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文字数 1,633文字

 あの人の横顔が、好きでした。遠くを見ているあの人の、深い水のような色の瞳を、斜めからそっとのぞきこむのが好きでした。しばらく見ていると、あの人もわたしに気づき、笑って、何?と、声に出さずに唇だけで訊くのです。何と訊かれても、何もない。ただ、そうしていたかっただけ。
 幸せだったか? いま、それを言わせるの? そうね。あの人に会うまでのわたしには、幸せなど、ひとかけらもなかった。そしていま、すべてを失ってみて、思えばあれが幸せというものだったのかもしれませんと、そう言わせたいのなら、言ってあげる。でも正直言って、あのときのわたしには、よくわからなかった。ずっととまどっていました。もう打たれなくてもいいのだということを理解するのに、だいぶかかりました。まして、安心していいのだ、大切にされているのだなんて、長いあいだ、信じられなかった。これは、何?と思っていました。こんなに優しくしてもらうからには、わたしは何かをしなくてはならないのだろうけれど、何をしたらいいのかが、わからないのです。
 こんなに穏やかで、満ち足りて、安らかに息をしていていいのだろうか。そんなはずがないのに、また朝がくれば、(うら)らか。あなたと同じ食卓ですするスープの味を、おいしい、と感じて、きゅうに涙がこぼれて止まらなかったことがありました。あなたは驚いていらしたけれど、ついに、なぜとはお尋ねにならなかった。あなたもまた、わたしに会うまでのご自分の日々を、語らない人でした。一度、そっとうかがってみたら、あっさり「何もなかった」と(おっしゃ)ったわね。ああ、同じだと思いました。あなたも少年のころから炎と泥の中をかいくぐって生きてこられた、必要最小限のものだけを手に握りしめて。その手の中に、(よろこ)びというものを持たされたことがなかったから、わたしたちは二人とも、ひたすら、とまどうしかなかったのです。あなたは武人らしく無口だったけれど、ときどき、とほうにくれたようなお顔でぽつりともらす言葉が、飛びあがるようなことを仰るものだから、わたしは、いまも、すべて覚えています。本当よ。たとえあなたがお忘れでも、マクベタッド、わたしは覚えています。ふふ。「自分の手でも、おまえの手がふれたところは、そこだけ新しくなったような気がする」――そんなことをあなたに言われて、狂わんばかりに恋してしまわない女がいるでしょうか。
 ルーラッハはすくすく成長し、それにつれて、ますます美しい子になっていきました。しかも天真爛漫で、ひねこびたところが少しもないのです。どういうことなのでしょう。夫を本当の父親と信じて疑わず、いつもあとを慕ってついて歩き、あの人に抱きあげられて頬ずりされ、髭がちくちくするのを声をたてて喜び、自分が父母のどちらにも似ていないことを、なんの不思議にも思っていないようでした。少なくとも、まだ。わたしは夫の愛におびえるのと同じくらい、ルーラッハの健やかさにもおびえていました。こんなことでいいはずがない。きっと、いつかきっと、もとの父親の残忍な血があの子の中で芽吹き、毒の花を開いて、何もかも呑みこみ、腐らせていってしまうにちがいない、――
 ああ、どうして、わたしはこんなふうにしか考えられないのだろう。考えられなかったのだろう。いまここに、あのときあの場にあるものだけを見つめて、生きていけなかったのだろう。先を、見てしまうのです。美しいもの、貴いものが、こわれ、くずれ、ちりあくたになって消える幻が見えてしまうのです。その恐怖、その瞬間がおとずれるのを待つあいだの耐えがたさに、わたしはその瞬間をみずからたぐり寄せ、つぎつぎと切り裂いていかずにはいられなかった。怖かったのです。許してください、愛するマクベタッド、ルーラッハ、どうか。他の者に詫びる気はありません、彼らは自分の罪をあがなっただけ、ただ、夫と息子だけは。あの二人を血の海へ追いやったのは、あの二人を腐らせた毒の花は、わたしでした。

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