第6話

文字数 4,329文字

 ズタスは学生に専念したわけではない。彼には族長としての責務が山積しており、本来はそれをこなすだけでも時間が足りないほどであった。しかし彼はどんなに忙しかろうとも、必ず韓嘉の講義を受ける時間を設けた。それはいずれ央華を我が物とするために必要だからというだけでなく、純粋に韓嘉の語る央華の歴史がおもしろかったからだった。
「なるほど、では褐王は姦計に欺かれ捕虜となりながら、そこから這い上がり、ついに天下に覇を唱えたのですか」
「さよう、一兵も持たぬ身に落ちながら、不屈の心と尋常ならざる努力をもって、王として返り咲きました。褐王が碧王を打ち破り、革命を果たした『棟協の戦い』は、央華史上でも初めておこなわれた天下分け目の決戦といってよいでしょう」
「それはどのような戦いだったのですか」
「褐王軍二十万が碧王軍四十万に挑む戦いでありました。その日は豪雨が襲い、戦場となった棟協も沼地のようであり、しかしこれは馬に引かせる戦車が一番の兵器だった当時、その数も質も劣る褐王軍にとって天祐でした…」
 ズタスたち騎馬民族に文字はない。伝承は存在するが、それは父祖から口伝で伝えられるもので、多分にあやふやで伝説性が強い。「歴史」とはそのようなものだと考えていたズタスにとって、韓嘉が語ってくれる央華の歴史は新鮮で臨場感があり、また族長の立場として学ぶべきものも多く、そして純粋におもしろかった。
 それは師である韓嘉の手腕にもよる。彼はズタスが興味を持ちそうな話を中心に講義を進め、その中で彼に「君主」として必要なものを巧みに教えていたのだ。言ってみれば帝王学である。韓嘉はズタスの師になると覚悟を決めた時から、手を抜くことは考えもしなかった。


 しばらくしてズタスは文字も覚え始める。先述した通り、コナレ族を含む騎馬民族に文字はないため当然央華文字ということになるが、このようなことは、戦場で剣を振り矢を射ることとあまりに勝手が違い、さすがのズタスも手に余ることが多かった。だが彼は、央華の文物をより楽しみたい、より知りたいという欲求に押され、徐々にではあるが確実にそれらを覚えてゆくと、数年のうちに完全に獲得してしまっていた。
 そのことにより、彼の学習能力も知識も、飛躍的に向上してゆくことになる。


 そしてそのような日々を過ごすうち、ズタスは央華の歴史を学ぶことが長城を打ち崩すために必要だと知るようになる。なぜ長城ができたのか。なぜ必要であったのか。それは央華民族を知らなければ理解することは難しい。
 その国の歴史を知ることが、そこに住む人々を理解するのに有効な方法であることをズタスは感得してゆく。それは表面的にだけではなくより深い意味で「敵を知る」ということである。このことが央華民族との戦いにおいて、この上ない武器になると、学はなくとも聡明なズタスはすでに理解していた。


 それら央華の歴史の数々がズタスに染み入りはじめたのを見て取った韓嘉は、いよいよ長城をはじめとする、庸の軍制度についても講義を始めた。韓嘉にしてみれば、ここまで教えることにためらいもないわけではない。これは完全な軍事機密の漏洩であり、利敵行為そのものだからだ。
 だが長年この地で過ごしたことで、韓嘉もさらなる心境の変化もあったのだ。それはズタスの人となりをより深く知ったことが理由の一つである。
「このままでは長は、私が央華のことを教授しようがしまいが長城を越えて我が祖国へ侵攻してゆくだろう。しかし長にできるだけ我らの思想を染み込ませておけば、無用な破壊や殺戮を減らすことができるやもしれぬ」
 ズタスは勇猛だが残忍ではなかった。鋭利な知性を持ってはいても狡猾ではなかった。その彼に純良な央華思想を注ぎ込めれば、あるいは侵略時に無駄な人死にを減らせるかもしれない。そう感じさせるものが、この北狄の長の中にはあるのだ。
 それどころか韓嘉の心中には「いっそ長に庸を治めさせれば…」という想いすら湧いてきており、さすがに頭を振ってそれを振り払う。そこまで考えてしまうのは、彼がズタスを心底から信頼し、敬愛するようになっていたからだが、同時にそれほどまでに庸の朝廷が末期的な状態であることも知っていたからだった。


 韓嘉に央華文明の講義を受けながらも、ズタスは自分の本来の仕事について忘れてはいなかった。それはもちろん実力を身につけること。力を身につけ、勢力を拡大し、長城の北に一大勢力を築き上げること。そしてその戦力をもって南下し、庸を滅ぼして史上初の騎馬民族の一大帝国を興すことがズタスの目標であった。
「とはいえ足りぬものが多すぎる」
 勢力が強くなってくると、戦わずして降って来る部族も多くなってくる。それは喜ばしいことではあるのだが、増えるのは純粋な戦闘力ばかりである。兵器その他の技術力という点では、同じ騎馬民族では得ようにも得られないのが現実であった。
「やはり庸人をさらってくる以外ないか」
 それはさほどめずらしいことではなかった。騎馬民族はもともと文化的な事柄について人材が乏しい。ゆえに略奪の項目には物だけでなく人も入っていた。とはいえさらってくるのは、文学や芸術の類を得意とする人間ではなく、工芸や建築、武器など実質的なものを作り出す技術者がほとんどだった。騎馬民族にとっては実際的なものこそが重要視されるものだった。ズタスのように、韓嘉に影響されたとはいえ、央華の文明や文化に興味を示す者はめずらしく、また軟弱とそしられる対象でしかない。それだけにズタスは、今はまだ自分が韓嘉に央華の文明や庸の文化について講義を受けていることは、一部の者をのぞいて秘密にしていた。


 が、それはそれとして、庸から人をさらってくるのも難しい。長城に守られているのだから当然である。長城を攻略するための技術者を得るために長城を越えなければならない。大いなる矛盾であり二律背反であった。
「やはりまだまだ時間はかかりそうだな」
 庸攻略を心に決めてすでに二十年。四十歳を越えたズタスは、騎馬民族の中で有数の勢力を築くに至っていた。すでに彼のコナレ族に互角に対抗できる部族は片手の指で足りるほどしかない。しかし彼は、いまだ自分が目的を果たす力を持ち得ていないことを知っており、そして自分の年齢に焦りを覚えはじめてもいた。
「全民族を統一することも、長城を克服する方法も手に入れられず、わしはこのまま老いて死んでゆくのか…」
 すべてを成し遂げる能力を得る自信は、ある。だがその自信がわずかにゆらぎはじめているのも事実であった彼は、同檎する妻妾の乳房を撫でながら、そんな弱気を覚えはじめた自分に老いを感じていた。


 ズタスは、ふと思い出し背後を振り返った。張堅はどうしているのかと思ったのだ。
 だがそこには誰もいなかった。あるいはまだ、長城の門の外で立ち尽くすか座り込むかしているのかもしれない。それとも自害でもしたのだろうか。
 ズタスにとってはどうでもいいことだった。彼は前へ向き直り、二度と張堅のことは思い出さなかった。


 だがそんな彼を天が哀れんだのか、あるいはただの偶然なのか、ありえないほどの提案が庸の一人の高官からなされてきた。男の名は張堅といい、その提案は「長城の扉を開けるゆえ侵攻してきてほしい。ただし条件はある。委細はいずれ。返書を請う」というもの。条件というところが気になるが、にわかには信じがたい話である。庸にとって絶対に開いてはいけない長城の門を自ら開けるとは。それは大げさではなく国家の自殺になりかねない暴挙であった。それゆえズタスとしても最初はこの提案の真意がつかめなかったのだが、この頃にはズタスの師としてだけでなく、対庸対策首席顧問のような立場にもあった韓嘉は、悲しげな表情で弟子に解説した。
「長よ、この提案はそのままの内容でございます。裏はありません。この提案をもって待ち伏せし、長たちコナレ族を壊滅させようという策でもございません」
「しかし師よ、それはおかしいではないか。なぜ張堅は祖国に仇なすようなことをするのだ。これでは張堅はただ国を滅ぼす賊臣として歴史に汚名を遺すのみだ。それは央華の民にとって死すよりつらいことであろう」
 央華の民は名誉を重んじる。それは騎馬民族とて同じだが、彼らと央華人とでは名誉の質に異なるところがあった。騎馬民族にとっての不名誉は、戦場で敵に背を見せて逃げ出す等わかりやすい類のものである。もちろん央華でもそれらの行為は不名誉だったが、彼らは史書におのれの名が悪名として遺ることを非常に恐れたのだ。

 央華文明は記録の文明である。文字を発明し、筆、墨、(すずり)、紙を生み出した彼らは、自らの行状を後世に遺す術を手に入れた。央華の歴史が始まって二千年以上。そのうち相当数の事績が遺っているのは、このためである。
 だがそれゆえに、彼らにとって相対(あいたい)さねばならない相手は同時代人だけではなく、後の世の民も含まれるようになった。そして後の世とは、数年、数十年という短さではなく、数百年、数千年を越え、人類が滅びるまで続く永劫の時という意味でもある。人が滅亡するまで、おのれの名が悪名として遺ってゆく。その恐怖は央華の、少なくとも士大夫(貴族)以上の立場にある者たちが共通して持つ心情であった。「自分が死んだ後のことなど知ったことではない」という考えは、彼らにとって野蛮人の思考なのだ。
 もちろん、なんの名も遺さずに死んでゆく人がほとんどであり、そうであるならたとえ悪名でも歴史に名を遺したいと考える者もいないわけではない。だがそのような者はやはり多くはない。
 また悪名を遺してしまう者でも、最初からそのつもりである者も少ない。彼らとて、すべては善意からおこなうのだ。だが人の世は、善意から始まっても悪行で終わってしまう事績も少なくなかった。歴史は彼らの思想や目的でなく「行為」の功罪を断じるのだ。
 中には悪行を為した者たちの、せめて善意だけは理解してやりたいという後世の史家もいる。歴史の評価とは一つだけではなく、無数に存在するのだ。

 だが、この張堅の行為はそれにはあたらないとズタスは感じた。それはそうだ。祖国に歴史的敵対民族を招き入れるなど、「国を売る」という悪意か狂気かを持たなければなしえない行為である。
 ズタスのその考えに、韓嘉はゆっくりと悲しげに首を横に振った。
「いえ、長よ。張堅のこの行為も、確かに善意から発せられております。彼にとってこれが祖国と皇帝陛下に対する忠義そのものなのです」
 そう聞かされて目をむくズタスに韓嘉は静かに説明を始めたが、これは後に詳述したい。

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登場人物紹介

ズタス……遊牧騎馬民族・コナレ族族長

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