第25話

文字数 5,433文字

 スンク族、我らを追わず土地を狙う。
 その報を受けた時、ズタスは馬上でぐっと拳を強く握った。彼は自分が賭けに勝ったことを知ったのだ。
 だがそれは、最初の賭けに勝利したに過ぎない。正面のギョラン族を討ち、反転してスンク族を叩かねば、この賭けに勝った意味がなくなる。それでも後背を気にせず前方だけに集中できるのは大きかった。
「三割しかなかった勝率が六割か七割まで上がったぞ」
 と、馬上で笑みを浮かべるほどだったが、その表情を無理矢理に引き締める。まだ彼は、自分がなにも得ていないことを忘れていなかった。
「全軍、ギョラン族へすべての力を叩きつけよ。汝らは強い。庸軍とのたび重なる戦いでもそれは証明されておる。我が指揮に従い、持てる力を存分に発揮せよ。さすれば勝利以外の結果は我らの前に転がってこぬ」
 ズタスは全軍を鼓舞し、兵たちは鬨の声で応じる。庸軍は弱かったかもしれない。だがそうであっても庸兵の数は多く、地の利も彼らにあった。必ず勝てると言い切れるほどに差はなかったのだ。そうであるのにコナレ族はすべての戦いに勝ち、しかもほとんどが完勝であった。コナレ族の実力は本物であり、自信を得るための実績に不足することもなかった。あとは自信が過信になるのを戒めるだけだが、ズタスは今現在、兵たちの勢いを最大限活かすことのみを考えていた。
 コナレ族は波濤のようにギョラン族へ迫る。


 ギョラン族は完全に立ち遅れた。だが圧倒的に不利というわけではなかった。意表を突かれはしたが、立て直す余地はまだまだある。
 スッヅは戦場を選ぶため地図を持ってこさせた。
「よし、ここにしよう」
 地図をにらんでいたスッヅは、ある地に視線で印をつけた。それは北河の支流の一つを北に、小高い山を南にのぞむ、さほど広くはない、荊上峠(けいじょうとうげ)と呼ばれる谷間のような土地であった。
「ここにコナレとズタスを誘い込む」
 狭隘な土地は大軍の利を活かせない。広く展開できない以上、正面から戦うに少数の敵と同数でしか戦えないからだ。それでも数が多い方が圧力があるし、余剰の兵を敵の後背へ回すという戦い方はできるかもしれない。だがそれは戦場になった土地を熟知し、しかも相手に悟られないようにおこなわなければ危険でもある。別動隊が途中で道に迷ったりでもすれば、各個撃破される危険すらあった。
 ズタスであればそのような間の抜けた戦い方はしないかもしれないが、ギョラン族が支配しているこの地に関する知識は薄いはずである。
 また、スッヅが選んだ戦場へ、ズタス率いるコナレ族が足を踏み入れない可能性もある。なにも進んで自分たちが不利になる戦場へおもむく必要はないのだから。
 しかし今のズタスには時間がなかった。もしギョラン族を叩くのに時間がかかれば、後背からスンク族が襲ってくる可能性は高くなる。自分たちが荊上峠に入って動かなければ、コナレ族も踏み込んでこざるを得ないだろう。
 またズタスは知らないであろうが、時間が長引けば長引くほど有利になる要素がギョラン族にはある。庸からの援軍が到着する可能性も高くなるのだ。
 騎馬民族であるギョラン族も持久戦は苦手であったが、この際は持ちこたえることが最良の戦い方であった。
「時間を稼ぐ」
 これがスッヅの戦略の第一であった。

 コナレ族の進軍が始まって四日。彼らはギョラン族の領内の、かなり深くまで入ってきていた。そして先行させていた斥候の一人が、ギョラン族の軍隊を発見した。が、その報告を聞いたズタスは意外そうな表情を見せた。
「あの老人が穴に閉じこもっているのか」
 地図を開き、斥候が指し示す場所を見ながらズタスはつぶやく。荊上峠と地名の書かれたその場所は、川と山とに挟まれた狭隘な地であり、大軍を展開させることも、騎馬軍を突進させるにも不向きな場所であった。いかにも騎馬民族らしからぬ戦場設定で、特にスッヅにはふさわしくない。スッヅは老人であっても、あるいはだからこそ、誰よりも騎馬民族らしい男なのだ。狭い穴蔵で縮こまって迎え撃つなど、彼らしくなかった。
「……なにか狙いがあるのだろう。が、それが今一つ見えぬ」
 速攻、奇襲を企図して飛び込んできたズタスだけに、ギョランの内情に関する情報は多くなかった。
 だがズタスには時間がない。理由はスッヅが看破した通りであり、そのことはズタス自身が最も自覚していた。ゆえにスッヅにつきあって持久戦を構えるつもりはなかった。
「……なにか策はないか」
 ズタスは幕僚たちを振り返り、尋ねる。が、もともとさほど期待はしていなかった。
 彼らは騎馬民族である。勇将であり猛将ではあっても、謀将ではなかった。コナレ族の中で最も謀略に長けているのは、他ならぬズタスなのである。実戦はともかく、そこに至るまでのほとんどすべてはズタスが一人でやらなくてはならない。それをわずらわしいと思う彼ではなかったが、このような時はいささか困るのだ。
 本来であれば師である韓嘉に参謀役をやってほしいのだが、彼は軍事には、ほぼ関与させていなかった。これはズタスの真の敵が、韓嘉の故国と同胞だからである。韓嘉が裏切ったり、自分たちの不利になる危険分子になることを恐れたからではない。そんな人物であるなら、そもそもズタスは師事したりしない。この処置は純粋に、韓嘉の心情にこれ以上の負担をかけることをズタスが(いと)んだためである。
 ゆえに韓嘉の見識は内政に活かさせてもらうことにしていた。征服されたとはいえ故国の民を可能な限り救おうとするのなら、韓嘉はおのれの力を存分に発揮してくれるだろうし、彼の罪悪感も多少は薄れるであろうとズタスは考えたからである。
 だがスッヅとの対決は騎馬民族同士の戦いである。韓嘉にとっては罪悪感を覚えずにすむ戦いであるから、もしかしたら力添えしてもらうにも師の負担にならないかもしれない。そうも考えるが、韓嘉を呼ぶにしても時間がかかる。今はその時間も惜しかった。

「族長」
 と、ここでズタスを呼ぶ声がした。やや自らの思考に沈んでいたズタスは、一瞬、師がこの場に突然現れたのかと感じた。その声が少しだけ韓嘉に似ていたからである。だが似ているのは声質だけで、若々しい躍動感がその声音にはあふれていた。
 ズタスは声の主に目を向ける。と、そこには一人の若者がいた。若者と言うより少年と言ってもいいかもしれない。彼は十八歳であった。騎馬民族の中でも彼の年齢になれば一人前として扱われはするが、それでも「新参者の大人」と見られるのは致し方ない。それを本人が是とするか否かは当人の気質にかかっているところが大きいが、血の気が多い騎馬民族では否とする者が多数である。そして彼もその中の一人であった。
「サガルか。なんだ」
 コナレ族は大族であり、その中でも様々な中族、小族に分かれている。それらの集合体であるのが騎馬民族の部族であり、彼ら個々の部族は一つ一つが誇り高く、また精強であった。それらを束ねるには指導者の個人的な力量や器量が欠かせず、またそのような者がいなければ彼らは簡単に分裂してしまう。
 ズタスにはそのすべてがあり、ゆえに彼らを糾合して「大族」としてコナレを維持することができているのだ。

 少年ーーサガルの部族はシン族といい、中族と小族の間の勢力であるが、つい先日族長が亡くなった。戦場での死であり、それはシン族にとって誇るべきことであったが、彼には跡継ぎとなる男子がサガルしかいなかった。年齢からいっても彼が跡を継ぐことに反対する者はいなかったが、壮年であった父に比べ、年若いサガルを軽視する向きはやはりただよう。それをサガルが苦々しさと多少の焦りとともに感じていたことを、ズタスは知っていた。
 ゆえに彼は、少年がなにを言おうとしているかも察していた。
「族長、おれにスッヅとの一騎討ちを許してくれ。必ず討ち取ってみせる」
 予想通りの請願に、ズタスはわずかに沈思しつつも首を横に振った。
「いや、あの老人は応じまい。数年前なら血気のままに汝の挑戦を受けたかもしれんが、今の老人はただの騎馬民族の族長ではなくなった」
 ズタスはそのことを感じ取っていた。それは長城を越えて庸へ侵攻し始めた頃からではない。それ以前、自分が勢力を増してきた頃から感じていたことだった。それまでのスッヅは騎馬民族の長らしく、力と攻撃と侵略とを旨とし、相手には屈服以外のものを求めて来なかった。
 だが老いて器量が広がったのか、あるいは覇気が衰えたのかはわからないが、とにかく引くことと柔軟さを兼ね備えるようになり、視野の広さを併せ持つようにもなってきたのだ。
 これはズタスにとってはうれしくない変化であった。猪突してきてくれた方がはるかに御しやすい。そしてそのような変化があったスッヅだけに、彼がサガルの挑戦を受けるとは考えにくかった。
 が、サガルには異見があった。
「いや、あなたや壮年の男が挑んできたのならスッヅも勝負を避けるかもしれないし、それはあの爺さんの配下にいる者たちも納得するかもしれない。だがおれのような年端もいかぬ子供の挑戦まで退けたとすれば、さすがに(じじい)の面子が砕け散る。これからの戦いや征服にも支障が出てくるだろう。そのことをあの爺さんがわからないはずがない」
 サガルの言うことに、ズタスはやや虚を突かれた。
 たしかにその通りだろう。自分はスッヅを高く評価していたが、それだけに見えなくなっていたものがあったらしい。
 が、突かれた虚はそれだけではなかった。見た目も表情も乱暴者との印象が濃い少年だが、意外にも視野が広く、見識も高いことに驚いたのだ。
「これはうまく育てれば、予想外の掘り出し物になるかもしれんぞ…」
 たったいま人材の不足を嘆いていただけに、思わぬところからの可能性がズタスの表情をゆるませそうになる。もちろんサガルの気質から彼が謀将になれると考えていたわけではないが、有為な人材はそれだけで彼の心を浮き立たせるのだ。それは人の上に立つ者の本能に近いかもしれないが、ズタスそれを無理矢理引き締めると少年との会話を続けた。
「なるほど、確かにそうかもしれん。だがあの老人が汝の挑戦を受けたとして、汝が勝てばよし、もし負けたなら、我らはなにも得るところがない。汝は自分が負けるはずがないと思っているかもしれぬが、あの老人を一騎討ちで必ず倒せると言い切れる者は、我が族にもさほど多くはないぞ。そのことがわからぬというのであれば、わしとしても汝をやるわけにはいかん」
 サガルがスッヅに勝てば、対ギョラン族の問題どころか、北河以北征服のための懸念は一気にすべて解決する。コナレ族同様、ギョラン族の団結も、スッヅという「要」あってこそのものなのだ。それが砕ければ、残った者たちはほどけた糸のようにばらばらにならざるを得ない。いくら個々が強かろうと、まとまらぬ存在など恐るるに足りない。コナレ族はギョラン族の支配する東方もすべて獲得することができるだろう。
 そしてそれは北河以北における圧倒的な勢力の獲得ということであり、西方に在るスンク族を押しつぶすなど造作もない。
 将棋倒しにすべてが解決してしまうのである。
 が、逆にサガルが負ければ、それでおしまいである。スッヅは変わらずギョラン族を掌握しコナレ族にとっての難敵であり続ける。コナレにとっては得るものがないどころか、若い勇者を失うだけであるのだ。たった今サガルの意外な才能をかいま見たズタスにとって、この若者は、ただの戦闘における勇者ではないのだ。有為な若者を無駄に使い捨てる気は、ズタスにはなかった。
 が、若き勇者は思慮と覚悟の双方を持っていた。
「おれ一人か、おれの部族だけで突出する。族長の意思と関係なく勝負を挑む。そうすればコナレ族全体に類は及ばぬし、おれが負けた時はその瞬間にギョラン族を襲えば、スッヅはまだ陣に帰りきっておらぬだろうし、ギョラン族全体も混乱するだろう。そうすればギョラン族もなし崩しに戦いに突入せねばならぬであろうから、閉じこもっている連中をおびき出すことができる。そしておれがスッヅに勝てれば、それはそれでなんの問題もない」
 サガルは「違うか?」という表情でズタスを見る。その視線を受けたズタスは、またも沈黙する。それは少年の言っていることに理を見ている証拠であった。
 が、ズタスはやはり首を横に振った。
「…いや、やはり駄目だ」
「族長…!」
「サガル、汝は自分や自分の族を軽く見過ぎだ。わしは臆病は許さぬが、無駄に兵を死なすつもりも毛頭ない。汝もシン族の族長ならば、族下の者を無駄に死なせるような真似はつつしめ。汝がスッヅに一騎討ちで破れたとして、族下の者たちがそれをそのままにしておくと思うか。汝の仇討ちにギョラン族へ突撃し、全滅してしまうぞ。そうならずとも族長がいなくなったシン族はどうなる。汝以外に族長にふさわしい者がおるのか。自重せよ」
 ズタスは少年族長を諭す。確かにすべてズタスの言う通りで、年若い彼が死んだ後、新たに族長に就くにふさわしい者は、今のシン族には見あたらない。誰が就いても内紛の起こる可能性があるのだ。彼は自分の族人のために命がけで尽力せねばならなかったが、同時に簡単に死ぬわけにもいかない立場なのだ。
「……」
 それがわかるだけにサガルは黙った。
 が、サガルは物わかりがいいだけの少年ではなかった。

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登場人物紹介

ズタス……遊牧騎馬民族・コナレ族族長

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