第65話

文字数 3,436文字

 騎馬民族軍の庸軍への攻撃は、これまでに比べると手加減がされていた。落ち延びた兵が多いことからも確かである。
 これはタクグスの指示であった。
「彼らは南へ帰り、我らに対する恐怖を庸に決定的に刻み込んでくれましょう。これでしばらくは背後に憂いなく北での戦いに集中できます」
 歩兵の多数を見逃したのと同じ狙いだったが、まさか百年以上もの長い時間、彼らが南へ引きこもったままになるとは、タクグスですら予想していなかった。

 そしてこの時から「片頬が耳まで裂けた恐ろしい北狄の将」の存在は、南庸軍のみならず、南庸すべての民衆の中にも浸透してゆくことになる。攝津の戦いに続いての暴勇とともに、彼の異名が「口裂けサガル」ということも後に知られると、その名は南庸人にとって恐怖の象徴ともなっていった。
  

 庸軍を引きずり回す役を請け負ったタクグス軍五千は、結局戦闘には参加しなかった。参加するまでもないというのが主な理由だったが、実は今回の戦いのタクグス軍は異様であったのだ。それも最初から最後まで。
 彼らの戦い方は騎馬民族のそれではなかった。騎馬民族であれば、戦いそのものが「戦い」である。情報戦や陽動など、彼らの本懐ではない。必要にかられてそれらをしないわけにはいかないこともあるが、嬉々としておこなう者は稀であった。ましてそのような役をおこなった者は先の鬱憤を晴らすため、誰よりも一心に敵軍へ突撃してゆき首級をあげるものだ。
 が、タクグス軍からそのような者は一人も現れなかった。最初から最後まで脇役としての自分を徹底して貫き、そのことへの不満を漏らそうともしなかったのだ。
 これは彼らがタクグスにとっての精鋭である証だった。彼らはタクグスが北方の高原にある頃から育て上げてきた子飼いの兵なのである。南へゆくにつれて兵数は増えてきたが、自軍になじまないものは決して容れることはなかった。
 ゆえに彼らは騎馬民族軍では異様なほどの柔軟性と視野の広さを持っていた。その一端があらわれたのが、この戦いだったのである。


 そのタクグスが、兵を率いてサガルのもとへやってきた。すでに庸軍で生き残っている者は南へ逃げ去り、敵の存在はない。だがサガルの軍からはかなりの兵が消えていた。戦死したり逃げたりしたわけではない。後方に捨て置いた、輜重隊の物資を確保しに行ったのである。あるいは輜重隊の兵が物資をちょろまかして逃げ散っているかもしれないが、つかまえられる者はつかまえ、逃げ切った者の分についてはいずれ取り返す。なにしろこれからは彼ら騎馬民族が庸人の支配者になるのだ。好き勝手、分捕り放題であろう。
「タクグスどの、あなたの助言と助力のおかげで大勝を得られた。感謝する」
「なにをおっしゃるか。我らはただ逃げただけでござる。すべてはサガルどのの御力でござるよ」
「それこそなにを。タクグスどのには献策のみならず兵まで貸していただいて。さすがスンク族の精鋭、見事な働きでござった」
 馬上、数騎を従えただけでやってきたタクグスに、同じく馬にまたがったままサガルは笑顔を向け、タクグスも同様の笑いを返す。弱兵の南庸軍など正面から激突しても負けるはずもないが、このように鮮やかに、被害もほとんどないままに完勝できればこの上ない。
 実はこれは、サガルにとって一つの初陣であった。これまでの彼の戦いは、どれほどの強敵を撃ち破るものであっても、すべてズタスの麾下においてであった。彼を歴史の舞台へ押し上げたスッヅとの一騎打ちも例に漏れない。
 だが今の彼に主君はいない。この戦いは、初めてサガル自身が主導しておこなったものなのだ。
 その「初陣」において、これ以上ない快勝を他の者に見せつけられた。サガルからすれば、タクグスにどれだけ礼を言っても足りないほどである。
 しかも前述通り、この戦いにおいてタクグスはサガルに兵を貸してすらいた。
「囮の数があまり多くては庸軍の腰が引けましょう。かといって遊兵を作っても意味がない。一時、タクグスどのにお預けいたす」
 そう言ってタクグスは麾下の騎兵五千をサガルに預けていた。その兵たちの働きは、シン族の勇者に負けず劣らずであった。
 そのようなわけでサガルとしては、タクグスにただの礼物を渡すだけでは足りない気分だったのだ。


 が、一つだけ問題があった。
「タクグスどの、実は礼についてなのだが…」
 サガルが言い渋ったのには理由がある。礼物を与えることを渋ったのではない。むしろ彼の方が「もらう」ことを告げようとしたため、口ごもったのである。
 が、タクグスはすべてを察したように柔らかく機先を制した。
「そうでござったな。確か先の件についての礼物についてもまだでござったし、この際一緒に聞いていただこう」
「…欲しいものがござるか?」
 言い渋ったまま、とりあえずタクグスの希望を聞こうとサガルが尋ねると、タクグスは同じ表情のまま告げた。
「さよう。サガルどのにお預けした騎兵五千、そのままサガルどのの麾下にお加えくだされ。それが望みでござる」
 タクグスの迷いのないその言葉の内容に、サガルは驚き、むしろうろたえた。
「それでは礼にはならん。それどころかわたしの方がもらう立場ではないか」
 当然の解釈だったが、驚くサガルへタクグスは、さらなる驚きを与えた。
「わたしは北の叔父の下へ戻ります」
「北へ!? 故郷へ戻ったバジュどののところへか?!」
 サガルにとっては重ねての衝撃だった。バジュのところへ帰るということは、タクグスは央華大陸での覇権争いから離脱するということである。これはすでに央華で甘い汁を吸い始めた騎馬民族にとって異例といっていい。
 だがタクグスは端然としていた。彼の中で熟考した上での進退だったのだ。
「はい。ですがわたしの麾下にも央華に残りたいという者がいるのも確か。実はそれがサガルどのにお貸しした兵たちなのです。彼らをこのまま放り出してはいずれ散逸して野盗になるか、各族に吸収されるか、あるいは野垂れ死にする結果にしかなりますまい。それではせっかくの集団としての力と価値が失われてしまいますし、彼らの行く末も多寡がしれてしまいます。ゆえにサガルどのにまとめてお預かりいただきたい。サガルどのであれば、彼らを存分に使いこなしてくれましょう。また彼らもサガルどのの麾下へなら喜んで参入するとのこと。どうであろうサガルどの。受け取ってはもらえぬか」
 サガルとしては半ば開いた口がふさがらない話だった。もちろんタクグスを馬鹿にしてのことではなく、にわかには信じられない話として。
 タクグスはどこか普通の騎馬民族と違うところがあると感じてはいたが、まさかここまで異なっているとは思わなかった。騎馬民族は奪える物は根こそぎ奪う、食らえる物は食らえるだけ食らい尽くす。肥大し、巨大化し、際限なく貪り抜くのが習いといってよかった。それなのに自ら目の前の美食を捨て去るだけでなく、大事な自軍の兵を他者に譲ってしまうとは。


 そしてこの「礼」は、なるほど、確かにタクグスにとってだけでなくサガルにも益になることであった。それどころか、少なくとも表面的にはサガルにとっての益の方が大きい。うますぎる話ですらあるが、すでにサガルはタクグスを信用している。受け入れるに否やはなく、またこれからのため、喉から手が出るほど兵が欲しいサガルであったが、あまりの驚きに、つい質してもしまう。
「いやしかし、叔父上にも一人でも多く兵は必要であろう。それを勝手にわたしに譲っては…」
「残りたいという者を無理に連れ帰っても使い物にはなりませぬ。不満をくすぶらせて、結局は(そむ)くか離れるかにしかなりますまい。それでは互いに不幸になる。叔父やわたしには後ろにいる者たちだけで充分でござるよ」
 タクグスが背後にいる五千の騎兵を顎で指し示しながら言うことに、サガルもハッとして気づく。
 そうだ、騎馬民族の習性からみれば、全員が得られる果実の多い央華に残りたいと考えてもおかしくない。むしろそれが自然なのだ。だが暖かく豊かな央華を捨て、寒く乏しい北の高原へタクグスとともに帰ろうという者が五千もいる。これがまた異常な話であった。
 彼らはタクグスを信奉しているのか、あるいは彼ら自身が央華に来て変わったのか。そのことはサガルにはわからなかったが、彼らのような存在が現れたことが時代の変化を示す一端であることを、若い勇将は感覚として理解した。
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登場人物紹介

ズタス……遊牧騎馬民族・コナレ族族長

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