第4話

文字数 3,442文字

 それから何日か続いた雨が止むと、すぐにサルーガルの演奏会の日がやってきた。
 父親と舞台に立つことを楽しみにしていたロベルトの息子ににらまれつつ、リョジュンはロベルトの膨大な荷物を抱えて、兄弟子のニイドと共にサルーガルへと旅立った。
 サルーガルはルーベンの西にある大きな町で、ルーベンよりも大きな劇場がいくつもあった。ルーベンほどではなかったが、サルーガルでもリラは人気で、ロベルトの譜はここでもよく売れていた。今回も、先日リョジュンがロイの元に受け取りに行った譜の写しを、新たに三百部携えてきている。
 半日ほど二頭立ての馬車で移動すると、サルーガルの古びた町並みが見えてくる。サルーガルはルーベンよりも古くから発展した町で、古い時代の建物がよく残っているのである。劇場に着くと、支配人は彼らを近くの上等な宿へ案内した。
 それはとても広い部屋で、ルーベンでは見ることのない、美しい装飾がそこかしこに施されていた。調度や飾られている花などもきらびやかでまぶしい。
 ロベルトの自室は概ねこんな様子だったが、いつもは宿舎の灰色の石壁しか見慣れていないリョジュンは、当然こういう待遇に慣れていない。そわそわと落ち着かない面持ちで入り口に立ちつくしていたが、ロベルトに怒鳴られて、どうにか部屋の奥へ荷物を下ろした。ニイドは別の部屋をあてがわれていたが、リョジュンはロベルトの身の回りの世話をするため、彼と同じ部屋に宿ることになっている。
 荷物を開くと、中から真っ先にリラを取り出して部屋の隅に置き、ロベルトの着替えや、舞台でまとう衣装などを手際よくクローゼットに収めていく。テーブルの上に用意されていた水差しから香草で少し香りを付けた水を注ぎ、窓から外を眺めているロベルトの手元にそれを置くと、ロベルトは窓の外を見やったまま、カップを受け取った。
「せっかくいい宿に泊まれるのだ。お前ももう少しくつろいだらどうだ」
「あ、はい。でも、あの……」
 言いよどむと、ロベルトが彼をふり返り、そのハシバミ色の瞳と目が合うと、思わずびくりとリョジュンの肩が揺れた。
「何だ」
「あの、外で、弾いてきても、かまいませんか?」
 それを聞くと、ロベルトは大きく息をついた。
「お前は本当に、いつもリラのことばかりだな」
「すみません」
「まあいい。あまり遠くへ行って迷子になるなよ」
「はい!」
 リョジュンは、はっきりとそうわかるほど目を輝かせ、部屋の隅に置いたリラを取りにきびすを返す。
「そうだ、ボンクラ」
「はい」
 ふり返ると、そこに待ちかまえていたロベルトの笑みに、リョジュンは何か不穏なものを感じて、ぴたりと動きを止める。
「近頃のお前の音を聞いていて思うのだが、弾き方に強い癖が出ていないか」
 どきりと胸が脈打った。リョジュンは動くことができずに、ただロベルトを見つめる。
「私はあんな風に編曲した覚えはないのだがな」
「も、申し訳ありません。その、指が滑って」
 ふむ、と息をついて、ロベルトはゆっくりとした動作でカップをテーブルに置く。カツン、と堅い音がやけに大きく響いた。
「私の書く曲は難曲も多いが、お前にはもう弾きこなせないものなどないだろう? それとも、私の書くものでは飽き足らないとでも?」
「ま、まさか、そんな!」
 ロベルトの指が、カップのふちをゆるゆるとなでた。
「お前は私の曲を、私の言う通り、私の選んだ場所で弾いていればいいのだよ。ロベルトの左手(ヨド)と言えばリラ弾きのあこがれ。そしてお前は私のかわいい五人目の弟子だ。私はお前に何も不自由はさせないつもりだ」
「不自由なんて……今でも充分、僕にはもったいない、ぐらいです……」
「そんなことはない。私はお前のリラの腕は認めているのだよ。左手(ヨド)の中ではお前は一番腕がいい。だからこそ、こうしてサルーガルにお前を伴ってきたのだ。それでもまだ私の言うことが信用できないかね?」
「あ、いえ、そんな……」
 リョジュンの怯えた目を見ると、ロベルトは笑みを深めた。
「私もお前に追い抜かれないよう、精進しなければならんな。お前ほどの腕なら、独立して一派を打ち立てるのもいいかもしれんぞ」
 とんでもないという風にリョジュンは(かぶり)を振った。
「先生は特別なお方です! それを追い抜くなんて、そんなことは誰にもできるはずがありません」
 ロベルトは、くくっとのどの奥で笑い、さあ、と部屋の隅を指さした。
「今の内に弾いてこい。日が落ちれば演奏会が始まる」
 リョジュンは声もなくうなずくと、じっとりと背中に汗をにじませながら、リラを抱えてロベルトの部屋を出て行った。
 その日、リョジュンはニイドと共にロベルトの前座を務めたが、ロベルトの譜を忠実に再現することに神経を集中させたため、音は堅く、くぐもって、リョジュン自身何を弾いたかよく覚えていなかった。


 瞬く間に三日が過ぎ、演奏会も最終日となっていた。その頃になってリョジュンはようやく緊張から解き放たれ、自分のリラの音を聞く余裕ができてきた。ニイドが小さな失敗を繰り返していることにも、ようやくその時に気がついた。彼は最近手首の調子が良くないのだ。そのためか、リョジュンにやたらとつっかかってくるような所がある。
 この日の演奏も、どこか精彩を欠いていて、最後の一音も音程がわずかにずれていた。とはいえ、彼もロベルトの左手(ヨド)であり、調子が悪いとは言っても、観客を総立ちにさせるだけの演奏ではあった。
 しかし舞台袖に戻ってくると、いらいらした様子で、首に巻かれていた飾り布をぞんざいに外してリョジュンに投げつけると、よろめいた彼に肩をぶつけながら、劇場の隣の酒場にしつらえられた控え室へと戻っていった。
 それを呆然と見送りながら、続いて姿を見せたロベルトへ彼のリラを手渡す。しかしロベルトはいつものように舞台へ出ようとはせず、いったん幕を閉じさせた。リョジュンが訝しげにそれを見守っていると、周りにいた人々を舞台袖から追い出し、ロベルトは何故かリョジュンの背を押した。
「先生?」
 ふり返るとロベルトは宿で見せたような、暗い笑みを浮かべていた。
「お前に、大事な仕事を任せようと思う。絵の後ろに座れ」
 ロベルトはリョジュンに手に持っていた譜を押しつけるようにしてわたす。リョジュンは驚いてロベルトの顔をただ見つめた。
「お前には、私の演奏を真似ることができるだろう?」
「――先生、何をおっしゃっているのか、僕には……」
「簡単なことだ、お前があの絵の裏で弾くのだよ。そのために用意させた」
 全身がふるえ出すのがわかった。
「せ、先生――」
「かわいいお前に、大事な仕事を任せてやろうと言うのだ。もっとうれしそうな顔をしたらどうだ?」
 ロベルトは、ふるえているリョジュンの耳元に顔を寄せる。
――これからはお前が私の代わりに弾け
「お前にはとても才能がある。しかし、お前には譜を書く能力も、客を集める能力もないだろう。だから、お前は私の影となって私の音になればいい」
 ロベルトがいったい何を言っているのか、リョジュンにはよくわからなかった。ぶるぶると首をふると、そのあごを捕らえられる。
「よく聞け、ボンクラ。お前は、このロベルト・ウルの音になれるのだ。リラ弾きの頂点にいて、全てのリラ弾きはこのロベルトにあこがれ、敬い、神聖視している。そのロベルトの音をこれからはお前が奏でる。これ以上の名誉はないじゃないか」
 鼓動が自分でも聞こえそうなほど打ち、リョジュンはのどを引きつらせながらなんとか息を吸った。
「でも、先生、それでは……」
「まだ若いお前にはわからんだろうが、ずっと同じ技術を保ち続けるのは難しいのだよ。しかし、観客はいつまでも同じ、いや、それ以上のロベルトの音を求める。その期待に応えるのが私の仕事なんだ。輝けるロベルト・ウルであり続けることがね」
 ロベルトは笑ってリョジュンのあごを放すと、さあ、とリョジュンを舞台へ(いざな)った。
「もちろん、お前には特別な地位を約束しよう。報酬も増やしてやるし、新たな譜でもリラも何でも与えてやる。大丈夫だ。お前は私の癖を熟知しているからうまくやる。それにこの舞台は客席が遠い。気づかれることなどありえない」
 言いながらロベルトはリョジュンを絵の裏へ半ば引きずるようにして連れて行き、無理矢理に座らせると、ロベルトは手を伸ばして、そっとリョジュンの頬をなでた。
「だから、お前は私の言うとおりにやればいい。私のかわいいリョジュン」
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