第8話

文字数 2,819文字

 ルーベンにある全ての工房にリョジュンは出向いたが、その全てに修理を断られた。とりあえず話を聞いてはくれるものの、リョジュンの名を聞くとみな一様に気まずそうに目をそらした。
「お願いします!」
 リョジュンが床に手をつくと、工房の主は心底まいったという風にため息をついた。
「もうあきらめてくれよ、リョジュンさん。もうどこへ行っても同じだよ。町中のロベルトさんの方からあんたにリラを持たせるなって、そういう話が通ってるんだよ。どこもロベルトさんのリラを扱っているんだから、どうしたってあんたのリラを直してやるわけにはいかないんだよ」
 なおも頭を上げようとしないリョジュンに、主人はやれやれともう一度息をついて彼のリラを見やる。その痛々しい姿に眉をひそめる。
「俺だって、あんたの弾くリラが好きだったんだ。できれば直してやりたいと思うよ。だけどな、ロベルトさんのことを抜きにしても、もうこれは直せねえよ。弦だけなら何とでもしてやるが、背がこんなに割れてへこんじまってるんじゃ直しようがねえよ。いったいどうやったんだい。糸巻きもぽっきり折れちまってるし。どこぞの魔法使いに、目ん玉飛び出すような金を積んで頼み込めば何とかなるかもしれんが、それよりは新調した方が早いだろう」
 主人はリョジュンの側にしゃがむと、ぽん、とその肩をなでた。
「悪いことは言わない。もうあきらめな。リラがあったって、もうこうなっちゃあんたはこの町では弾けないよ。それでも、どうしてもリラが必要だってんなら、腹の細工だけでも売って、それを元手にして手頃なのを手に入れな。ロベルトさんの銘が入っていれば、細工だけでもそれなりの値で引き取ってもらえるさ」

 工房を出るとき、主人が何か言ったような気がしたが、リョジュンには聞こえていなかった。
 もう直せない。
 その言葉を思い出すだけで、みぞおちの辺りが刺すように痛んだ。
 リラは高価な楽器だった。ロベルトの使っている家が数軒建つようなものでなくとも、安くとも半年荷運びの仕事をやってようやく足りるぐらいである。
――腹の細工だけでも売って
 思わず力がこもり、左手が耐え難いほど痛んだ。
 医者は、リョジュンの左手も、もう治せないと言った。
 痕が残るかもしれないが、いずれ傷口はふさがるだろう。しかし、薬指の感覚がない。ロベルトのナイフが、骨に届くほど深く傷つけたようだった。多少は動かすことができた。多少は。
 薬指は、リラ弾きたちの間で阿呆指と揶揄されるほど、動きの悪い指だった。どんなに練習しても、最後までこの指は上達しない。だから、リラ弾きたちは専用の練習曲を繰り返し繰り返し弾き抜いて、薬指を手なずけていくのだった。そうして薬指を自分のものにできて初めて、リラ弾きを名乗れると言っても過言ではない。
 リョジュンは必死に医者に詰め寄ったが、答えは先ほどの工房の主人と似たようなものだった。
 どうしても治したければ、恐ろしい額の金を魔法使いに払ってみるしかないと。
 そんな金をリョジュンが支払えるわけがなかった。左手(ヨド)とはいえ、ロベルトが彼らに払う金額は微々たるもので、宿舎で生活するには問題なかったが、蓄えができるほどのものではなかった。もしかすると他の左手(ヨド)たちは違っていたのかもしれないが、リョジュンはそういうことにまったく頓着しなかったのだった。知ろうと思ったことすらなかった。
 のろのろと歩いていた石畳のくぼみに足を取られ、リョジュンはよろめいた拍子にリラを落としてしまった。それを行き交う人のつま先が蹴り飛ばし、リョジュンはあわててリラを拾って抱きしめる。
 立ち上がろうと手をついたところで、行き交う人の言葉に動きを止める。
 ルーベンでは今、素晴らしいリラを聞かせる左手(ヨド)の噂で持ちきりだった。口々にあの左手(ヨド)はロベルトを超えた、次の演奏会はいつだろうと噂し合っていた。あのロベルトが演奏しなかったことについて、不思議がる者がほとんどいないほどだった。しかし、その左手(ヨド)が今道にうずくまっていることに気づく者はない。
 ぎり、と音が鳴るほど奥歯を噛みしめると、猛烈な怒りがわき起こった。
 ロベルトにではない。リョジュン自身にだった。
 なんと愚かなことをしたのだろう。
 全てわかっていたことではないか。
 目の前に決して越えてはいけない壁があったこと。
 さらしてはいけない音があったこと。
 けれど、リョジュンの中にも確かにあったのだ。自分ならもっと上手に弾くことができる。ロベルトの書くつまらない譜より、もっと素晴らしい譜を書くことができる。お前の影になどなってたまるものか。僕の曲はお前の曲より素晴らしいのだと、見せつけてやりたい気持ちが、確かにリョジュンの中にあったのだ。
 しかしそれを何があっても外へ出すべきではなかった。それをじっと自分の中に押し込めておきさえすれば、リラを弾いていられた。たとえ、つまらぬ練習曲だったとしても、ロベルトの影だったとしても。この命が尽きるまで、あと何千回、何万回と。
 それを、たった一時の誘惑に負けて全て自ら打ち捨ててしまったのだ。
――もう二度とリラなど弾くな
「……あ……ぁ……」
 思わず口元を押さえると、ぽたぽたとしたたった雫が、目の前の石畳にいびつな模様を描いた。
 いつも側にいてくれたリラだった。
 悲しいときも、苦しいときも、うれしいときも、楽しいときも、退屈なときも、腹が立ったときも、寂しいときも、恋しいときも、ずっとずっと飽きるほど一緒にいてくれたリラだった。
 故郷を離れるのがつらくなかったわけではない。足が悪く生まれついたことを恨まなかったわけでもない。おかしな名前だとからかわれるのも、つらくて仕方がなかったのだ、本当は。何度も逃げ出して帰りたいと思った。ロベルトは恐かったし、兄弟子は意地が悪かった。しかし戻っても家に居場所はない。それにこの足を引きずってあの道のりを歩くのは不可能だ。
 夜になると、行き場のない思いがあふれてきて、何度も声を殺して泣いたのだ。何度も何度も。
 それでもリョジュンにはリラがあった。リラの優しい音を聞けば、どんなにつらいことがあってもまた笑うことができた。リラがあったから生きられた。
 リョジュンの幸福の側には常にリラがいた。うれしいことはいつでもリラが運んできた。リラさえあれば良かった。リラを弾いてさえいられれば。あの音を奏でてさえいられれば。自分の旋律を歌うことができなくても。

 でも、もう何も歌えない――

 もう、笑えない。もう、立てない。もう、息ができない。

――なんだお前、耳がいいんだな。リラを弾いてみるか
――一日でよくこれだけ覚えたな。褒美に菓子をやろう
――すごいなリョジュン。そんな技いつの間に覚えたんだ
――その年で左手(ヨド)なんだって?
――リョジュン、君のリラを聞かせてくれよ
――リョジュン、リラを弾いて
――リラを弾いてよ

 リラを

 リラを――



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