第26話

文字数 3,005文字

 深夜、ズタスの眠る天幕の外から彼を呼ぶ声がした。戦場であるゆえ同衾する女もいないが、そのことに不満を言う彼ではない。それでも夜中に起こされれば不快さを覚えはするだろうが、ある予感があったズタスはそれも見せず、簡易の寝台に上半身を起こす。
「……なんだ」
「は、シン族がひそかに出立いたしました。向かう先はギョラン族の布陣している地であるかと思われます」
「…そうか。我らもすぐに追う。全軍を起こし、出撃の準備をさせよ」
「は」
 短く返事をすると、天幕の外の兵は各所へ起床と出撃の準備を知らせるために走り出す。それを天幕越しに見送ったズタスは寝台から降り、駆け込んできた従卒に手伝わせながら、出陣の用意を始める。
「…わしは変わらず非情よの」
 ズタスは心中で自嘲する。彼はサガルとシン族の突出を、ある程度予想していたのだ。それを止めようと思えば止められたが、彼らが動くことによって状況が変わる可能性は高かった。ゆえに黙認したのである。
「しかし、であるなら、この機は最大限活かさねば」
 サガルたちを見殺しにするつもりはない。ないが、最悪そうなることは充分考えられる。しかしたとえ結果がそのような形になるとしても、必ずギョラン族を撃滅し、東方を征せなくてはならない。
 おのれの罪を自覚しつつ、それを償う最低限のことは必ず成し遂げようと誓うズタスであった。

 サガルに率いられたシン族は、静かに陣を抜け出した後、一転して全速力で駆け始めた。彼らの数は百五十というところで、族人全員が出撃したわけではない。自分たちが全滅したとて、族全体を消滅させるわけにはいかないのだ。全滅も覚悟の上で若き族長に従いたいと願ったのは族人たちの方であったが、サガルは強い意志をもって彼らを制した。
「我らがすべて死んだら、祖先と残された女子供たちはどうすればよい。我らは必ず勝つ。仮にそうならぬとしても、族長は我らの動きを利用してギョラン族を叩くであろう。その功をもってシン族は存続を許されるに違いない。汝らが残るのは、我らの死を無駄にせぬためだ。我らを犬死にさせないでくれ」
 少年期をわずかに越えた若者であっても、一族の長を努めるだけあってサガルは非凡であった。彼の理と威とに、族人たちはうなだれて従うしかなかった。
 そしてサガルの非凡さのもう一つは、ズタスが自分たちの突出を見抜いて、しかも黙認するであろうとわかっていたことである。だがそのことについてサガルはズタスに恨み言を言うつもりはない。むしろ感謝していた。
「族長。我らの誇りのために、感謝する」
 陣を離れるとき、振り向いたサガルは小さくつぶやき、頭を垂れた。ズタスは自分たちの動きを戦局を動かすきっかけにするつもりであろうが、そのような打算だけで見逃したわけではないと、若者は知っていた。ズタスがそのような非情な思考のみを旨とする男であるのなら、彼に従う者はこれほど多くはない。理と情とを高い次元で兼備している者にこそ、人はついてゆくのだ。それゆえサガルは、この出撃が何の意味もなく終わることはないと確信していた。
 深夜ではあるが、騎馬民族は農耕民族より夜目が効く。また今夜は半月ではあり充分に明るく、道を誤ることはない。
 それは奇襲に向かない夜ということでもあるが、最初からその意図がないサガルには関係がなかった。彼は昼間ズタスに進言したように、スッヅに堂々と一騎討ちを挑むつもりであったのだ。

 ギョラン族の陣も、当然無防備のはずがなかった。それなりにきちんと陣を布き、歩哨も立て、夜襲に備えていた。
 が、彼らの目前に現れたのは、夜襲のために息を殺して近づいてくる部隊ではなく、かといって松明を掲げて堂々と進撃してくる大軍でもなかった。百騎から二百騎程度の部隊である。
 小部隊ではなく、さりとて百騎程度では自分たちと戦うのに戦力としては不足にすぎる。敵であることは確かだと思われたが、その数にしては堂々としすぎており、あるいはコナレ族を裏切り、自分たちへ降伏してきたのかとも考えたが、それとも違った。なにをしにきたのか、先頭にいる騎士が大音声で告げたからである。
「我はシン族族長サガル! ギョラン族族長スッヅとの一騎討ちを所望!」
 声からして若者であることは確かだが、聞いたことのない名である。シン族の名はコナレ族に類する一族であることは知れていたが、最近族長が変わったということまではギョラン族は知らなかった。だがこの状況、この時間に突然現れて、族長と一騎討ちを望むなど、いかに勇猛さを誇る騎馬民族とはいえ、目を見開いて驚いた。
「小僧! まだ夜は明けておらぬぞ。寝ぼけて世迷い言を言いにきたのなら、さっさと寝なおして、しゃんと目を覚ましてから出直してこい!」
 歩哨の報告を聞いてやってきた士官の一人がサガルの申し出を嘲笑する。事実、この状況で聞いたこともないような若僧の挑戦に乗る必要は、ギョラン族にもスッヅにもなかった。
 だが若き族長は、まったく引き下がらなかった。
「スッヅは騎馬の民の誇りを失ったか! 軟弱な庸の地に来て、その惰弱さに染まるを恥とは思わぬか! おれを小僧とののしるのであれば、片手で斬り伏せてみせよ。おれの方も(じじい)ゆえ手加減はしてやる。片手の指でつまんだ剣で相手をしてやろうか。これでもまだ怖いのならば素手で戦ってやろう。これですらまだ足りぬか。誇りも力も失った者は、赤子相手でも震えて泣き叫ぶというが、汝も同様であるかよ!」
 挑戦のための挑発である。サガルは思い切り侮蔑した。特に騎馬民族としての誇りを傷つける形で。騎馬民族にとって実力と勇気を軟弱と臆病にすり替えられるほどの屈辱はない。実力は人生を懸けて培ってきた証、勇気は彼自身の存在そのものである。芯も身もけなされて黙っていられる者は、騎馬民族、特にすべてを統べる族長ではなかった。
 それでも相手がズタスのように、実力も実績も充分以上の壮年の男が相手であれば避けることも恥ではなかったかもしれない。騎馬民族は誇りの高さも一級品だが、現実感覚の鋭さも同様であった。そうでなければ彼らの生まれ育ってきた厳しい環境では生き残れないのだ。
 しかしたかが二十歳前の雛鳥に対して背を向けたとあっては、全軍の統率への影響すら出かねない。実力なき者以上に臆病者に従わないのは、騎馬民族にとって当たり前のことだった。サガルはそこまで考えて挑発したのである。

 大音声で呼ばわったため、サガルの声はまだ自分の天幕にいたスッヅの耳にまで届いた。ということはそれは、他の兵たちもサガルの挑発を聞いたということである。老族長は小さく舌打ちした。
 スッヅにとって利の薄い挑戦である。受けずに聞き流し、多数の兵をもって押しつぶすか追い返すかですませたいところであった。だがこうも多数の兵に聞かれては、出ていかないわけにはいかない。勇気なき者と見られれば、スッヅは根本の基盤を失いかねなかった。彼自身はその域を脱しつつあるが、騎馬民族は政略や戦略より戦術を、それより個人の武勇をなにより尊ぶのだ。ここで出ていかなければスッヅは兵の忠誠を失うどころか軽蔑を買ってしまう。そうなっては戦いや征服どころではなかった。
「…甲冑はいらぬ」
 入ってきた従卒が武具を用意するのを制すると、スッヅはほぼ寝所にいるときと同じ姿で馬上の人となり、前線へ向かった。
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登場人物紹介

ズタス……遊牧騎馬民族・コナレ族族長

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