カフ・ギューフ 前編

文字数 2,666文字

 ロイは肺の中身を空っぽにするような、深いため息をついた。風が強いとかで、港から船が出ないのである。
 ロイはルーベンで紙屋を兼ねた写本屋を営んでおり、数々の書物を書き写して売るということを生業にしている。父から受け継いだものではあるが、彼は独自の製造・販売方法を開拓し、店は日増しに大きく成長しているところだった。
 以前はリラの譜を主に扱っていたのだが、彼の代になってからは、どんどんとその数を減らしている。彼が店に置く譜をえり好みするからである。そしてそれがあまり売れないのだが、ロイには譜を置くのをやめる気はないのだった。
 父親は呆れていたが、それでも他の書物などの写しは順調で、日増しに注文も増えているということもあり、譜のことはロイの道楽ということで大目に見てもらっている。
 そういうわけで、繁盛した店には当然紙が不足するという事態が起こり、彼はしばし店を父親に任せて、紙の仕入れのために各地を回っているのだった。そうして船の乗り継ぎのために訪れたヤッカで足止めを食らっている。
「まいったな」
 独りごちて、財布の中を確認する。繁盛してきたとはいえ、彼の店もまだそれほど大きいというわけではなく、金持ちを自称するにはほど遠い。つまり、貧乏旅なのである。こんな所で無意味に宿代を浪費するわけにはいかない。
 先ほどの漁師の話では、この時期の強い風は二、三日続くという。もし本当に二、三日船が出ないというのであれば、風が止めば、いったんルーベンに戻らなければならない。ここまであまり収穫がなかっただけに、かなりの痛手だった。
 とはいえ、相手が風ではどうしようもないとあきらめて、ロイはその日の宿を探しに出かけた。
 ヤッカは港町とはいえ、それほど大きな町ではない。港の周りがにぎわっている他は、冬には雪に閉ざされてしまう、田舎と呼んで差し支えないのどかな場所だった。市場を抜けると、ルーベンでは北の山と呼んでいる山が南に見え、その頂にはまだ白い雪が残っていた。
――ねえ、ロイ。春まで残る雪ってどんなだと思う?
 ふと、昔リョジュンが無邪気に言った言葉がよみがえり、ロイは口元にほのかな笑みを浮かべた。年も近く、ロイが店番を手伝うようになった頃、リョジュンもまた譜を取りにやらされるようになり、自然と仲良くなったのだった。ロイは、どこまでも純粋に、ただただリラを愛していた彼のことが好きだったが、彼は大きな力に呑み込まれて、ルーベンを去ってしまっていた。
 いつかはそんなことになるのではないかと危ぶんでいたのに、結局何もしてやることができずに友人を失ってしまったことは、今でも彼の胸にとげのように刺さったままになっていた。

 何とか見つけた安宿は古く、窓を開けようとすると鎧戸(よろいど)ごとはずれてしまうような有様だった。もうなんだか気が滅入ってしまい、ロイははずした鎧戸を窓辺に置いて、ため息と共に窓から顔を出した。
 夕暮れのヤッカは明かりが灯り始め、行き交う人々は酒場に吸い込まれていくようだった。そう言えばこの町は何とかという酒が有名だった。冬の寒さを乗り越えるために、酒造りが発展したのだという。
 どうせ風も止みそうにないし、どこかに飲みにでかけてもいいか、と捨て鉢な気分になりながら、何気なく視線をやった先にロイはふと目をとめた。ぞくりと鳥肌が立ち、次の瞬間には部屋を飛び出していた。
 急いで通りまで出てみたが、先ほど見かけた人影は、もうどこにも見あたらなかった。
「こんな所に、いるわけがないか……」
 自嘲気味に独りごちて、ロイはそのまま酒場へと飲みに出かけた。そこでも何となくあきらめきれずに、リョジュンという名のリラ弾きを知らないか、と聞いてみたが誰もが「さあ」と首をかしげた。

 翌日になってもやはり強い風は止まず、船は出そうになかった。
 肩を落として港を出たものの、特にすることがあるわけでもなく、ロイは仕方なく町の中を探索してみることにした。ヤッカに大きな紙の工房があるとは聞いたことがなかったが、港町ということもあり、もしかするといい紙やインクを置いている店があるかもしれない。せっかく来たのだから、何かひとつぐらいいい品を見つけて帰りたい。
 風は強いものの、空は青く晴れ渡っていて恨めしいほどだった。道ばたでは子どもたちが楽しそうに走り回り、市場にも多くの人出があった。一通り見て回って、何種類かのインクと、めずらしい紙を一束手に入れてロイは宿に戻った。どちらも原価が高くて商売には使えそうにないが、ロイが個人的に使うにはとてもいい品々だった。職業病なのか、ロイは何でも書くのが好きなのだった。
 気に入る品を見つけたことに少し心を軽くして、ロイは宿の下にある食堂に昼を食べに下りた。食堂ではリラ弾きが来ており、客の注文を受けて様々な曲を演奏していた。それを少し複雑な心持ちで聞き流していたが、不意に耳に届いたある旋律にロイは顔を上げる。
 弾き方は似てもにつかない。それでも、聞き間違うはずがなかった。それは間違いなくリョジュンが最後に弾いた旋律だった。
 ロイは食べかけのまま勘定を済ませると、リラ弾きに詰め寄った。
「その曲、どこで覚えたんです?」
 突然のことに、リラ弾きの男は目を白黒させながら、目の前に立ちはだかるロイを見上げた。
「何だよ兄さん。文句でもあるのか?」
「違うよ。今の曲、どこで覚えたんだって聞いてるんだ」
 ロイの剣幕に男は眉をひそめつつも、リラ仲間の間でよく弾く曲だというようなことを言った。
「ここにリョジュンがいるのか?」
「リョジュン? なんだいそりゃ。そんな名前のやつは知らねえよ」
 男は助けを求めるように店主を見やり、店主はうなずいてロイの前に立ちはだかった。
「お客さん、なんだか知らないけど、邪魔しないでくれないかね。そんな恐い顔で騒がれちゃ他のお客さんの迷惑なんだよ」
 そこでようやく周りの視線に気づき、ロイは頭を下げた。
「ああ、申し訳ない。友人の作った曲にそっくりだったものだから、つい」
「嫌だねえ。俺がまるでそいつから盗んだみたいに言わないでくれよ」
「いや、そういうわけでは」
「これはロウってリラ弾きがよく弾いている曲で、やつがみんなに譜を書いてやっているんだよ」
「ロウ?」
「そうだよ。あいつは二弦弾きだが、四弦の譜も書いて、チビどもに教えたりしているんだよ。盗ったってんならロウだろうから、詳しいことはロウに聞いてくれよ」
 頭がこんがらがってよくわからなかったが、どうしようもなく鼓動が早まった。
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