第42話

文字数 3,775文字

 が、破局はいきなり、庸軍にとってまったく思いもよらぬ形でやってきた。
 夜ともなれば騎馬民族軍も上陸はあきらめる。暗闇での上陸など水に慣れた庸軍ですら危ない。まして泳ぐこともままならない騎馬民族であっては。
 ゆえに庸軍も夜はそれなりに緊張をゆるめることが出来た。もちろん警戒を解くことなどありえず、交代で騎馬民族の船団を見張ることはやめない。が、緊張の持続に耐えるのが難しい弱兵にとって、夜は比較的心平らかに過ごせる唯一の時間であることも確かである。
 そして北河へ向かってはともかく、絶対安全であるはずの南ーー後背への警戒はより薄くなる。一応そちらへも歩哨などを配しているが、北に比べてぞんざいになるのは無理からぬことだった。

 騎馬民族の船団が北河の南岸に現れて三日目の朝である。
 太陽が最初の光を発した直後、陣の南側を警備する若い歩哨の一人は、大きく伸びをしながらあくびを漏らす。もうすぐの交代時間を楽しみにしていた。
 が、次の瞬間、いぶかしげに目を細める。若いがゆえに目がよく、誰よりも早くそれを見つけることが出来たのだ。
「なんだ…?」
 砂塵である。左ーー東からの薄い陽光の中でもわかるほど大量の砂煙であった。最初はつむじ風や竜巻の類かと思い、自然の猛威への警戒心を強めた歩哨だったが、それ以外に伝わってくるものもある。地鳴りだった。小刻みに地面が揺れている。地震とは違うそれが、新兵である彼には何によるものかわからなかった。
 が、少し離れたところに立っていた古参兵は、砂塵と地鳴りの原因が同一のものであることを知り、反射的にその正体に気づくと、一瞬にして総毛立って悲鳴に近い叫びを上げた。
「…北狄だあっ! 北狄が南から来たぞぉッ!」
 その叫びが他の歩哨や、急を全軍に知らせるための銅鑼係に届くには時間がかかった。彼らの耳に届かなかったわけではない。頭が理解することが出来なかったのである。
 それも当然だった。北狄は今、まったく正反対の方向、北河の上で立ち往生しているはずではないか。どこからどうやって現れたのだ。
「連中は空でも飛んできたのか!?」
 半ば腰が引けたまま、しかし現実が信じられない彼らは「ありえないだろう!」「敵ではなく味方ではないのか!?」「あんな数の騎兵隊が今の我が軍にあるものか!」と異口同音に声を上げるだけで行動がともなわない。これもまた弱兵の証である。自分たちで考えるのは後回しにして、まずは上官と味方へ急を告げるのが彼らのすべきことなのに、それすらも怠った。
 その結果、事態はさらに悪化した。彼らの報告が遅れたため、もともと完全に出遅れた庸全軍は、半分は寝起き、半分は眠りこけたまま、精強な騎馬民族軍の急襲を、背後からまともに受けてしまったのだ。誰よりも先に騎馬民族の馬蹄に踏みにじられたのは、他ならぬ報告を怠った彼らだったが。

 騎馬民族軍は庸軍駐屯地へ乱入した。いや、それとも印象は異なる。
 乱入というにはあまりに鋭く、あまりに統一されすぎた行軍だったのだ。それでいて剥き出しの剽悍さと(たぎ)る暴力性は、溶岩流さながらの炎熱をもっている。
 統率力が圧倒的だったのだ。火口部からぶちまけられた溶岩に意思を与えることが出来る人間がいるとすれば、それはこの日、この時、庸軍へ突入した騎馬民族軍を指揮していた男だけだろう。そのような男は、庸帝国に匹敵するほどの人口を誇る騎馬民族の中でも、唯一人だけしかいなかった。
 その恐るべき男に指揮された騎馬民族軍は、自分たちより遙かに多数を誇る庸軍を、溶かし、焼き、蹂躙しはじめた。

「なんだ! なにがあった!?」
 庸軍総司令官用の天幕の中、あわただしく甲冑をつけさせながら孫佑が問う。彼はすでに起き出していたが、朝食前の寝起き同様であり、気持ちに体も頭もついていかない状態だった。
 それでも外の異様な状況は感じ取れる。兵同士の喧嘩などではありえない喧噪と切迫感で、孫佑は叛乱が起こったかと勘違いしたほどであった。
 だが兵の報告は、彼の想像を越えて血の気を引かせるものだった。
「北狄の攻撃です! 兵数不明! あるいは五万以上!」
「北狄だと!? しかも全兵力が攻撃してきた!? ありえるはずがなかろう、ならば目の前にいる船団はなんなのだ!」
「わ、わかりませぬ。とにかく北狄の攻撃であることだけは確かなようで、その他のことは皆目…」
「ならばその事実だけ報告せよ! 憶測を交えるな!」
 後方官僚なだけにどちらかといえば穏健な孫佑が全身で叱声を発し、兵は縮みあがる。報告の仕方一つとっても不備であった。致し方ないとはいえ、そんなことを言っていてはどれだけの被害が出てしまうか。
「いずれにしても少数による奇襲であろうが、こうまで混乱しては…」
 少数、あるいは百単位かそれ以下の兵数であろうと孫佑は考える。それくらいならばこちらの目を逃れていずこからか渡河に成功する可能性はあった。少数の兵による奇襲でこちらを混乱させ、その隙をついて本隊が上陸をはかる。そういう意図の攻撃だろうと考えた孫佑は、とにかく全軍を落ち着けるように指示を出し、同時に突入してきた敵軍の、兵数をはじめとした正確な情報を集めて報告するように命令した。
 落ち着きさえすれば味方は十万。多少の出血があろうとも致命傷にはならないはずであった。

 が、孫佑の考えは甘かった。半分は当たっていたが半分ははずれていた。突入してきた兵は十万の庸軍に比べれば確かに少数だったが、彼の予想を遙かに越えた数、一万騎もいたのだ。
 それでも庸の全軍に比べれば十分の一。数においては圧倒的に有利のはずである。
 が、有利なのは数だけだった。襲いかかってきた一万は、精鋭ぞろいの騎馬民族軍の中でも最精鋭、精鋭中の精鋭であった。それが弱兵の上に起き抜けで、まったくの無防備だった庸軍に襲いかかってきたのである。たとえ二十万の兵がいても抗し得るはずもなかった。
 しかもこの一万は別働隊ですらなく「本隊」であった。血風を撒き散らし、逃げまどう庸兵を草木のように刈ってゆく騎馬民族軍の先頭に、幾人もの兵や士官が、信じられないものを見たのだ。
「なぜズタスがここにいる!?」
 ありえない光景だった。ズタスは今、北河に浮かぶ船団を指揮しているはずではないか。それが突然現れた騎馬民族軍の先頭で馬を駆り、剣を振るって庸兵をなぎ倒している。
 その姿は鬼神の如しであった。突入してきた騎馬民族の兵たちの中で誰よりも強く、誰よりも存在感を放ち、つまり誰よりも目立ち、それであるのに庸兵に討ち取られるどころか傷一つ負っていない。他の騎馬民族たちが庸兵の群に行く手を阻まれ、馬速を緩めざるを得ない中、ズタスのみが突出しかねないほどであった。
 いや、ズタスの背後には必ず一人いた。その男はズタスほどではないが圧倒的に勇猛で、若く、精悍であり、そして片頬に口が裂けたような大きな傷があった。ズタスの武勇にわずかに及ばないため彼に付き従っているように見えるが、頬傷のせいもあり、ズタスが鬼神であるなら、彼もまた鬼神と見まがうほどの強さであった。

 若き鬼を従えたズタスは孤立するように見える。が、それでもなお討たれない。庸兵たちはズタスの凄まじいまでの形相と風貌、暴勇としか思えないほどの武に畏怖すら覚え、泣きながら背を向けて逃げ出す始末だった。
「あ、悪鬼だ! 鬼神が、じ、地獄からやってきたんだ!」
「に、逃げろ! かなうはずがねえ!」
「お助け、お助けくだせえ!」
 徴集されてきた兵は地方出身者も多く、帝都などの大都市に比べて信心深い者も多い。彼らの目に、ズタスは数倍の大きさに見えていたかもしれない。逃げるだけではなく、這いつくばって祈りを捧げ、命乞いをする者も多数現れた。彼らのほとんどはズタスに見向きもされなかったが、逃げてゆく他の兵たちに踏みつぶされて死んだ者も多かった。
 一万の鬼竜は、十万の鈍牛を食い破ってゆく。

「数は! 敵の数は何人なのだ!」
「わ、わかりません! どこもかしこも大混乱で報告も上がってこないのです」
「それでは迎撃の命令も出しようがないではないか! 全軍に一度下がれと伝えよ。そこで態勢を立て直して…」
「なりません。退却するにも北へ下がるしかありませんが、そこには北河があります。全員が追い落とされてしまいます!」
 孫佑は天幕で臓腑まで冷える恐怖と屈辱に焼かれていた。敵が攻め行ってきたという報告以外、味方の混乱の報しか入ってこないのだ。敵の規模すらつかめない。これでは戦いようがなかったが、孫佑に彼らを責める資格はない。そもそも水の近くに陣を張るなど愚行の極みであった。いや孫佑とてそれなりに北河から離れて陣を張ったのだが、河上に浮かぶ騎馬民族船団の動きに即応できるよう、そこまで離れるわけにはいかなかったという事情はある。
 それでも油断はあった。まさか敵が南からやってくるとは。なにが起こるかわからないのが戦場ということをわきまえていれば、やはりこれは孫佑の失敗であった。
「それにしても連中はどこからやってきたのだ」
 今はそんなことにこだわっている場合ではないとわかってはいても、この最悪の戦況の要因はそれがすべてであるため、考えることをやめられない孫佑であった。
 
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登場人物紹介

ズタス……遊牧騎馬民族・コナレ族族長

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