第61話

文字数 4,975文字

 タクグスも、様々な感懐と失望の中にいた。
 ズタスの死に対するものが最大ではあったが、彼の死を冷静に分析する明晰さは衰えていなかった。
「早すぎる」
 それが唇を噛みながらの彼の結論であった。央華全土を征服するためだけではない。彼と彼の叔父にとっても、ズタスの死は早すぎた。
 もちろん戦場の雄であるズタスとはいえ、常に陣頭にある以上戦死の可能性は低くはないし、今回のように病に倒れることも充分に考えられた。だとしても、あと数年は生きていてもらわねば、タクグスの準備は何もかも間に合わない。今の段階では足場の一つを構築した程度で、彼の野心にとって何の意味もないのだ。
「叔父上、申し訳ござらん…」
 タクグスは、自分の責任ではないとはいえ、北に向かって謝罪せざるを得ない気持ちだった。彼にはこれから起こる権力争い・覇権闘争のための地盤も希薄であったし、なにより先が読めなさすぎる。叔父のバジュもまだ勢力回復が出来ているはずもなく、ここからこの場で最終的な勝利を得るためには、綱渡りどころか「糸渡り」のような危うさを覚悟せねばならない。しかしそれを渡りきる自信はタクグスにはなかった。
「これがわしの限界か」
 と自分の線の細さを自嘲する想いもあるが、彼には彼の生き方しか出来なかったし、「王佐こそが我が本懐」という自負もある。叔父を新たな央華の支配者とするために、これからの人生を使い切ることにためらいはなかった。


 その「糸渡り」を敢行しようとする者も当然いる。口裂けサガルもその一人であった。彼はズタスが死ぬまでは動かないことを自らに約していたが、彼が崩御したことでその禁も自ずから破られたのだ。
 が、それでも去就ははっきりしない。彼も不動の時間に様々に考えてはいたのだが、誰に付くのか、今後の方針を決められなかった。いかに俊英とはいえ、彼もまだ若く、絶対の正解など求めようがない。
 ズタスの息子であるクミルに付くのが最も単純ですっきりもするのだが、どうもこれは気が進まなかった。クミルは最初からサガルとシン族を自分たちの勢力と思いこんでいるようで、ありていにいえば臣下として見下している。サガルはズタスに私淑していたし、臣従していたと言われても否定するつもりはなかったが、コナレ族自体にシン族を組みしたつもりはなく、またクミル個人に臣従した覚えもなかった。ズタスの死によって、サガルとシン族とコナレ族との関係は一度白紙に戻ったと考えるべきである。
 これはシン族に限った話ではなく、他のどの族に対してもであって、そのことに思い至らず、個人的に父親に臣従していただけの相手を自動的に自分の臣下だと考えるなど、許されることではなかった。
 クミルは自分を父と同等の力を持つ族長と考えており、他の者たちの自分に対する評価も同様だと考えてもいるようだが、そんなことはまったくない。むしろ彼は父より数段落ちる存在と見られていて、それがゆえに去就に迷う者が多数現れているのだ。このあたりの客観性の無さ、思慮の浅さ、粗雑さも、彼に対する信頼を落とす原因になっていた。


 そのような訳でサガルもクミルを内心ではすでに見限ってしまっていた。しまっていたが、だからといって次はどうすればいいかがわからない。彼の経験値の少なさでは無理もなく、同じ族内に知恵者と呼べる者がいないこともあって、サガルの思考は袋小路に陥ってしまっていた。
 が、そこでとどまっていないのが彼の、ズタスが見込んだ資質の一つである。
「わからないことなら誰かに訊けばいい」と、他の族人に尋ねに行ったのだ。彼も騎馬民族特有の自尊心の高さは持っているが、必要とあればそれを曲げることが出来る強さも保有していた。これは「央華を攻めるためには央華を知らねばならぬ」と韓嘉に師事したズタスに共通する。


 そしてサガルが尋ねたのはタクグスであった。ズタスが死んだ数日後の話である。タクグスは新参に近い存在だが、それだけに他者と遺恨や確執の生まれる時間は少なく、また寧安陥落の立役者であり、ズタスが認める知恵者ということもあって、サガルもごく自然に彼の勇気と知略に敬意を持っていたのだ。加えてタクグスは比較的サガルと年齢が近いこともあり、それもまた彼の心の敷居を低くする一因にもなっていた。
「そのようなわけでタクグスどのに教えを請いたい。私はこれからどうすればよいと思われるか」
 タクグスの邸を訪ねたサガルは、素直に自分の迷いを話し、素直に頭を下げた。
 タクグスに限らず、寧安で騎馬民族の大半が住むのは、庸の要人が使っていた邸を接収したものである。が、実は彼らは、一様にそこに住みにくさを覚えていた。最初は豪奢な邸宅に興味をそそられ、豪華な家屋に自尊心や虚栄心をくすぐられていたのだが、そのような豪邸に住み慣れていないため、窮屈さや鬱陶しさを感じていたのだ。
 ズタスの存命中は、どうせすぐに南へ進撃が開始され、邸も引き払うとわかっていたため我慢して住んでいたのだが、中にはこらえきれず、庭に天幕を張って生活する者がいたほどである。
 タクグスはそんな中でも例外で、豪華な邸宅に住みにくさを覚えてはいなかった。どうやら彼は央華人の気質と似かよったところがあり、それが彼をして騎馬民族内で異質さを放つ一因になっているらしい。
 サガルもまた住みにくさを覚えている一人であるが、タクグスの応接室に通された時には意表を突かれた。家具類がほとんど置かれておらず、床に敷物、それも騎馬民族が天幕の中で使う種類のものが敷かれていたのだ。
「この方が落ち着くという方も多いので」
 と、笑うタクグスは敷物の上に直接あぐらをかき、サガルにも勧める。それをサガルは喜んで受けた。
「細かく気のつく御仁だ」
 というのがサガルの感想だが、そこに侮蔑はない。やはり武勲というものは偉大なのだ。


「なるほど…」
 山羊の乳と砂糖をたっぷり入れた北方の茶を飲みながらサガルの話を聞き終えると、タクグスは静かにうなずいた。
「いかがであろう、タクグスどの」
 タクグスのうなずきに、サガルはもう一度尋ねる。その真摯な様子にタクグスは、脳内で二つの思考を重ねた。一つはサガルの問いについて。もう一つはサガル自身について。
 この若く勇猛な族長は大きな可能性を持っている。そのことをあらためて確認した思いであり、ズタスに続いてこのような逸材が排出されるというのは、時代のうねりに意思というものがある証明かもしれない。そのようなことまで考えもしたが表には出さず、タクグスは答えてやった。
「高く売りつけてやりなされ」
「…は?」
「言葉通りの意味でござる。サガルどのはまだ去就を明らかにせぬがよろしかろう。今のサガルどのの名声は天下を覆うに等しいが、その名声のみを求めて勧誘してくる者がほとんどでありましょう。彼らはサガルどのの真価をわかっておらぬ。ゆえにサガルどのを誘うにおいての条件や報奨も過少に相違ござらん」
「いや、おれとしては充分好条件というものも多いのだが…」
 事実、彼を誘引しようとした者たちが出してきた条件や報奨は、戦場で有力な敵将を五人や十人は討ち取らねば得られぬほどのものばかりで、彼としてもまったく心が揺らがないというわけにはいかなかったのだ。
 が、タクグスは断言する。
「足りませぬ。その者たちがサガルどのにどれほどの報奨を積んだかは存じませぬが、明らかに足りぬと言い切れます」
 報奨や条件の内容を知らないのなら断言も出来ないだろうにとサガルは思うが、タクグスの言にも表情にも確信が満ちており、そこに裏打ちすら感じられたため反論は控えた。だいたい自分をより高く評価してくれているというのにそれに反論するなど、どこかおかしい。
 いささか表情の選択に困っているサガルに、タクグスは内心で小さく好意的に笑うと、表情をあらためて告げた。


「近く、庸軍が北上してきます」
 一言だけだがその内容にサガルも表情を硬化させる。彼自身、そのような事態を考えなくもなかったが、あれだけ徹底的に痛めつけられた庸軍がさらなる反攻をおこなうかどうか、半信半疑だったのだ。
「そのような情報がありますか」
「ちらほらと。おそらく我らの内乱が燃え上がったところで攻め上がってきましょう。ゆえに、そう遠くない将来になります」
 タクグスは「内乱が起こる」と言い切った。騎馬民族の半ばもその覚悟は出来ているだろう。人界に起こることのすべては、人の意志に因がある。大半がそのことを望めば、起こらない方がおかしいのだ。
 サガルもそのことは承知しており、今さら聞き返さなかった。そのサガルにタクグスは、少し表情をゆるめて続けた。
「サガルどのはその時に、存分に武勲をお立てなされ。それによりサガルどのにふさわしい報奨をもって迎え入れようとする者が必ず現れます。もし現れなければその時は北へお帰りなされ。このような場所にいてもしかたありませぬ。あなたにふさわしい長はおらぬということですから」
「なるほど…して、わしにふさわしい報奨とは?」
 タクグスの言うことにサガルは得心した想いだった。出来るだけ高く自分とシン族を売りつけるには打ってつけの状況が迫っているということだ。その好機を活かさない手はない。が、肝心の「ふさわしい報奨」がわからなければ、誰についていいか判断のしようがない。それゆえサガルはタクグスに尋ねたのだが、問われた方はさらに表情をゆるめた。
「それはその時になればおわかりになりましょう。そして失礼ながら、その段になってもおわかりにならないようであれば、サガルどのの将来はさほどのものにはなりますまい。が、サガルどのならきっとわかる。私はそう思っておりますよ」
 笑顔に近い表情でタクグスはそう言うと、少し手を伸ばして背後にある書物を一冊取り、それをサガルに差し出した。
「よければこれをお持ちなされ。こたびのこととは直接関係はありませぬが、央華における最上の兵法書です。きっとサガルどののお役に立つ」
「いや、おれは字が読めぬゆえ…」
 いささか狼狽するサガルは、常の彼らしい一人称を使ってしまう。文盲は騎馬民族では珍しくないためそのことを恥じたわけではない。単に思いもかけぬ物を差し出された困惑が狼狽の理由であった。が、タクグスはそれには何も言わず続ける。
「では読める者に音読してもらえばよろしい。あるいはこれからでも字を覚えればよろしい。これはズタスどのの愛読書であったといえば、そのための意志も湧きましょう」
 ズタスの名を聞いて、サガルの表情に緊張が走った。それは鋭かったが冷たくはなく、自身の目指すべき、超克すべき対象に対するものだった。サガルにとってズタスは、そのような存在なのだ。
「受け取ろう。感謝する」
 ゆえにそれ以上逡巡することもなく、サガルは差し出された書物をしっかりと受け取った。それを見てタクグスも温顔でうなずき、茶をすする。


 と、ここで話が終わってしまったことにサガルは気づいた。
「…そうだ、タクグスどの、礼物は何がよろしいか」
 そのことにも気づいたサガルは、相談に乗ってもらったことと、押しつけられた形だがズタス愛読の兵法書の礼について尋ねた。本来であれば最初から用意してくるべきものであったが、いささかサガルも煮詰まっていたらしい。そこまで気が回っていなかった。であるならタクグス本人に何が欲しいか尋ねた方がよかろう。騎馬民族はあくまで率直で合理的だった。タクグスは自分の問いにはっきりとした解答を与えてくれたわけではないが、それでも方針は決まったし、なぜかすっきりした気分にもなっていたため、サガルとしては充分礼をする気になっていたのだ。
 が、その問いに対してもタクグスは明確には答えなかった。
「それについては追い追い。いささか意表を突くものになるやもしれませぬが、サガルどのにとっても益となるものにするつもりですので、今明かさないのはご容赦を」
 茶をすすっていたタクグスの、澄まし顔での思わせぶりな答えに、常のサガルなら不機嫌、場合によっては怒気を発するところだが、どうにもつかみどころのない「寧安の英雄」に、苦笑を漏らすだけだった。
「さようでござるか。ではその時を楽しみにしております」

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登場人物紹介

ズタス……遊牧騎馬民族・コナレ族族長

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