第19話:医療援助隊で日本帰国

文字数 2,755文字

 そして朝食をとり朝になり、コックリしながら、三橋の電話を待った。すると10時に電話が入り、ラスベガスから北東7マイル、約10kmのネリス空軍基地から軍の兵士とドクター5人を養成すると言う連絡が入ったと伝えた。出発はと聞くと多分昼過ぎになるとキャシーに言い、帰り支度をして出かけて良いかと聞くと、もちろんですと言ってくれた。そして直ぐ帰り支度をして車を飛ばして11時頃に大学病院に着いて戸塚とキャシーが三橋に会い三橋が戸塚を連れ、皮膚科の教授室に行きトミー教授に日本の大地震の救助隊のドクターとして派遣して欲しいと言った。

 看護婦として戸塚もお願いしたいと言うと、わかったと言い回覧板を渡して自分達の名前を書けと言ってくれた。ドクターの欄に三橋、ナースの欄に戸塚の名前を書くとトミー教授のサインを書いて書類が完成した。医局で指示を待てといわれ医局で待つと11時半に、ここを出発すると知らせが入った。そして玄関前に集合と言われ行くと大きな軍用トラックが入ってきて兵隊が最初ドクターとして8名の名前を呼んだ。

 三橋も呼ばれ、次にナース20名となり戸塚の名前も呼ばれて集合した。 ナースの中には屈強な男性2人と弱そうな戸塚の3人の男性、ドクターには元気で腕の太い女性ドクター1人が含まれていた。そしてトラックの荷室の対面式の座席に着いて出発し15分ほどで基地について、大きなジェット機に全員が乗り込んだ。後でわかったが、これがアメリカ本土からの第一陣のアメリカ軍の救援隊だった。ジェット機に乗って数時間すると飲み物とサンドイッチが配給されて、食べ2回、食糧配給があり飛行機の中が寝たり起きてるしているうち米軍の横田基地に到着した。

その後、上官が三橋と戸塚に、ここで解放するから自分で帰れと言われた。そして、その上官に礼を言って飛行場を後にした。そして日付は3月12日になっていた。横田基地の出入り口でメモ用紙を見せると出してくれ、タクシーを捕まえた。タクシー運転手に、現状を聞くと国道の周り家もマンションも崩れている所がないと言われ安心した。


しばらくして拝島駅に着き、国道は混んでるか電車は動いてるのか聞くと2011年3月12日の朝7時になりタクシーの運転手がJR中央線、八高線、橫浜線も始発から動いてるが、幹線道路は、渋滞で動けないと伝えてくれた。どうしたのと有田先生が幽霊でも見るような不思議そうな顔をして三橋と戸塚の顔を見つめた。

すると三橋が建物で壊れたところはないかと言い戸塚にも見てこいと指示した。すると有田先生が正気に戻り、今日は早出して棚から落ちた書類や機材をかたづけてると言い特に硝子も割れてなくて、一部、食器が落ちて割れただけだと報告した。そして今日も、いつも通り診療を始めるところとですと告げた。やがて入り口から患者さんは来て大丈夫だったかと優しく声をかけてくれた。

それを見て、慌てて、三橋と戸塚は1階の奥の事務所に身を隠した。そして昼まで待とうとしてると、直ぐに有田先生が三橋先生に白衣を渡して1人の先生が事情があり休むと連絡あったので診察して下さいと言われ、はいと言って、診察室に入った。戸塚にもクリニックの制服を渡し、事務を手伝ってといわれ仕事を始めた。

 その後、三橋は中島皮膚科も訪ね、あまり大きな被害がなく安心し3月15日、成田空港からラスベガスに飛んだ。その頃、日本では福島第二原子力発電所の問題が起きて多くの放射能が飛散して近くの地域が立ち入り禁止になり、その後も長い間立ち入り禁止の期間が続いた。千葉の湾岸地域での液状化現象や予期せぬ問題が起きた。東北へ道路や電車の線路が寸断され3月の寒い東北で石油、ガソリンなどが極端に不足した。

 JRの必死の努力で、まず日本海側、新潟、秋田経由で青森、北東北に石油、ガソリンが届いた。その翌月には新潟から磐越線経由で郡山、南東北への石油、ガソリン輸送が行われ、往年の蒸気機関車を増設して、雪降る中、長い上り坂を克服して石油・ガソリンを届けることができた。このJR職員達の活躍は、テレビ、新聞、インターネットの報道で大いに賞賛された。

やがて暖かい春、夏になっても東北の漁村が町ごとなくなった心の痛手や親を失った子供達の表情を見ていると、なかなか日本人全体が平常時に戻る程、精神的に回復できなかった。しかし震災支援の輪は着実に広がり遠くは、台湾で加油・日本の輪が広がった。台湾全土の学校や職場、コンビニ、行政機関、至るところで募金活動が行われ、その結果、200億円を超える義援金が集まった。

 これについて、ある台湾在住の長いジャーナリストが解説した。「多くの台湾人が日本に対して好印象を抱いています。日本製品の品質をはじめ、日本人と一緒に仕事をしたことがある人でしたらその勤勉さを尊敬している。戦前の日本統治時代を知る人たちであれば、その頃がすごく良かったと感じていたり、懐かしくも思っていた。

 若い世代に関しては子どもの頃から本のアニメに慣れ親しんでいる。もはや日本のものは、すでに『自分たちの文化のひとつ』にもなっている。彼らは私たちが思っている以上に日本に身近に感じてくれている」2011年、未曾有の震災が東北で起きた。そこで日本を好きという気持ちと元来の困っている人を助けようという考え方が交わり一気に大きな広がりを見せた。

 台湾全土の学校や職場、コンビニ、行政機関、至る所で募金活動が行われ、その結果200億円を超える義援金が集まった。震災から1か月が経過した4月11日、日本政府は感謝の言葉を世界主要紙に掲載した。しかし台湾という記述はない。政府が1972年の日中共同声明「台湾は中国の一地方である」という当時の中国側の主張に日本が配慮したのだとも言われている。当然、日本人の中には納得ができない人たちも多い。

「台湾の人たちにきちんと感謝の言葉を伝えたい」ある日本人女性デザイナーの呼びかけで始まった『謝謝台湾計画』。彼女のツイッターのつぶやきがネット上で大きく広まり2千万円もの寄付金を集め、台湾紙『聯合報』と『自由時報』に感謝広告を出した。ちなみに東日本大震災後に行われた台湾チャリティー番組の呼びかけにより多くの寄付金が集まった。

 それは、民間・企業を含む金額で、有名なサッカー選手、歌手の「中田英寿」、「ビビアン・スー」、「ジュディ・オング」 ・「SMAP」その他から9月30日現在、合計98.8億円。孫正義、ソフトバンク社長が引退までの役員報酬を寄付。三木谷、楽天社長10億円。柳井、ユニクロ社長が10億円で会社含めると総額約21億円と巨額の寄付金が一気に集まった。
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