第13話

文字数 2,631文字

 すぐにボルの家には戻らず、リョジュンは町の外れにある池までやってくると、ようやくそこで足を止める。
 せわしなく肩で息をしているのに苦しくてたまらなかった。
「……う…っ……」
 醜いうめき声がのどからこぼれ、リョジュンはそれを押し込めるように腹を抱えてしゃがみ込んだ。
 いつまでこうしていなければいけないのだろう。
 もう、大丈夫だと思っていた。
 もう、リラのことなど忘れていられると思っていた。
 ルーベンほどではないにせよ、ヤッカでもリラは人気のある楽器だった。ルーベンのように大きな派閥があるわけではないようだったが、リラを聞かせる店は多くあったし、小さな劇場ではリラの演奏会も催されていた。しかし、リョジュンの行く酒場にはリラ弾きがこなくなったし、ボルの家にはリラを弾く者がいなかった。聞かないようにしようと思えば、そうすることができた。
 みんなリョジュンに親切にしてくれたし、仕事もできるようになった。リョジュンもヤッカが気に入ったし、毎日楽しく暮らしている。だから、もう、苦しむことはないと思っていた。でも、違った。
 どこまでもリラはリョジュンを追いかけてくる。どんなに逃げても、耳をふさいでも、彼の世界にはいつでもリラの音がすぐによみがえってくる。美しいものを見たとき、面白いことを見つけたとき、楽しいとき、淋しいとき、悲しいとき、いつでも耳の奥にはリラの音が響き続けていた。それを必死に押し込めて来たが、リラを見た瞬間に押さえ込んでいたはずのふたをこじ開けて、あふれ出してしまった。
 こんなところまで来ても、リラのことしか考えられない自分が、惨めで情けなくてたまらなかった。リラなしで生きていけないというのなら、もうリョジュンにはどうしていいかわからないのだった。
 どうしようもなく音が聞きたかった。リラの、優しく甘やかな音色が。
――本当に君はリラのことばかりだな
「ロイ……」
 せめてあの軽やかな声が聞きたかった。でも、それすらも今のリョジュンには果てしなく遠かった。

 そしてこんな時でさえリョジュンは、この痛みを音にしてしまえばどんな旋律になっただろうかと、考えてしまうのだった。


***


「ロウ!」
 耳元で大声を出され、リョジュンはびくりとしてふり返る。と、そこにはボルがいた。
「どうしたんだよ、ぼうっとして。具合でも悪いのか?」
 リョジュンはあわてて首をふるが、持っていたバケツを取り落とし、中に入っていた水を盛大にぶちまけた。
「す、すみません!」
「ああもう、やっとくからいいよお前は」
 そう言ってボルはリョジュンの持っていたモップを奪い取る。
「あ、いや、僕、やります」
「いいって。お前はもう今日は帰って休め。疲れているんだろう。最近ぼうっとしてばかりじゃないか」
「すみません」
 リョジュンが申し訳なさそうに頭を下げると、ボルはその肩をぽんぽんとたたく。
「お前がまじめなのはみんな知ってる。ちょっとぐらい休んだってかまうもんか」
 な、と手のひらを差し出され、リョジュンはしぶしぶバケツをボルにわたした。

 休めと言われたものの、こんなに日の高い内に家に戻れば、奥さんに心配されてしまいそうで、リョジュンは町をぐるっと回って、また池の所までやってきた。
 そよそよと乾いた風が吹き、池の水面を風がわたっていくのを何とはなしに目で追った。辺りには黄色の小さな花が咲き乱れ、その中で遊ぶ小鳥の鳴き声が響いていた。
――あなたの目はヤッカの海と同じ色をしているのね
 水をのぞき込んでみるが、水面に映った自分の顔は暗くゆがんでよく見えなかった。
 お前の目は青だよ。
 祖母がそんなことを言っていたような気がするが、よく覚えていない。ロベルトの宿舎には鏡などなかったし、特に自分の顔を見てみたいとも思わなかったので、リョジュンは自分がいったいどんな姿をしているのかよく知らなかった。この顔は両親に少しは似ているのだろうか。思い浮かべてみようとしても、その両親の顔も、カデンツの景色も、霞におおわれたようにおぼろげでよく思い出せない。
 覚えているのは一面の麦畑と、水車の回る音。そう、あれがリョジュンにとって最初の音楽だった。
 目を閉じてみると、音ならいくらでも思い出すことができた。母親の足音、兄の寝息、祖母が機を織る音、父親の低い声。朝に鳴く小鳥の声と、馬のつんざくようないななき、嵐の日の恐ろしい風の音。
 目を開くと抜けるように青い空が迎え、弾みでぬるい雫がこめかみを伝った。
 そうなのだった。いくらリョジュンが目を閉じても耳をふさいでも、この世界は音楽で満ちあふれていたのだった。ただ、リョジュンがもう、それを歌うことができないだけなのだった。
「ロウ君!」
 ふり返ると、少し離れた場所にマートルの姿があった。その手にある物にぞっとして、リョジュンはあわてて立ち上がる。
「よかった。こっちの方に歩いてくるのが見えたから、急いで追いかけてきたのよ。目が悪くてもね、あなたの歩き方なら私にもわかるのよ」
 うれしそうに言って、マートルはまたリョジュンの方へやってくる。リョジュンが逃げだそうとすると、マートルに腕をつかまれる。
「ちょっと待ってよ、ロウ君」
「もう、帰るところですから」
 そう言ってリョジュンは彼女の手を振り払う。
「待って、これを・・・・」
 マートルは手に持っていた包みをリョジュンに差し出す。それが何であるか聞かなくてもわかる。
 もう勘弁してほしかった。
 もうこれ以上は耐えられない。
 なおも手をつかもうとするマートルを振り払うと、その弾みでマートルがよろめいた。とっさに手を差し出すと、彼女にしっかりとその腕をつかまれ、リョジュンもマートルと一緒に尻餅をつく。
「捕まえた」
 マートルはにこりと笑う。今日は片方の目の前にレンズを付けている。
「放してください。僕はもう、リラは弾かない」
「違うのよ、ロウ君」
「もういいでしょう。僕はもう弾けないんだ!」
 語気を強めると、マートルは、てし、と音を立ててリョジュンのひたいを打った。それに驚いてリョジュンが動きを止めると、マートルはやれやれと息をつく。
「もう、本当に人の話を聞かない人ね」
 そう言ってマートルは持っていた包みを開く。まるで花が咲くように現れたのは、やはりリラだった。それを絶望的な気持ちで見ていたが、リョジュンははっと息を呑む。
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