第12話

文字数 3,496文字

「明鴻街道の殲滅」は、寧安の朝廷にも衝撃をもたらした。一兵も残さぬ全滅など聞いたこともない。誤報であるかと考えもしたが、たとえ数人の兵士が生き残っていたとしても全滅には違いない。央華大陸全土を見ればまだ兵はいるが、これで北方のまとまった主戦力はほぼ壊滅したと言っていい。北狄の南下を防ぐためにも、実質的に支配された北方を奪還するためにも、全国から本格的な戦力の集結が必要になった。
「まごまごしている暇はないぞ。急がねばこの寧安とて危険だ」
 帝都である寧安は、央華大陸を俯瞰すれば「北寄り」にある。怒濤の勢いを得始めたコナレ族が帝都まで達する可能性は、低くはない。自分たちの安全にかかわることだけに、宦官派も士大夫派もさすがに諍いを納め、外敵に対しようとしはじめた。
 が、それでも楽観する気分もないことはない。
「たしかに北狄は強力だが、数は三万。大軍ではあっても央華全土を征するには少なすぎよう。それに連中の最大の目的は略奪だ。奪えるだけ奪い、両手に抱えきれないほどの獲物を手に入れれば、それで北へ帰ってゆくことだろう。被害は甚大にはなるし、再興に時間も費用もかかるだろうが、じっとしていれば去る嵐のようなものだ。耐えてしかるべし」
 当然北に住む民を見殺しにするつもりはなく、軍隊を編成して北へ向かわせ、北狄を撃退する。それでもこの暴風が一時のものであると考えるのは、宦官派も士大夫派も変わりはなかった。
 だが彼らの考えは甘かった。北からさらなる兵が南下し、益を占領したコナレ軍三万と合流したという報告は彼らにさらなる衝撃を与えた。しかもこの後、これ以上の衝撃が続く。
 彼らは自分たちが歴史の分岐点にいるという自覚を持ち得なかった。それを持っていたのは、北からやってきた蛮族の長だけであった。

「師よ、お待ちしておりました」
 北の首都・益で合流したコナレ族を率いてきたのはズタスの息子だが、その中に顧問として長年彼の師を努めてきた韓嘉もいた。ズタスは誰よりも先に彼に会いにゆき、そして丁重に礼を施した。韓嘉もそれを受け、静かにうなずくと、感慨深げに、しかしやはりどこか複雑さをにじませながら無言で周囲を見回した。
「……」
 韓嘉は庸の使者としてコナレ族を訪れ、そのまま半ば強制される形でズタスの師となったのだ。彼は帝都・寧安出身であるため、今いる場所は厳密には故郷ではなかったが、故国であるには違いない。このような望まぬ形の帰郷でも胸にあふれるものを抑えることはできないようだった。
「……」
 その師に対してズタスもしばらくなにも言えなかった。韓嘉の帰国は十三年ぶりのことである。それほどに長く離れさせ、そして「敵」としての帰国を強いたのは、他ならぬズタスであった。韓嘉はそれについてなにも言わないが、それもまたズタスにとって心苦しい。思えば三十代の青年であった師も四十を()うに過ぎ、髪には白いものが混じっている。ズタスが勧めても、コナレの地で妻を得ることもなかった。故郷に妻子がいるらしいとズタスはその時の韓嘉の様子から察したが、それについても互いになにも言わなかった。
「……略奪は、しばらくは致し方ありますまい。しかし一段落したら最小限に。よろしいか」
 央華人にとっては肌寒く、北方民族にはあたたかいとすら感じる涼風の中、そのどちらの感覚も持つ韓嘉は、静かに表情をあらためるとズタスにかねてからの方針を確認した。
「はい、わかっております」
「最初は仕方ありますまい。兵たちは略奪を楽しみにいくさの労苦に耐えておるのです。そして私たちと共に今到着した者たちも、それは変わりありません。だがいつまでも奪い、殺し、壊すのみでは長の野心はかなえられませぬ。彼らがひとまず満足を得た後は、違うやり方に変更せねば」
 繰り返し静かに語る韓嘉の胸中はいかほどのものか。騎馬民族の性情と現実を見ればその方針を取らざるを得ない。だがそれは、韓嘉にとっては同胞を見殺しにするのと同じことなのだ。そして彼自身は安全な場所で侵略者たちに手を貸している。
 それでもすでに十年以上をかけて覚悟してきた状況である。韓嘉の想いに変化はなかった。いずれ地獄に落ちるにしても、その道連れは一人でも少なくする。それが彼の、おのれにふりかかった数奇な運命に対する精一杯の抵抗であった。
 そして言葉では聞かないが、そのような師の覚悟を感じるズタスも神妙に応じる。
「はい、心得ております、師よ」
 それを見た韓嘉はうなずき、話題を変えた。
「さて、長よ。まずはここ益を一時的な根拠地として、周辺を攻略してゆくことになります」
「は、師にうかがった通り、この地は足場として使うには非常に便利でありますな」
「さよう、交通の要地であるし、広い平原でもある。防衛としては弱くありますが、長居をするつもりがない我らには都合がよいでしょう。それに騎馬の民は、攻城もですが籠城も苦手でありますし、今はまだ城壁のある地にこもっても害の方が大きいと思われますからな」
「は、さようですな」
 かねてから師兼対庸特別顧問である韓嘉と練ってきた方針をあらためて確認しつつ、ズタスは彼とともにやってきた同胞を見る。その人数は数十万を越え、中には女子供もいる。彼らが天幕を張り、住む場所を造る様子は、まるで一つの巨大な街を建設するに似た風景であった。
 そしてそれは、事実、その通りである。ここにいるのはコナレ族のほぼ全員であり、彼らは民族を挙げて「引っ越して」きたも同然なのだ。
「これより我らは庸を征服する」
 その意志を、ズタスはこの行為によって庸の民に示す。これは彼の宣戦布告だった。
「しかし長よ、これからはさらに混迷は深まりますぞ」
 韓嘉はズタスに対し、そう告げる。これもまた彼らの間では何度も話し合わされたことだが、やはり確認しておかないわけにはいかない。これからの彼らの敵は、庸だけではなくなるのだ。
「覚悟の上です、師よ。ですが必ず勝者となってこの央華に君臨してみせます」
 混迷と困難とが倍増するであろうことはズタスもわかっている。だがそれを上回る野心が彼にはあり、成し遂げる自信も彼の内にはあった。

 三万のはずだったコナレ族が大挙侵入。しかも軍だけでなく民間人と言っていい者たちまで連れて長城内へ橋頭堡を築き始めたことに、庸の宮廷は震撼する。
 コナレ族に限らないが、北方の騎馬民族は、風のように侵略し、戦利品を抱えて風のように去ってゆくのが常套であった。だがこの行為は明らかにこれまでと違う。本腰を入れて央華大陸を侵略するつもりなのだ。
「馬鹿にするのもほどにせよ!」
 震撼すると同時に激しい屈辱と怒りを宮廷は爆発させた。それはそうであろう。いくら軍事的に劣勢とはいえ、央華は自分たちの土地である。それを蛮族とさげすんでいる相手が好きなように奪おうなど、実質的な被害以上に彼らの誇りを傷つけた。
「なにがなんでも北狄を駆逐する。あの者ども、無事に故郷へ帰れると思うなよ!」
「おうさ! ただの一人とて無傷なままで帰さぬ! 二度とこのような不遜な真似ができぬよう、完膚なきまでに叩き潰してくれようぞ!」
「それとても生ぬるい。奴らの故地まで攻め上り、その地からすら叩き出してくれる!」
 この時ばかりは宦官派も士大夫派もなく、すべての廷臣が北狄に対する怒りに燃えていた。庸の宮廷がこれほどに団結したのはこの時が始めてだったかもしれない。それほどに彼らの怒りは凄まじかったのだ。
 が、その怒りに、厚く重い鉄板が勢いよくのしかかってきた。これまで以上の凶報が、庸の宮廷を襲ったのである。
「さらなる北狄襲来! 次々と長城を越えつつあります!」
 それは意外でもあり、しかし必然なことと彼らはいまさらながら気がついた。
「コナレ以外の北狄どもか……!」
 コナレ族への怒りに燃えていた廷臣たちが、頭をかきむしりたい衝動に駆られる事態であった。
 北方の騎馬民族はコナレ族だけではない。コナレ族は騎馬民族の中ではたしかに巨大な勢力だったが、彼ら以外にも大小無数の部族がいるのだ。中にはコナレと同規模の大勢力もある。
 それらが大挙して防衛力を失った長城を突破してきたのだ。コナレ族の侵攻だけでも手に余る事態であるのに、さらなる侵略者が大挙して押し掛けてきた。しかもその数は減ることはなく、これからさらに増えるに違いないのだ。
 亡国の危機である。いかに政争に明け暮れるしか能のなかった彼らでも、防衛の戦意は衰えていなかった。だがこれからの困難を思えば、心に無力感が吹き抜けるのも自覚せずにいられなかった。

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登場人物紹介

ズタス……遊牧騎馬民族・コナレ族族長

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