第12話

文字数 3,103文字

 そうして床を磨いて過ごすうち、瞬く間にふたつの冬が過ぎて、また世の中に春が満ちる頃になった。
 相変わらずリョジュンはロウと呼ばれたまま、ボルの家にやっかいになっていた。それでもこの頃になると、すっかりと仕事も覚えて、新しく入ってきた若者に教えるまでになっていた。
 一年ほど前にメイリアというリラ弾きが引退して、酒場には歌うたいがやってくるようになった。そうしてリョジュンが酒場に残ってそれを聞くようになると、自然と同僚やそうでない客たちと、少しずつではあるが話をするようにもなっていった。
 ボルとも次第にうち解けて、互いを隔てていた問題は、概ね声の大きさだけだったという結論に至った。
 休みの日には、リョジュンが彼の孫の面倒を見てやったり、彼の奥さんの買い出しに付き合ったりもした。大漁の太鼓の鳴る日には、見たこともないような魚が船から上がるのを見に、ボルに港へ連れて行ってもらったし、雪の日には暖炉に集まってカード遊びをした。
 ヤッカの人々はみな陽気で、あまり話をしないリョジュンのことも、初めの頃はうろんな目で見ていたものの、見慣れてくると親切にしてくれた。
 リョジュンはヤッカに来ても、美しいものや面白いものを見つけたし、彼の日々はとても充実していた。
 彼の手にリラがないことをのぞいては。


「おい、ロウ! いるか?」
 表の方でボルの呼ぶ声がして、リョジュンは持っていた皿を棚に戻すと、窓から顔を出す。それを見つけると、ボルは手に持っていたものをふってみせた。それはどうやらウサギのぬいぐるみのようだった。
「レイラが忘れていったみたいなんだ。悪いが届けてやってくれないか? 俺はこれから市場に行かなきゃならんのだ」
 レイラはこの間遊びに来ていたボルの姪で、ボルの孫のユキととても仲が良かった。
「わかりました。ここを片付けたら行ってきます」
「ありがとう。悪いな。道、わかるか?」
「大丈夫です。緑の屋根の家でしょう?」
 そうそう、とボルは笑って、ぬいぐるみをリョジュンに手渡した。
 リョジュンはすぐに片付けてしまうと、ウサギを持って家を出た。
 ウサギのかわいらしい赤い目に笑みつつ、リョジュンは緩やかな坂道を登ってレイラの家を目指した。もう大体の道も覚え、雪に埋もれていなければ迷子になることもない。ヤッカにはルーベンと違って石畳の道が少なく、雨の後などぬかるみのひどい日は歩くのに骨が折れた。この間など、ボルの奥さんに脇を抱えられるようにして歩き、とても気恥ずかしい思いをした。
 坂の上の角を折れると、目指した緑の屋根が見えてくる。壁は白く塗ってあり、緑の屋根が映えてきれいだった。いくつもの鉢植えが並ぶ窓辺に、小柄な人影が動くのが見えた。誰か家にいると見て、リョジュンはほっと息をつく。
 しかし呼び鈴を鳴らしても、いっこうに誰も出てくる気配がなかった。
「すみません」
 呼ばわってみても、返事がない。自分の声では聞こえないのかと、仕方なくリョジュンはドアを開ける。
「すみません」
 呼び鈴と共に叫ぶと、中からわずかに声がした。
「入ってきてちょうだい。今、手が離せないの」
 仕方なくリョジュンは、ウサギと共に家の中へ入っていった。中は甘い花のような香りがした。どこもきちんと片付いていて、とても住みやすそうな家だった。
 おそるおそる廊下を進んで見回すが、誰の姿も見あたらず、ついに一番奥の部屋まで行き当たって中をのぞきこむ。
「あの……」
 中には誰もいなかった。どこかの部屋を見落としていたのだろうかと、リョジュンがもう一度部屋の中を見渡したとき、テーブルの上に何気なく置かれていた物に、目が縫い止められる。
 そこにあったのはリラだった。
 耳に聞こえそうなほど、どくりと心臓が鳴る。リョジュンはほとんど無意識に、足を踏み出していた。
 それはよく使い込まれた古いリラで、腹には花模様ではなく雪の結晶のような細かな文様が描かれていた。手に取ると、ほどよい重さがあり、白い弦も四本きちんと張られていた。
 リラの首を持ち、弦に左手の指を沿わせたとき、リョジュンははっと現実に引き戻された。
 彼の指には三本の弦しか感じられなかった。
 そしてそれと同時に、背がひどく割れ、弦が無惨に断ち切られた彼のリラの姿がよみがえる。
「まあ、あなたもリラを弾くの?」
 背中にかけられた声に、リョジュンはびくりと体を強ばらせ、持っていたリラをあわててテーブルに戻す。ふり返ると、奥さん、という雰囲気をまとった中年の女性が不思議そうにリョジュンを見ていた。
「いえ、違います。違うんです。すみません、僕は」
 リョジュンのあわてふためいた様子に、彼女は不思議そうな顔をしながら近づいてくる。
「弾いてもかまわないわよ」
 リョジュンはぶんぶんと(かぶり)を振って、後ずさる。その拍子にウサギが彼の腕からすべり落ちた。
「違います。ごめんなさい、もう、さわりませんから」
「いったいどうしたの。何を言っているの?」
「ごめんなさい、僕は、もう……ごめんなさい」
 彼女はずんずんと無遠慮に近づいて、ついにはリョジュンを壁際に追い詰めた。そして逃げ場を失ったリョジュンが怯えた目で彼女を見ると、彼女は眉をひそめて彼の頬を両手で、ぺち、と音を立てて包む。
「落ち着きなさいな。誰も叱っていやしないでしょう?」
 そう言って、彼女は息のかかりそうなほどリョジュンに顔を近づける。リョジュンが体を強ばらせて息もできないでいると、彼女はそっと頬から手を放して、彼の伸びすぎた前髪をかき分けた。
「まあ、綺麗な色。あなたの目はヤッカの海と同じ色をしているのね」
 目を見開いたまま固まっているリョジュンに、ふふっと笑う。
「ごめんなさいね。目が悪くて、レンズなしじゃ近づかないとよく見えないの」
 それを聞いて少し落ち着きを取り戻し、リョジュンはようやくぱちぱちと目を瞬かせる。
「私はあなたを責めていないわ。わかる?」
 リョジュンがこくりとうなずくと、彼女はようやくリョジュンの顔から手を放した。
「あなたはボルさんの所のロウ君ね」言いながら彼女は床に落ちたウサギを拾う。「私はレイラの母親のマートルよ。うちのおてんば娘がよくお世話になっているみたいね。どうもありがとう。娘からあなたの話はよく聞くのだけれど、目が悪いのであまり外に出ないものだから、はじめましてね」
 そう言ってマートルは右手を差し出し、未だあっけにとられたままのリョジュンの手をにぎる。と、マートルはまたふふっと笑った。そして所在なく垂れ下がっていたリョジュンの左手も手にとり、面白そうに顔を近づける。
「いかめしい左手と、女の子みたいにきれいな右手。リラ弾きだったうちのおじいさんもこんな手をしていたわ。やっぱりあなたもリラを弾くのでしょう?」
 その言葉に凍り付く。胸に貫かれるような痛みがはしり、リョジュンはそれを振り払うように首をふる。
「――僕は、弾きません」
「あらそう? 本当に?」
 全身に満ちた冷たさにふるえながら見やると、彼女はまた不思議そうに首をかしげた。
「これは主人のリラだけど、弾いてみたいなら、弾いてもいいのよ?」
 リョジュンはあえぐように息を吐くと、彼女の目の前に左手を突き出す。すると彼女はそこにある傷に目を丸くする。
「まあ、ひどい傷。きちんと手当しなかったでしょう」
「もう、薬指が、動きません。だから、もう、僕は――」
 唇を噛みしめると、リョジュンは彼女と壁の間からすり抜ける。
「ロウ君」
「僕は、そのウサギを届けに来ただけですから」
 そう言ってリョジュンは逃げ出すように緑の屋根の家から出て行った。
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