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文字数 2,076文字

 連夜、あの悲鳴と殴打のあいまのけだもののまぐわいのうちに、身ごもったわたしは、あのとき何歳だったのでしょうか。思い出せない。女になるかならないかだったということしか。あの子を産んだとき思ったのは、とにかくこんなに血まみれになるのだということ。そしてまた(いくさ)。あの子を抱えて逃げました。布を巻いた木切れ替わり。幾度もふりかえって見た、自分が点々と血のあとをつけてきていないか。夫は殺され、ああ(しゅ)よ、主よ、感謝します、あの男は寸刻みになって殺され、わたしは逃げました、本能的に。行くあてはなかった。残ればまた別の男の戦利品になるだけ、といって、それがべつに嫌だったわけでもない。この子を守らなければと思ったわけでもない。どうでもよかったのだけれど、とっさに逃げたのです。途中で気がついた、おとなしく残って捕虜になったほうが賢かった、飢えずにすんだし、次に来るのがどんな男でもあの金髪のけだものよりはましだったはず。でも足は前へ前へと進むのでした。服のすそにやぶの棘がからむので、引きちぎりながら走りました。とにかく遠くへ、遠くへ。誰かが追ってきていたなら、あの服のはぎれとそこについた血の匂いでわたしの居場所がわかったはず。
 川原に出ました。広い川原。白い砂礫と、浅瀬、音を立てて。ああ、水。中洲を囲むように、二手か三手に分かれて流れていた。水でした。わたしはあの子を石の上に寝かせて、思うぞんぶん冷たい水を飲み、顔と手足の傷を洗いました。声をあげそうになるほど傷口にしみたけれど、あげなかった。川と、わたしと、小さな唇で泡のような音を立てている赤ん坊以外、風景の中に動いているものがありません。思い出せるかぎり――喜び、と呼んでいい感情の初めての記憶は、あのときです。この川の水を、わたしはみんな飲んでもいいのです。好きにしていいのです。川はわたしのものだった。いえ、わたしが川のものでした。川面に昼の日が当たって、無数の鏡にわたしは囲まれていました。
 子どもを抱いて、現実に戻りました。あの子に乳房をふくませても、乳が一滴も出ないのです。まる一日以上、何も食べていませんでした。二日だったかもしれない。小さな手の、ほんの小さな、小花の花びらのような爪がわたしの肌をかすり、わたしはあの子の唇を自分の乳首から離して、つくづくと顔を見つめました。天使、というものがあるなら、こういう顔で主のお側で、竪琴を鳴らしていそうだと思いました。吸いつくような瞳。日の光に透けるまつ毛。うすい唇。どこからどこまで、あの男に、そっくりなのです。子どもは弱々しく泣きだしました。わたしと同じく飢えているのでした。川の音にまぎれるかまぎれないかの声が、流れていきます。けんめいにわたしの顔に手をのばすあの子を見つめながら、わたしは、全身の血が吸いとられていくのを感じました。
 このままではこの生き物に殺される、そう思いました。全身の血を吸いつくされてわたしは死ぬのだ。それでもよかったのです。どうせ生きている意味などなかったのだから。なのにわたしの手は、岩の表を確かめていました。卵を割るときを思い出し、平らなところと、角と、どちらがいいか冷静に考えました。角はあんがい、めりこんだ後の始末が大変かもしれない。平らなほうが確実ね。そう思いました。それまでもわたしはきっと、何度も、何度も、わたしの両手の想像の中であの子を叩き殺してきたにちがいありません。いま初めて、それを実行に移すだけ。岩は青みを帯びて、縞があり、美しい灰緑色でした。たえまないせせらぎの音。川とわたしとこの子以外、誰もいないのです。
 そのはずでした。
 人の声が、わたしの耳を打ちました。男の叫び。
 何と言ったのだろう。覚えていません。
 でも人語でした。
 あの人は水をはねかえしながら、もう瀬の半ばまで来て、立ち止まっていました。そこから、膝で水を押し分けるようにして、こちらへ渡ってくるのでした。鎖帷子(くさりかたびら)(かぶと)はなかった。わたしから目を離さず、けれども足はまっすぐこちらには向けず、わざと斜めにはずして、遠巻きに近づいてきました。手負いの獣に近づくときのやりかたです。まだ、お(ひげ)はなかった。あなたも若かった。固まったわたしの手をはがすようにして、子どもをとりあげ、あなたが片手で抱き上げると、子どもは驚いてちょっと泣きました。あなたは無言でもう一度子どもをわたしに抱かせると、子どもごとわたしをかるがると抱えあげ――
 海の匂いだと思いました。
 潮と岸壁の匂い。
 自分があのとき海を知っていたのか、さだかではないのです。でも後になって海を見たとき、このとおりだったと思いました。深い緑。灰色。塩と、濡れた海藻と、断崖に群れるおびただしい海鳥の匂い。あなたからは海の匂いがした。無数のさざ波の乱反射を背にして、城へ歩いて帰る途中、あなたは一度だけ立ち止まってわたしの唇を求め、わたしも与えました。あの日あなたはわたしの夫になり、あれから、いまこの瞬間にいたるまで、あなたはわたしのただ一人の人、ただ一人の男です。

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