第40話

文字数 4,567文字

 騎馬民族が北河以北を征服して二ヶ月が過ぎた。彼らは今、北河の北岸に在る。全軍ではない。もともと精強な彼らの中でも精鋭の五万である。
 北河は対岸が見えないほどの大河だ。水深が浅い場所もない。渡るには必ず船を必要とする。
 が、騎馬民族には造船技術も操船技術もなかった。当然である。大河どころか水そのものが乏しい世界で生きてきた彼らなのだ。泳げる者自体ほとんどいなかった。
 それゆえ北河のような大河は、彼ら騎馬民族にとって未知と恐怖の存在であった。地上・馬上では恐れるものなど何もない男たちが、北河を前に尻餅を突くほどの怯みと怯えを見せることも珍しくなかった。それは恐怖というより畏怖と言うべきかもしれない。自然には、特にその人が触れることの少ない巨大な自然には、そのような力がある。
 いま北河を前に馬を立てる五万は、ただ戦いに強く、勇気があり、規律正しいというだけでなく、そのような畏怖や恐怖を乗り越えた男たちだった。
 そんな彼らを前にズタスは告げる。
「汝らは我ら騎馬民族でも有数の勇者である。河を越え、庸の弱兵を斬り伏せる一剣と化せ。もって央華を呑み尽くせ!」
 演説とも言えぬ短い文言だが、騎馬民族の族長としてすでに最大の存在となったズタスの言葉は、それだけで兵を奮い立たせる。ズタスの存在自体がすでに彼らの士気そのものであった。

 彼らが乗り込むのは庸から奪った軍船である。百を越える人馬が乗れるほど巨大なものもあれば、十人がやっとという小舟もある。前述したように騎馬民族には造船技術も操船技術もなく、艦隊運用の知識も経験もなかった。ゆえに彼らはこの点では、庸人に頼らざるを得ない。いずれ自分たちもそれらを学び、身につけなければならないが、現時点ではそれしか方法がなかった。
 家族を人質に取られ、あるいは殺すと脅されてやむなくという者も多かったが、自ら率先して騎馬民族に協力する庸人も多かった。彼らにしてみればこの世はすでに生き地獄である。せめてほんの少しでも生きやすくするためには、地獄の鬼が相手だろうと取り入らなくてはならない。またさらに野心を持つ者は、庸の将来を見限り、ズタスたちの時代が来ることに賭けたのだ。その中で栄達をはかるためには、出来るだけ早い段階で彼らに協力する方が恩を売れるというものである。
 北からの突風は、庸人の生き方や考え方を根本から覆すほど強大なものになりつつあった。


 騎馬民族が自分たちの軍船を駆り、北河を渡ろうとしていることは、すぐに庸の宮廷の知るところとなった。コナレ族が長城を破って侵入してくるまでほとんど機能していなかった庸の諜報機関だが、この時期はさすがに情報収集に力を入れるようになっている。が、騎馬民族が集めた船団は、そのような専門機関の調査能力が必要ないほど大規模なものであった。
 予想していたこととはいえ、庸の宮廷は戦慄する。
「とにかく迎撃の準備だ」
 諜報活動同様、そのための準備はすでに全力でおこなわれており、基本戦略も定められていた。
 水際で叩く。これ以外に存在しなかった。
 北河の南岸にも当然軍船は存在する。数から言えば互角で、加えて庸には造船技術があり、その気になれば突貫作業でさらなる軍船の増強も可能であった。さらに操船技術も敵軍とは比べ物にならないほどのものだろう。騎馬民族側の操船も庸人がおこなっているであろうが、彼らが進んで協力しているとも思えない。士気の差は歴然であり、それどころか庸人による戦闘中の妨害・寝返りも期待できる。
 これだけ有利な条件がそろえば船を出して北河上での決戦も考えそうなものだが、彼らはその選択を断念している。それはやはり勝ち目がないからだ。
 軍船同士の戦いと言っても、この時代の水上戦は、相手の船に乗り込み、白兵戦で決着をつけるというものである。いかに揺れる船上の戦いに不慣れとはいえ、正面から騎馬民族と剣をもってぶつかり勝利できると断言できる庸人はほとんどいなかった。それほどまでに個人戦闘能力で騎馬民族は庸人を凌駕しており、そしてなにより、庸人は騎馬民族に恐怖していた。実力の劣る者が最初から怯えていて、勝てると思う方がどうかしているだろう。

 それでも上陸中の騎馬民族であれば勝算はある。それも充分に。
 水の近くに帯陣することは、兵法でも固く戒める常識である。最初から逃げられない方向が一方でもあり、しかもその方向に追い落とされれば大打撃を受けること必至である以上、そんな場所の近くにいることは、実際面でも心理面でも圧倒的に不利なのだ。「背水の陣」は本来邪道であり、これを有効に扱うのは異能の天才将軍以外には不可能であった。
 また上陸中の軍は無防備になる。上陸を終えた兵もすぐには戦いの準備は出来ないし、上陸途中の兵は言わずもがなである。しかも上陸中と上陸後の兵の行動は不統一であり、軍組織としては最悪の状態と言っていい。加えて騎馬民族はそもそも水が不得手だった。恐れていると断言していいほどである。
 これだけ有利な状況であれば、いかに弱兵の庸軍であっても勝てるはずであった。

 その危険をズタスが見落とすはずもなかった。
 が、彼の幕僚や属将の理解は薄かった。彼らも頭ではわかっているのだが、感覚としてわかりにくいのだ。相手は、すでに何度も勝っているどころか一度も敗北したことのない庸軍である。どのように不利な戦場であろうと負けることなど想像もできなかった。加えて彼らは水辺での戦闘の経験がほとんどなく、その危険を体感したことがなかった。また元々戦いは頭ではなく勇気ーー場合によっては蛮勇ーーでするものだと信じている男たちである。
「泳ぎと北河以南での戦闘とが同時に初体験できるか。なかなかに珍妙な経験だな」
 と豪語して笑う者がほとんどであった。油断といえば油断であるが、既体験は勝利のみであり、危惧すべき対象が未体験の事柄では、見通しが甘くなるのも無理からぬことである。そのことにこそ危惧を抱くズタスだったが、ただ一人例外がいることも見抜いていた。
 すでに彼の幕僚の一員となっていたタクグスである。
 彼は大族を率いて降ってきたため、最初からコナレ族の陣営ではそれなりに重きをもって迎えられたが、スンク族の将兵以外に彼個人に信服する将軍や兵は少なかった。騎馬民族は智者ではなく猛者に無条件で敬意を払う。ズタスの智力も相当なものだが、コナレ族が族長を慕う、あるいは畏れる理由は、その器量と勇猛さに対してが大部分であった。
 この度、まだ少年から若者の域に入っただけのサガルも幕僚として初めて抜擢されたが、それに異を唱える者も皆無に近い。それはスッヅを討った勇猛さが認められたためであり、彼らにとっては当然の処遇であったのだ。

 ゆえに今コナレ族でタクグスの真価を理解しているのは、ズタスを含め少数の者しかいなかった。そしてズタスとしては彼をどうしても軍師として自分の(かたわ)らに置いておきたかった。智力で彼を補佐してくれる存在は、どうしても必要だったのだ。
 しかし今ズタスがタクグスを重用すれば、他の部下たちに不満と不安が生まれるのは必至である。少なくともタクグス自身が彼らに一目置かれるまでは、控えるしかなかった。

 が、当のタクグスにおとなしく控えるつもりはなかった。
 ギョラン族とスンク族のコナレ族編入の大わらわの中、北河渡河と央華進撃のための作戦会議は何度か開かれていた。作戦会議と言っても、具体的な「作戦」を持っている人物など、参加している将軍たちの中にはほぼ皆無であり、自分たちの武勇を大声で語り合い、自らを鼓舞することを目的とした「決起集会」の色合いが濃い集まりである。作戦のほぼすべてはズタスが一人で考え、一人で準備し、一人で実施する。彼らはズタスの命令を過不足なくこなすことに全精力を注ぎ込めばよかったのだ。ズタスの負担は想像を絶するが、この程度で音を上げる男では、そもそも央華大陸を征服するような野心を持つはずがなかった。
 ゆえにズタスに不満はなかったのだが、三度目の会議の折、発言を求められたタクグスが言い切ったのである。
「汝らはこの戦いでどこまでを求めておる」
 今日に限らず、ここまでの会議でほとんど無言だったタクグスの発言に、その場にいた全員が軽くぎょっとして静寂に移った。発言時に諸将が小声とはいえ好き勝手しゃべっていたことからも、新参の若将であるタクグスがいかに軽んじられていたかがわかる。だがその若造の挑発的な言葉に一瞬の静寂を作ってしまった将たちは、そのことも含めて不快げに応じた。
「どこまでとな。庸の弱兵を完膚なきまでに叩きのめしてやるまでに決まっておろうが」
「それだけか」
「それ以上に何がある」
「寧安を落とす」
 タクグスの一言に、またも場は一瞬静まりかえり、そして爆笑に包まれた。
 それも当然であろう。庸帝国の帝都・寧安は、確かに北河流域にあり、遠方にあるわけではない。だが帝都である以上、防衛には庸全土で最も力を入れている場所でもある。
 城壁は長城を越えるほどに高く、厚く、防御用の武器も最新式で豊富。また兵も選りすぐりの精兵をそろえているであろう。あるいはその兵も自分たちとの戦いに投入され、帝都とはいえさほどの兵は残らないかもしれない。だがまったく兵がいないことはありえず、逆に庸の軟弱な廷臣たちであれば、自分たちを守るために精兵を残しておく可能性も充分ある。騎馬民族から見れば、庸程度の兵の中から選ばれたのなら精鋭とはいえたいしたことはないと鼻で笑うだろうが、それでも城壁越しの戦いである以上、容易に勝ち得るとは思えなかった。
 なにしろ騎馬民族は攻城戦を大の苦手としているのだ。城攻めの技術情報も体系化されておらず、攻城用の兵器もほとんど持っていない。そもそもそんなものがあれば、もっと容易に長城を越えられていたはずなのだ。

 その寧安を、膨大な戦力と時間をつぎ込み、莫大な損害を被った上ならばともかく、激戦の予想される北河渡河のついでのように陥落させようというのだ。将軍たちの嘲笑も無理はなかった。
 彼らの大笑、嘲笑の中、タクグスは表情一つ変えずに黙っていたが、しばらく続いた彼らの笑いが収まると鋭く続けた。
「では汝らは寧安は落とせぬというのだな」
「汝の夢想の中では落とせようがな。我らは命を張ったまともな考えの中で生きているゆえ、そのような夢物語につきあってはおられぬ」
「ではおれも自分の考えに命を懸けよう。おれの策で寧安が落とせなんだ時は、汝らに首をやる」
 その言葉は新たな嘲笑で応じられてもおかしくなかった。が、将軍たちの耳に届いたタクグスの鋭い言葉は、新参の若将が本気であることを示し、彼らの心に突き刺さった。
 嘲笑の声が止まる。命懸けの言葉には、それだけの力があるのだ。
 先ほどと違う種類の静寂が起こり、その瞬間をズタスは逃さなかった。
「よかろう、まずはその策を話せ。使えるものであれば採用しよう」
 絶対君主であるズタスに命じられれば、将軍たちも何も言えない。半ばの興味と半ばの不満とともに居住まいを正す将軍たちの前で、タクグスはズタスに一礼すると、彼の考えを話し始めた。
 そしてその策は、採用された。
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登場人物紹介

ズタス……遊牧騎馬民族・コナレ族族長

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