第11話

文字数 2,152文字

***

 夕暮れの酒場には、仕事を終えた掃除夫たちが次々と顔を出し、元いた客らと合流して話し始め、がやがやと騒がしかった。この酒場の隣には大きな宿屋があり、そこの店主がこの酒場も経営しているため、宿屋で働く者たちの食堂も兼ねているのである。そのため、客のほとんどが顔見知りで、毎夜楽しく騒いでいる。
 その中に、ひっそりと一人の若者が混じったが、彼は誰かと話すこともなくテーブルに着き、酒場の女主人とほんの短く言葉を交わしただけで、料理が運ばれてくると、それを黙々と作業的に口へ運んだ。
 それをじっと眺めていたカイトは、一緒に飲んでいるボルの肘をつついた。
「この前言ってた若造ってあいつのことか?」
 ボルはひょいと眉を持ち上げ、カイトがあごでしゃくった先にいた若者を見ると、うなずいた。
「そうそう。あいつだ。なんだか妙な感じだろう?」
 カイトはまだ若者を観察しながらうなずいた。
 あの若者はロウと言う名で、最近ボルの職場に新しく入った男だった。雪の日に遭難しかけているところをボルが見つけたらしかったが、聞いてみれば行くところもないというので、ちょうど人手が足りなかった自分の職場に連れて行ったのだった。
「ひょろひょろした男だな。あんなのに床が磨けるのか?」
 カイトがおかしそうに言うと、低くうなってボルはグラスの酒をあおる。
「あいつは足を引きずっているもんで、何でも時間がかかってしかたがないよ。手にひどい怪我をしていて物もよく落っことすしな。でも、言われたことはきちんとこなすし、まじめで働き者だよ。目を離すとすぐさぼるお前の息子とは大違いさ」ただ、とボルは疲れたようにため息をついた。「暗いんだよ。ほとんど口もききやしないし。死んだ魚の目って言うのは、ああいうのを言うんだ。あの顔を見ているだけでこっちは気が滅入って仕方がない」
 忌々しそうに言うボルに、カイトはおかしそうに声を上げて笑った。
「確かに、この陽気なヤッカじゃ浮くよな」
「生まれはカデンツの方らしいんだが、いったい何でここまで来たのか、聞いてもあんまりしゃべらんし、声は小さいしで、よくわからんのだ」
 不意に辺りで歓声が上がり、ふり返ると店にリラ弾きのメイリアが出てきた所だった。彼女はよくこの店に顔を出すリラ弾きで、中年らしい物言いも好まれて人気があった。
 ボルは待ってました、と口笛を吹き鳴らす。
「あれ、あいつもう帰っちまったのか?」
 ふり返ると、もうそこにあの若者の姿はなかった。
「もうちょっと待ってりゃ、メイリアのリラが聞けたのに」
「あいつはいつもそうだよ。リラが始まる前には帰っちまう」
「なんで?」
「知らねえよ。嫌いなんだろう、リラが」
「へえ、本当に暗いやつなんだな。メイリアのリラを聞かないなんて」
 カイトは不思議そうに言ったが、やがて話題は彼の不真面目な息子の話に移り、若者がそこにいたことはすぐに忘れてしまった。


 夜の冷たさに、耳や鼻の先がぴりぴりと痛んだ。
 暗がりの中でも雪はぼんやりと浮かび上がり、踏み固められた雪が凍った道を、転ばずに歩くのはとても骨が折れた。毎日二三度は転んでしまう。ヤッカへ来てみて、あの星読みのばあさんが呆れていた理由が、リョジュンにはよくわかった。
 はあ、と指先に息を吹きかける。
 彼を照らしている冬の月は冴え冴えと白く、空気は冷たく澄んで星の小さな粒までよく見えた。
 ぼんやりと天を眺めていると、後ろからかすかにリラの音が響いたように思い、リョジュンは足を速めた。
 この町の陽気な雰囲気にリョジュンはまだなじめないでいた。雪に埋もれそうになっていても、ヤッカにはルーベンやサルーガルとは全く違う、港町の活気が満ちあふれていた。
 どうしてヤッカに来ようと思ったのか、リョジュン自身にもよく思い出せなかった。確かにルーベンを出た時はカデンツに向かっていた。それが気がつけば北の山の方へ吸い寄せられていたのだった。
 そしてどこをどう歩いたのか、気がつけばボルの家で分厚い毛布にぐるぐる巻きにされていた。
 目覚めたリョジュンにボルは、
「こんな季節にそんな薄着で歩くなんて、死にたいのか!」
と怒鳴った。
 リョジュンは薄着をしているつもりはなかったのだが、雪国のヤッカとルーベンとでは冬の服装がずいぶんと違っているらしかった。今着せてもらっている服も、ルーベンではあり得ない分厚さだった。それでも寒い。
 ボルはとにかく声の大きな男で、何か言われるたびにリョジュンには叱られているような気分になる。名前を聞かれた時も、どうして彼がそんなに怒っているのかわからず、自然と小さくなった声を聞き間違えられて、リョジュンの名前は「ロウ」ということになってしまった。そもそもリョジュンという名を気に入っていたわけでもないので、それでもいいかと訂正しないまま今に至っている。
 突然目の前を小さな獣が横切って走り、びくりと立ち止まったリョジュンはよろめいて転びそうになる。何とか体勢を立て直し、ほうと息をつく。
 今日も、何とか生きている。掃除夫の仕事もだいぶ覚えた。何をしたいのか、したくないのか、よくわからないが、とにかくリョジュンは生きていた。
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