第20話:東日本大震災への援助の輪

文字数 2,812文字

 AKB48「事務所等含め」10億円、ジャパネットたかた「5億+エネループ1万本+テレ東放送時の売り上げ全額約7千万円」、SMAPメンバー5人が「個人的に4億円以上」、レディー・ガガ、3億円以上内訳「自費1.5億円+チャリティーグッズ200万ドル以上」久米宏2億円、イチロー1億円、1億円以上の人のみ抜粋。もう一つ付け加えたいのは東北出身のコメディアン「サンドウィッチマン」震災直後からずっと継続して寄付金をおくり続けていること書いておきたい。

 しかし東日本大震災後の連立内閣の対応のまずさ、特に福島第二原発事故当時の94代菅総理の冷静さを欠いた怒鳴り声は国民の心証を害した。その後2012年は何とか野田佳彦が第95代内閣総理大臣に任命されたが、時、既に遅く、連立政権への期待は消えて、再び、自民党政権に戻り長期政権へと繋がる原因となった。2011年、夏休みに三橋は日本に帰ってきたが日本の惨状を見て日本のリーダーのリーダーシップのなさに愕然とした。

 そして日本の未来に明るい希望を見いだせずに2011年8月22日ラスベガスの病院へ帰った。この時、戸塚も茫然自失という感じで日本の現状を嘆きながら仕事にも手につかない日々が続いた。それでも日本の有名タレント、コメディアンや映画俳優などが次々に東北に入り炊き出しをしたりする姿にも勇気づけられ日本人も少しづすつ本来の生活に戻り始めた。また名前は出せないが大手ネット企業の中には企業の中に東北への募金の窓口を早くから立ち上げ積極的にネット募金活動をして会社の休みの度にその会社の社員達が交代で東北支援にバスで向かう姿にも感動させられた。

 日本の若者の中にも、すごい奴がいると感心させられ未来に希望がつなげたと感動した。もちろん、ラスベガスで医療研修をしている三橋もラスベガスで、東日本大震災への募金活動をして大学病院にも募金箱を用意し集まった募金を前述した大手ネット企業のサイトを通じて募金した。また有田クリニック内に募金箱を置き、戸塚は以前、勤めていた中島皮膚科にも募金箱を置いて集まるとネット募金を継続していた。そうしているうちに試練の2011年が終わり、2012年を迎えた。

2011年10月からノースラスベガスのビルの空いたオフィスを借りて土日の10時から16時まで三橋クリニックを始めて最初は大学病院を退院した皮膚科、神経科の患者の退院後のフォローと投薬を中心に大学病院付属クリニックとして開院した。そして神経科には夜眠れなくなった患者さんやギャンブル依存症の患者さんが多い事がわかりラスベガス特有の病気であるとまで言われた。その治療に睡眠薬だけではなく、朝の散歩とか食事の内容や時間の指導なども含めた総合的な治療方法を探し出すために、試行錯誤の日々が続いた。

 その他、皮膚科では夏場の過度の日焼けによる皮膚炎、びらん、ひどい時には潰瘍になった患者さんの治療。冬場の乾皮症、寒暖の差による夜の激しい掻痒症「ひどい・かゆみ」の治療薬と外用薬の塗り方、塗るべき時間の指定などの患者さん指導を徹底させた。これにより、わざわざ時間を作って遠くの大学病院に来なくてもノースラスベガスの三橋クリニックで治療できるようになった。そして年が明けると、大学病院で医療訴訟に強い弁護士を捜してもらい、面談し始めた。

 そして5人の弁護士のうち三橋のそりのあうハロルド弁護士と契約した。2011年12月三橋は電話でボストンのティモシーが三橋と結婚したいと言い、自分の生い立ちを始めてあかした。それによるとスウェーデンの貴族の末裔に生まれ、向学心に燃えて1991年、12歳の時、親元を離れてボストンの寄宿舎のある名門ジュニアハイスクールに入学し、学費、寮費共に支払ってもらった。学校に入学し、毎晩、勉強をしてボストンでもレベルの高い高校をめざし勉強していたが13歳の時、どうしても同級生のレベルの高さについて行けず、独りぼっちの日々が続いた。

 そして自分の才能のなさ、頭の悪さに劣等感を覚えた。しかし同級生のヨハンというデンマークから来た男の子と話が合うようになり、彼もこの学校のレベルの高さで、進級するのがやっとだとぼやいていて、2人とも意気投合した。しかしヨハンは頭の良さより、いくら稼げるかの方が大事だと言い、父にあらかじめ自分の分の遺産を分けて下さいと言いデンマークの父から20万ドルを送金してもらいアメリカに渡ってきた。そして1992年、13歳になり自分でSP500インデックスファンドを購入し投資を始めた。

 その話をティモシーにも奨めるとティモシーも父に事情を話して20万ドルを送金してもらいヨハンに言われるようにSP500インデックスファンドを10万ドルを400ドルで250単位購入し残金が10万ドルになった。その後、1997年18歳の時に大学進学をあきらめ、アメリカの大手銀行の事務員として女子寮に入り、働き始めた。そしてヨハンも大学をあきらめてGEに就職した。働き始めて2年目の1998年4月にSP500インデックスファンドが1100ドルで250単位売りを入れて27万ドルの純利益を得て、資産が37万ドルになった。

 その後、SP500が下げると、下げ止まりを待ち1998年10月に950ドルで221単位を21万ドルで買い残金が16万ドルになった。その後1999年12月末に1500ドルで221単位を売ると残金が49万ドルになった。その後は急激な下げがあり2003年1月上がり始め1120ドルで221単位を25万ドルで買い、残金が24万ドルになった。2007年3月に1550ドルで221万単位を売り残金が58万ドルになった。2010年8月に1550ドルで200単位を31万ドルで買い残金が27万ドルになった。

 その他に給料から20万ドルを貯金していたので資産合計が47万ドルあると打ち明けた。三橋が2012年4月にアメリカの医師免許をもらえる手はずになっているので、その後に結婚式を挙げようと話した。そして2012年1月12日にティモシーはラスベガスのキャシーの部屋を借りて生活を始めた。3月になると三橋も一緒の部屋に住み、3階にキャシーと戸塚が住み、2階にティモシーと三橋が住んだ。

 やがて2012年3月になり、医師免許の交付申請をネバダ州の厚生省にあたる機関に依頼する書類と治療日数、治療結果についての評価などを皮膚科のトミー教授が書き始めてくれた。そして3月25日に提出し3月28日受理されて、2012年4月1日付けでネバダ州での医師免許が三橋に交付されて、手元に米国での医師免許が届いた。その後、三橋が戸塚にスカイプで連絡して、こっちへ来るように言われ、戸塚は有田クリニックを退職して4月3日ラスベガスに向かうと連絡が入った。
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