラ仲間だと言って、リョジュンは遠くの草原でリラを弾いている数人の人影を指さした。
「指は?」
 ロイが布の巻き付けられている左手の指を見やると、リョジュンは、ああ、と左手を突き出す。
「力が入らないから、思ってもない所で薬指が弦に触れることがあって、邪魔にならないように中指と一緒に縛っているだけだよ。別にもう痛んだりはしない」
 そこに巻かれた布にはウサギの刺繍が施されていた。繰り返し使っている物なのだろう。そのウサギへ向けられた視線に気がついて、リョジュンは少し恥ずかしそうに左手を引っ込めた。
「こ、このウサギは、その、ウサギの好きな子が、その、縫ってくれて、あの……」
 その様子に、この町で彼がどのように暮らしているのか、わかったような気がした。しかしそれでは少し物足りない。
「ねえ、リョジュン。リラを弾いてよ」
 それが何よりも一番、彼のことを雄弁に語ってくれる。
 リョジュンはうれしそうに笑って、その両手に古めかしいリラを抱いた。
「ロイが聞いてくれるならいくらでも!」


──了──
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