第1話

文字数 3,408文字

 秋の長雨が続いていた。
 雨が降るごとに空気は冷たくなってゆき、人々のまとう衣もふくふくと厚くなる。この雨が止めば、木々の葉は赤や黄色に美しく染め上がり、北の山を越えて冬が訪れるのだ。
 星読みのばあさんが、今年は雪が多そうだと言っていたのを思い出し、リョジュンは思わず北の山をふり返った。そこには雨に霞んでいるものの、まだ青々とした山があるばかりで、冬の気配はまだ感じられなかった。
 リョジュンはこのルーベンに住んで十五年になるが、まともに雪の積もったのを見たことがなかった。一昨年は小麦粉をまいたように、ほんのうっすらと積もったのだが、昼には跡形もなく消え失せてしまっていた。
 北の山を越えた所にある港町ヤッカでは、雪は春まで残っているのだという。そういう雪を見てみたいとリョジュンが言うと、星読みのばあさんは、ずいぶんと呆れた顔をした。
 ぽつりと、軒からしたたった雫が頬に落ち、リョジュンははっと我に返って先を急いだ。
 雨の日は嫌いだった。生まれつき動きの鈍い右足が雨の日は(こと)に重く感じられる。足先が冷たいことを思うと、また靴に穴が開いたのかもしれない。
 雨を避けるように軒下を渡り渡り、ようやく白い旗の下がった店先にたどり着く。息を弾ませながら(ひさし)の中へ滑り込むと、中にいた若者が待ちかまえていたように、やあ、と片手を上げた。
「いらっしゃい、リョジュン」
「やあ、ロイ。頼んでおいたものできてるかい?」
 リョジュンが店先で、マントに付いた雨粒をはらっていると、ロイはやれやれとため息をついた。
「相変わらずせっつくねえ、君ん所の大先生は。原本が来たのは一昨日の夜だよ?」
 申し訳ない、とリョジュンがすまなさそうに頭を下げると、ロイは店の奥に消えていき、ややあって分厚い紙の束を持って戻ってきた。そしてそれを、どん、とテーブルの上に置いた。
「できてるよ。きっかり二百部」
「ありがとう!」
 リョジュンは、もどかしそうに雨よけのマントをその場に脱ぎ捨てると、ロイの顔を見もしないでその紙の束に飛びついた。それにロイはやれやれと密かに苦笑する。
 それはリラの楽譜だった。
 リラは、太った猫が丸くなったほどの大きさで、イチジクの実を半分に割ったような形をした楽器である。縦に張られた四本の弦を指で(はじ)いて音を奏でる。
 元々は、この中の大陸(テルリア)に古くから住んでいた人々の間で使われていた楽器だったのだが、リョジュンらテサの民の先祖たちが、海を渡って来る際に携えてきた、レイスという二弦の楽器と混じって、今の形になったと言われている。とはいえ、もうこの土地がテサと呼ばれるようになったのも三百年以上も前の話で、本当のところは誰にもよくわかっていない。
 昔からリラはヤッカで、雪に埋もれた時期の娯楽として爪弾かれていたものだったのだが、十年ほど前から、ここルーベンでもよく弾かれるようになり、今では大変な人気となっていた。
 町にリラの音が聞こえない日はなく、男も女もこぞってリラを習い、どの家にもたいていリラがあった。リラを聞かせる店や、リラを弾かせるためだけの劇場も多くあり、リラ弾きだと言えば、どこの酒場へ行っても金を払う必要はなかったし、一曲弾けば、宿代がタダになったりもした。
 リョジュンはそのリラ弾きの第一人者である、ロベルト・ウルの弟子の一人だった。
 ロベルトはリラを弾くだけでなく、その曲も自ら作っていて、それが大変な人気を博していた。リラ弾きの間で彼の曲は《ロベルト譜》と呼ばれて特別に扱われ、彼の弟子はすでに五百人あまりを数え、住み込みの門下生も百人はくだらない。リラは高価な楽器だったが、ロベルトの名が刻まれたリラは、特に高価な値で売られている。
 そのロベルトの新しい譜の写しを、リョジュンは受け取りにきたのである。門下生のための練習曲であるが、それでもロベルトの新作ともなれば、リラ弾きなら誰でも読みたがった。
 それを瞬きもしないで読んでいたリョジュンは、譜を束の一番上に戻すと、そばにあった椅子にどさりと腰を下ろした。先ほどまで、新しい衣を手にした乙女のように目を輝かせていたのだが、ロイが帳簿から目を離した時には、もうその輝きは消え失せていた。
「どうだい? 大先生の新作は」
 リョジュンは、ちらりとロイの方を目だけでふり返ると、ゆるゆると首をふった。その顔には明らかに落胆の色が見て取れた。
 ロベルトの人気はとどまるところを知らない。彼が舞台に立つと言えば、いつでも劇場はルーベン中の人々で埋め尽くされたし、彼の譜はこの店でも一番よく売れている。そもそもこの店は写本屋で、書き物の写しを売るのがそもそもの商いだったが、ロベルト譜を置くようになってから、それが特に売れるもので譜面屋と呼ばれるようになったのである。
 そんなロベルトの数ヶ月ぶりの新曲だったが、リョジュンは力なく肩を落とすしかなかった。最近のロベルトの譜は、過去の作品と似たものが多くなった。それは町中が好む曲ではあったが、もうすでに何の新鮮みもなく、リョジュンには退屈な練習曲のくり返しにすぎなかった。
「最近の先生は、新しい物を生み出そうという情熱を失ってしまったんだ。昔の先生は、もっと面白くて全身がわくわくするような曲をお書きになったのに、最近はどれも同じに聞こえる」
 リョジュンはふてくされたように言って、右手の指先で弦を弾く仕草をした。たったそれだけの動作だったが、ロイにはそこにリラが抱えられているように見えた。
「それはさ、君がもう先生の先に行ってしまったってことじゃないのかい?」
 ロイがさらりとそんなことを言うと、リョジュンは「そんなばかな」と言って立ち上がり、そこに並べてあった譜に袖を引っかけてまき散らした。
「リョジュン」
「ああ、ごめん」
 リョジュンは顔を赤らめて頭をかきつつ、散らばった譜を拾う。
「めったなことを言わないでくれよ」
「悪かった」
 ロイは少しも悪いと思っていない風に言って、リョジュンから受け取った譜を元あったように並べ直す。
「今日も、あれを見ていくかい?」
 ロイがふり返ると、リョジュンはもちろんと顔を輝かせた。
 奥からロイが出してきたのは、またしても紙の束だった。
 しかしそれは先ほどリョジュンが受け取ったような白い紙ではなく、黄ばんだり汚れたり、端がちぎれているような粗末なものばかりだった。しかしそこには黒いインクで音楽が書かれていた。まだ、名も知られていないリラ弾きが書いた譜。まだ世に出ることができない音楽だった。
 それをリョジュンはむさぼるように読みふけった。そこには新しい音楽があった。つまらない物もあったが、ロベルト譜にはない、新しい旋律、新しい構成、新しい奏法。どれもがリョジュンには面白く、心が弾む。
 自然に左手がテーブルの上で、そこにはない弦を押さえ、右手の爪が(はじ)く。頭の中で弾いた弦が奏でる音が、えもいわれぬ旋律を響かせて、その美しさにリョジュンはうっとりと聞き入った。
 これを実際に弾くことができたなら、耳の奥で味わうことができたなら、どんなに幸せだろう、満たされるだろう。しかし、それは叶わぬ夢だった。ロベルトの譜は手習い始めの練習曲から技巧をこらした難曲まで様々あり、ロベルトの門下生がそれ以外の曲を奏でることなど許されていなかった。
 以前、自ら曲を書いた門下生がいたのだが、それをロベルトが知るところとなった翌日には、もう彼の姿は宿舎から消えていた。その後彼がどうなったかは知らない。とにかく彼が再びルーベンでリラを弾くことがなかったことだけは確かだった。
 ロベルトに破門されるということは、この町でリラを弾くことができなくなるということでもあった。それほどにロベルトの名は大きくなっており、いくつかあるリラ弾きの派閥も、ロベルト一派には遠く及ばなかった。
 それゆえにロイは、門下生が秘密裏に書いた譜を、こうして集めて保管しているのである。いつの日にかそれを世に出すために。それはロベルトの譜を扱うことで商いを成り立たせている彼にも危ういことであり、弟子であるリョジュンが読みふけっているなどということも、決してロベルトに知られるわけにはいかなかった。
 それをリョジュンも痛いほど理解していたが、この新しい譜の、とてつもなく甘美な誘惑に、リョジュンはどうしてもあらがえないのだった。
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