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文字数 2,278文字

 バンクォー殿をふくむ数名を粛清してから、夫はひとりごとを言うようになりました。誰かに話しかけながらふりかえっては、誰もいないのを見て立ちすくむのです。その横顔は、寂しそうでした。目の下の隈が消えなくなりました。ときどき召し使いに手を上げるようになりました。以前はけっしてなかったことです。その手を、じっとご自分で見ていたりする。夜中、寝入ったふりをして背中で聞く、あの人のため息。背骨にそって刃物で切り下ろされるような気がしました。ため息をつくような人ではなかったのに、ふっと息を吐き、それから、心臓を吐き出してしまいそうな音をたてるのです。わたしの心臓のほうが破裂しそうでした。
 からだを求められても、あの人の長い長い苦痛の延長にしかなりませんでした。わたしたちはもう以前のように溶けあうことができず、かえって二枚の皮膚がお互いを隔てていることを確認しあうだけでした。あなたはわたしの足の指を一本ずつ口にふくんでいくのだけど、それはまるでロザリオ職人が数珠玉の粒ぞろいを確かめるような几帳面さと執拗さでしかなく、わたしが泣きながら身をよじって逃れようとしても、強く握りしめて離してはくださらないのでした。もはや眠るな。きさまらは眠りを殺した。そんな呪いの言葉がバンクォーの声音でたえず響き、死にたいと何度もわたしは思いました。けれどもいまわたしが首をくくったら、ただでさえ危うい殿のお立場はどうなるでしょう。
 わたしは人前に出なくなり、それがますます、わたしが病んでいるといううわさに拍車をかけました。あの人ももう、何も言いませんでした。後悔というものをしない人だから、いったん決めて為したことの責任を黙って取るだけの人だったから、あの人が悔いていたとは思いません。悔いていたのはわたしです。あなたはわたしに会わなければよかったのだ。あの、水が三又に分かれて流れる輝く浅瀬で、わたしなどという呪われた獣を拾わなければよかったのだ。思い出はつねにあの日あの時に戻り、あの人が叫びながらわたしに手をのばす前に、わたしはわが身を青い岩に叩きつけて殺しました、何度も、何度も。あるいはあの日。ぽたり、ぽたりと、ダンカンの血。誰もあなたを責めなかった中で、たった一人だけ少年のように声をふるわせて、それでも、殺すことはなかったんじゃないでしょうかと言ったのは、マクダフ殿だったわね。皮のついたままの丸太のようなたくましい腕と脚をした、髭の濃いファイフの領主。彼だけが夫の戴冠式に来てくれなかったけれど、即位した後は思い入れを捨ててよく働いてくれたのです。マクダフに見はなされたら終わりだと、あなたはくりかえしつぶやいていたわね。
 そのマクダフが、マルカムのもとへ走りました。
 マルカムが、あの仔ウサギが、挙兵したのです。伯父で老練のシューアド将軍を先頭に立て、イングランドの援護を受けて。すべては彼がうちの(うまや)でいちばんいい馬のあぶみに片足をかけた瞬間に決まっていたにちがいありません。恐るべき大王の素質。敵ながらあっぱれです。ウサギなどではなかった。オオカミでした、それも手負いの。引き裂かれた背中に血をこびりつかせたまま、わたしたちののどぶえ目がけて一直線に走ってくるのです。その目の金色の輝き、牙の奥のうなり声が、目の前に見え、聞こえる気がしました。同じでした、わたしと。幼かったときのわたしと。すべてを奪われているから、何も失うものがない。怒りと悲しみと憎しみを、冷静に自分という炉に投げ込んで、その炎で何を焼いたらいいかを知っている者ほど、おぞましい相手はありません。
 マクダフ離反の知らせを聞いてあの人が上げた叫びは、屋敷じゅうの壁をふるわせるかと思いました。あんなけだもののように吼えるあの人を初めて見ました。いまとなっては聞いてくれる者もないけれど、わたしは誓って言います、あの人は叫んだのです、マクダフを捕らえて連れ戻せと、それがかなわぬなら妻子を人質に取ってこいと、

。当たり前です。マクダフも家族も、殺してしまったのでは、得るより失うもののほうがはるかに大きいではありませんか。
 マクダフ夫人のイソベルとわたしは、若い頃からの友人でした。イソベルが嫁いでからはマリとファイフ、北と南に離れてしまったけれど、手紙のやりとりは続けていました。わたしとちがって天真爛漫で、屈託というものを知らないイソベルの手紙には、いつも無邪気な家族自慢があふれていました。ねえ聞いて、うちの人ったら、力こぶに子どもたちを二人ともぶら下げちゃうのよ、面白いでしょ。あなたにだけ教えてあげるわね、まだ秘密よ、わたし、三人めができたみたいなの。女ってばかね、生むときは死ぬかと思うのに、赤ちゃんの顔を見たら、もう何もかも忘れて夢中になっちゃうのよね。ごめんなさい、わたし、思いやりが足りなかったわ、でも信じて、あなたの気持ちわかるのよグロッホ、わたしだって一人目の後は三年も恵まれなくて、お次はいつですかって聞かれるたびにくやしくて泣いたわ、あなたと同じよ……
 死んでしまえと思った相手が本当に死んでしまったら、どんな気持ちかわかる? 精霊さん。それも全員よ。生きたまま人質にとたしかにあの人は言ったのに、どこで命令がすりかわったの? 風にあおられて、ファイフの城は全焼したそうです。イソベル、子どもたち、生まれたばかりの赤ちゃん。わたしが殺した。わたしが殺したにちがいありません。マクダフ殿の絶叫が、断崖にとどろくのを聞いた気がしました。

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