第64話

文字数 2,813文字

 最前線の庸軍騎兵隊は、後方の輜重隊が無力化されたことや歩兵隊が粉砕されたことにしばらく気づかなかった。それほど自分たちの前を逃げる騎馬民族軍に気持ちを奪われていたというのもあるが、やはり迂闊だったと言わざるを得ない。兵も未熟だったが総司令官をはじめとした将軍たちも力量不足だったのだ。
 彼らが異変に気づいたのは、それこそ輜重隊や歩兵隊と同じ理由であった。どこからともなく地響きと、それにともなう一種の圧力を感じたのだ。そこで反射的に振り向き、ようやく自分たちが歩兵や輜重隊から孤立しているのを知る。
 が、そのこと以上に彼らを戦慄させたのは、後方から迫るありえない大量の土煙であった。
「……」
 無言で、惰性で、馬を走らせ続ける。中には隣を走る馬と接触して落馬しそうになった者もいたが、他の誰もそれに構う余裕がなかった。
「まさか…」
 言葉にならない言葉が彼らの口から漏れる。今現在、この近くに自分たち以外の庸軍騎兵隊はいない。いや、もしかしたら北狄に撃ち破られた敗残兵を、誰か有力者がかき集め、援軍として参戦して来てくれたのかもしれない。
 が、彼ら自身もそんな夢想を心から信じてはいなかった。信じたくはあったが信じることはできなかった。そして現実が、彼らが最も信じたくない事態であっても逃げることはできなかった。
 ゆえに彼らは、全身を口にして絶叫した。
「…北狄だあ!!」
 ほんの少し前に輜重隊や歩兵隊が放ったのと同じ言葉が、同じ感情とともに庸軍騎兵隊を覆った。その感情ーー恐怖は、庸兵のギヤマンの士気を無惨にも打ち砕いた。もう、庸軍は軍隊ではなかった。
「なぜだ、北狄など他にいなかったではないか!」
 鬱積した連敗の屈辱と恐怖を打ち払えると、まるで一兵卒になったかのように遮二無二馬を走らせていた総司令官も、氷水を浴びせられたように我に返り、叫んだ。彼の疑問も当然である。このような事態にならぬよう、慎重に慎重を重ねて斥候を放ち、騎馬民族軍の動向を探らせていたのだ。その報告の中にこれほどの大軍が潜んでいるというものは一つもなかった。
「北狄どもは空を飛べるのか」
 似たようなあえぎを、かつて摂津の戦いで後背を突かれた孫佑も漏らしていたことを、彼は知らない。


 そして当然、神出鬼没の騎馬民族軍とはいえ、空を飛ぶ術は心得ていない。すべてはからくりがあり、からくりの種を作り出す男がいてこその奇術であった。摂津の戦いの奇術師はズタスだったが今回は別の男である。
 タクグスであった。
 タクグスは情報戦において騎馬民族中随一の能力を誇る。それは実戦で鍛えられた、骨太で鋭敏なものであり、平和に安住し、騎馬民族の襲来ではじめて本気になった庸軍の及ぶところではなかった。
 タクグスは南から北上してくる庸軍の動きを細大漏らさず観察していた。そして彼らの慎重な行軍と、常にない斥候の活発さに、自分たちに対する恐怖心を感じ取っていた。
 そのような相手が、どの程度の行軍速度で、どの道を通って、どの日時に、どこにいるかを予見するなど、タクグスには容易な話であった。
 また庸軍斥候の索敵範囲も調べ上げ、とある族の長に一つの提案をしていた。
「わたしが囮になり、この日のこのあたりの平野に庸軍を誘導します。それまであなたは戦場となる平野から離れたこのあたりに潜伏しておいてくだされ。ここならば庸軍の斥候にも見つからず、また当日に間に合うよう戦場へ到着することができましょう。その際、庸軍の動きはこのようになっているはずですので、こちらの方向からやってくれば後背を襲えるはずでござる」
 と、タクグスは地図を指さしながら事細かに告げた。希代の英雄であるズタスに見初められ、寧安陥落を成し遂げた軍師の言に異を唱える族長ではなかった。


 その族長とは、もちろんシン族族長口裂けサガルである。彼はタクグスの助言通り、自分を高く売りつけるため活発に動くことをやめたため、返って手持ち無沙汰の状態に陥ってしまっていたのだ。
 そこへタクグスの「庸軍北上」の話である。
「暇つぶしにはもってこいだ」と彼が思ったのは傲慢と自信が紙一重の自負からであったが、それでも自軍の損害を一兵でも少なくする算段を考えないわけにはいかない。弱兵の庸軍など正面からぶつかっても負けるはずはなかったが、被害が皆無ということはありえないのだ。それゆえサガルはタクグスの作戦を快く受け入れた。
 そしてそれは、単に自軍の兵の損失を恐れたからだけではない。サガルもまた、ズタスやタクグスを通じて用兵というものの有用さやおもしろさを感じ始めており、自然と学習と実施の機会を欲していたからでもあった。


 そして今、実施の段階で、サガルはタクグスの用兵の巧みさに全身を沸き立たせていた。
「タクグスどのが欲しい」
 この時になって初めてそう思ったのは、彼がただの猛将から知勇兼備の名将へ移り変わろうとしていたためか、あるいはさらに上の存在を目指そうとしていたためか。それはサガル自身にもわからなかったが、今の彼の意識は目の前の庸軍を撃滅することのみに収斂され、それ以外の思考はすべて消え去った。
「シャアッ!」
 全身を灼熱の猛火と化したサガルは、麾下の兵へ行動で命令を下す。先頭を切って庸軍のただ中へ突進、突撃したのだ。
「シャアッ!!」
 サガルに続き喚声を上げると、騎馬民族軍は庸軍の後背へ襲いかかった。
 その様は巨大な顎門(あぎと)が庸の馬群を食い破るようであった。


 すでに戦闘ではなかった。これまでの庸との戦いで何度も使われた表現だが、様相が同じである以上、使われる言葉が同じものになるのも致し方ない。
 背後から自分たちより強い兵に強襲された以上、庸軍には勝ち目どころか生き残ることすら不可能に近いものになった。現に馬群の中頃にいた総司令官も帰らぬ人となってしまう。


 余談だが彼の名を記してこなかったのは、どの史書にも残っていなかったからである。当時からそれほどに軽く見られていた人物であり、歴史上果たした役割も「第一次騎馬民族戦争において最後に撃滅された庸軍の将」以外に存在しないのだから無理はないかもしれない。
 だがそれでも、これほどの戦いの将軍でありながら歴史に名が残らなかったというのは異常と言っていい。あるいは実在しなかった人物なのではないかという意見すらあるが、軍隊に司令官がいないことはありえないのでこれは否定されている。南庸の史家たちが、ズタスが長城を越えて以来、最初からいいところなくやられている自軍の恥を少しでも薄れさせたいと、せめて最後の戦いについての記述を曖昧にしたいと筆をゆるめたのだという説もあるが、こちらの方がありそうという意見もある。
 とにかくこの件についての真相は不明であり、この「常永の戦い」の敗北から残ったのは、庸軍はこれ以後百年以上、北伐の軍を起こすことがなかったという事実だけである。

 
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登場人物紹介

ズタス……遊牧騎馬民族・コナレ族族長

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