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文字数 1,937文字

 わたしはどこへ行こうとしていたのだろう。
 いえ、ちがう。待っていた。あの人が帰ってくるのを。
 空を雲の走るのが速い日でした。といって、めずらしくもない。さっきまで灰青色の空に暖かみが射していたのに、きゅうに黒く(かげ)り、あっと思ったときにははげしく(あられ)がたたきつけて、窓辺でわたしはひたすら、ご武運を、と祈っていました。ダンカン王に対する反乱の鎮圧。これで何度目でしょう。柔和(にゅうわ)王、ダンカン。誰が呼んだか、ほめ言葉のつもりかしら。もしも先頭に立つ者が無能なら、統率力に欠けるなら、それだけで万死に値するとわたしは思います。部下たちがいのちを投げ出して守る意味がどこにあるの。わたしのマクベタッドのほうがはるかに生きるに値する男なのに。霰は窓からも降りそそぎ、わたしの顔と手をするどくたたき、床にも落ちました。そして、降りはじめたときと同じくらい唐突に降りやみ、見下ろすと、青草の上にも石垣の上にもひとしく、白いきららかな粒が散りばめられていました。聖書の、マナ、を思いました。選ばれた民の苦境に、天から野へ降りくだったという薄く甘いパンのかけら。でも、霰には味がありません。どうぞこれが吉兆でありますように、わたしはふたたび手を組んで祈りました。
 屋敷の中は静かでした。ルーラッハの笑い声が響かなくなってから、もう何年になるでしょう。あの人が、ルーラッハを他所で育てさせることに決めたのです。夫にとってもあの子にとっても、身を切るような別れだったと思います。
「しばらく、離れて暮らそう」
 そう告げられたとき、わたしは真っ青になって夫にすがりつきました。この人に棄てられたら、死んでしまう。
「ちがう、ちがう」マクベタッドはあまりのわたしの取り乱しように驚いていました。「ルーラッハだ。あずけ先はいま考えている」
「なぜ」
 思わず口をついて出た問いだったけれど、問うまでもなかった。「こないだのことね」
 夫はうつむいて、言葉を選んでいました。「いや。それだけじゃない」
「それだけじゃないのね」
「グロッホ」哀しい目でした。「そのほうがいいと思わないか」
 無邪気にスカートにまつわりついてきたルーラッハを、わたしが突き飛ばし、あの子は石の床で頭を打って気を失ったのでした。失う直前、わたしに対して見開かれたあの子の目の、驚きと恐怖の色。同じでした、わたしと。前の夫に殴られつづけていたときのわたしと。泣いて許しを乞いたい、あの子に罪はない、なのに、どうしても、どうしても、あの子を愛せないのです。あの金髪のけだものに生き写しだからというだけではありません。わたしはマクベタッドの子が欲しかった。でも、こんなに愛しているのに、そしてこんなに愛されているのに、あの人の子どもが、さずかりません。わたしが、壊れているのだと思いました。からだのできていないうちに犯されて、そしてあのおぞましい出産、やっぱりあの出血は、ただごとではなかったのだ。なぜ、きれいな、柔らかな、無傷のからだでマクベタッドと出会うことができなかったのだろうと思うと、くやしさで気が狂いそうになるのです。あの人の頬の美しい線、かきあげると鷹の羽のように立ちあがる前髪、長い指、あのかたちを受け継ぐ血が、この地上にひとすじも残らずに消えていくなんて。むだに流れる月のものを見るたびに、わたしは呪いの言葉を吐きベッドに倒れ、身もだえして苦しみました。夫には見せないようにしていましたが、知っていたと思います。夫は何も言いませんでした。ただ、あの人の中で、わたしの氷をときほぐそうと温かく流れていた潮のようなものが、しだいにあせりとなり、やがて静かなあきらめに落ちていった、その色の変化。あなたも隠そうとなさっていたわよね。わたしも知っていたのよ。
「おれたちにはルーラッハがいるじゃないか」、そうあなたが言ってくださったとき、わたしがあんなに泣き叫んだりしなければ。でも、もう遅い。
 チャク、チャク。コクマルガラスの群れが鳴いています。銀の胸をしたかわいい黒い鳥。また日が射してきたのね。殿、どうぞご無事で――
 執事の声で、その祈りのかなったことを知りました。
 早馬(はやうま)にて知らせ。ご戦勝。ダンカン王の御覚(おんおぼ)え、ことのほかめでたく。今宵、当家にて祝賀。用意おさおさ怠りなきようとのこと。
 ダンカンが来る。わたしの館へ。
 侍女たちを呼ぶよう言いつけて、執事を下がらせました。わたしの髪を結い直すためです。そう、衣装もあらためなくてはね。ダンカンが来る、ここへ。なんというめぐりあわせ。わたしの胸は躍っていました。何が「御覚え、ことのほかめでたく」でしょう。マクベタッドより六歳年上なだけ、卑怯な手段で王位をものにした、腰抜けにすぎないのに。

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