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文字数 2,317文字

 ダンカンが死んだことは、わたし、いまでも、なんとも思っていません。殺されて当然の男でした。マクベタッドでなくても、遅かれ早かれほかの誰かに殺されていたにちがいないわ。でも、バンクォーのことは、――笑うの? あなたにはわからないでしょうね。バンクォー殿のことを思い出すと、頭が割れるように痛むの。
 夫が王になったとたんに群がってきた有象無象(うぞうむぞう)の中で、バンクォー殿は数少ない、清廉(せいれん)の人でした。いえ、ちがう。もっとずっと前からのおつきあいだったかも。あなたにわかるかしら、精霊さん。夫の腹心の部下で親友でもある人を、誠実で頼りになるとずっと思ってきて、ある日突然気がつくのよ。わたしは、嫌われているらしいって。どういうこと? わたしが何をしたというの、彼に? それが、彼自身のことではなかったのね。純粋にあの人のために、わたしを嫌っていたの。
 もちろんわたしを嫌う人はほかにもたくさんいたわ。うやうやしくわたしの手を取ったあとで、部屋の隅へ行ってその手をこれ見よがしに拭いて見せたりして、しのび笑いが起きたり、そんなこと、日常茶飯事。夫は、気にするな、言いたいやつには言わせておけ、おまえがきれいだから嫉妬してるだけだと言ってなぐさめてくれたけれど、わたしはあの人みたいにおおらかにはなれなかった。わたしが魔女って、どういうこと? 本当に魔女なら、こんな世の中、とっくに変えてみせている。
 バンクォー殿が目を合わせてくださらないと気づいてから、毎日が、針のむしろでした。心の中にさそりがいっぱいいて、たえずかさこそと毒針をふり立てているようでした。わたしは、嫌な相手にならぺらぺらと上っつらの話ができるけれど、本当に友だちでいてほしい人の前では、舌がはりついてうまく話せないのです。死ぬほどの勇気をふるって声をかけても、聞こえないふりをして行ってしまう。とうとうある日、退出していく彼を待ち伏せして、呼びとめてみました。
「わたしが――わたしの――」ああ神よ。「わたしのどこがお気に召さないのでしょうか、バンクォー殿? 正直に仰って。直しますから」
 バンクォー殿の目は、やはり、冷ややかでした。「直す、とは?」
「悪いところがあれば」
「あれば、とは?」
 嫌悪どころか、憎悪に近い光。息がつまりそうになりました。
「わたしの口から申しあげられるのは」刺すような声。「王はいま大変お忙しいので、あまりお心をかき乱さないでいただきたいと。いや、これも差し出口でした」
 そう、あの人は忙しかった。隣国イングランドで疫病がはやり、それがスコシアの国境を侵しつつあったのです。高熱を発して咳がとまらず、あっというまに死に至るという病。またはのどに数珠状のかたまりができ、そこから熱と痛みが全身をむしばんでいく。イングランド王エドワードは聖王として名をはせ、手でふれるだけで病を治し、祈りのために白い石を積んでウエストミンスターとかいう教会の建設を始めたそう。いいの、何をしてくれても。問題はあの仔ウサギのマルカムがエドワード王のもとへ逃げこんだということ。いま? この状況で? 何を考えているのだろう、あきれてものが言えない。あの子の走った道を逆流して疫病がスコシアに伝わってくる幻に、みんなおびえています。うちの殿は現実的だから、教会を建てるなんて以前に物資と看護の修道士の派遣を検討しはじめたけれど、病そのものと同じかそれ以上に危険なのは、その恐怖の幻のほうです。なんとしても水際でくいとめなくては。
 でもわたし、お役に立てないまでも、殿の足手まといになるようなこと、したかしら?
「じゅうじゅう、気をつけて、おります」声がふるえました。ああ、泣いてはだめ。「わたくしに何か落ち度がありまして?」
 バンクォー殿は二、三歩近づいて、わたしをつくづくと眺めました。
「落ち度」鼻で笑われました。この人、前はこんなではなかった。「あえて言えば、あなたの存在そのものでしょうね、王妃。失礼します」
「わたくしについてのうわさですか? 根も葉もない――」
「わたしは魔術など信じてはおりませんが」ふりむいて言われました。「そんな、露をためた朝のバラのようなお顔で男をとろかす貴婦人にだまされるほど、愚かでもありません。悲しくもないのに泣くのはおよしなさい。ついでに一言。こんなご時勢なのですから、お遊びもほどほどに」
 まわりの風景からすっと色が消えました。「なんのことでしょう?」
「毎晩、宴を催しておられるとか」
「まさか」
「おや、まちがいでしたか。だが火のないところに煙はとも申します」
「バンクォー殿!」
 思わず、ひざをついていました。彼は歩み寄り、助け起こしてくれましたが、そのしぐさはあくまで、冷ややかでした。
「お立ちなさい、見苦しい」そうつぶやくのが聞こえました。それからはっきりと、「先日、ご令息に初めてお目にかかりました」
「ああ」ルーラッハのこと、この人にはどう伝わっているのだろう。
「王があなたをかばっておられる以上」お声にこもる黒い怒りが、やすりのようにわたしの魂を削っていきます。「わたしども臣下も、ご令息がタニストとされることに異議は申しますまい。だがわたしは、ご婦人の――ご婦人の――不貞だけは許せないのです。ご令息は王には少しも似ていない。この顔、この目、あなたそのものではありませんか。誰の子かとは訊きません。ただ、他の男の種をあのかたに押しつけておいて、よくも臆面もなく、あのかたの隣で、妻としてふるまえたものですね。疫病をスコシアに引き入れたのが、王妃、あなただという風説を、もみ消す自信がわたしにはありません。無礼の段、お許しを。ではこれで」

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