忘れ物
文字数 3,204文字
僕は駅のトイレへ行き、手を洗っているところでした。
目の前には大きな鏡があり、背後の景色が写っています。
その中に小さな男の子の姿があり、僕の後ろに並んで順番を待っているのでした。
僕は急いで手を洗い終え、場所を空けるために振り返りました。
でも驚いたことに、そこには誰もいないのです。
5、6歳の男の子が確かにいたと思ったのに。
男の子どころか、トイレの中はガランとして人影もありません。
変だなあと思いながら、僕はトイレをあとにしました。
数日後、また同じトイレを利用する機会がありました。
手を洗いながら僕は、先日のあの男の子のことを思い出していました。
そして顔を上げて鏡を見ると、またそこにいるではありませんか。
何か言いたげな表情ですが、口は閉じています。
僕は振り返り、場所を譲ろうとしました。
でも今度も誰もいないのです。
やはりトイレの中は空っぽで、人影はありません。
個室のドアもみんな開いたままで、誰かが隠れている気配もありません。
同じようなことが、同じ場所でその後も何回か続きました。
意地になって、僕は学校帰りにはいつもこのトイレに立ち寄るようにしていました。
そのたびにあの男の子が鏡の中に現れるのです。
だけど彼は口を閉じていて、何も言いません。
そして僕が振り返ると、もう影も形もないのです。
僕はだんだん腹が立ってきました。
そしてあるとき、振り返らずに鏡の中へむかって話しかけてみたのです。
「君は一体、どういうつもりなんだい? なぜいつも僕に付きまとうんだい?」
すると男の子はにっこりと笑い、ある方向を指さすではありませんか。
でもそれが奇妙な場所で、あのトイレには外へむいて開いた窓が一つあるのですが、そのすぐ外にあるひさしのあたりなのです。
ひさしというのは、窓のすぐ上にある短い屋根のようなもののことですが、古いトイレだから瓦屋根になっていて、赤く錆びた雨どいが取り付けてあったりします。
トイレと同じように、男の子の身なりもかなり古くさいということに僕は突然気がつきました。
短く切った丸刈り頭をしているので、耳が左右にぴょこんと大きく目立ちます。
着ているのはくすんだ茶色の学校制服のようなもので、歴史の本で国民服と紹介されているやつです。
つまりあの男の子は、第二次世界大戦ごろの服装をしていたわけです。
そして僕はまた、突然あることを思い出しました。
僕の家はこの駅からそう遠くないところにあります。
同じ家の中に両親や祖父も一緒に暮らしていますが、僕は祖母の顔を見たことがありません。
祖母は第二次世界大戦のときに死んでしまったのです。
そのとき祖母はちょうどこの駅にいて、列車に乗ろうとしていたのだそうです。
待合室で発車時刻を待っていたのでしょうが、そこへアメリカ軍の飛行機がやってきたのでした。
駅の建物はまわりの家々よりも大きく、よく目立つから、爆弾をぶつける目標として便利だったのかもしれません。
大型の爆弾が命中し、跡形もなく吹き飛んでしまいました。
祖母はそのときに死に、僕が毎日利用しているのは、戦後建て直された新しい駅だったのです。
古い時代の駅というのは、今とは少し構造が違っていました。
トイレが駅の外にあり、別の建物になっていたのです。
公園などにある公衆便所を思い浮かべてもらえばいいと思います。
小さな小屋のような建物で、駅のトイレとはどこの町でもみんなああいう感じでした。
だから爆弾が爆発した後、駅の建物は木っ端微塵になり、地面にあいた大きな穴以外は何も残っていなかったのですが、トイレだけは奇跡的に無傷だったのです。
戦争が終わり、駅は作り直され、でもトイレだけは当時の姿のままで現在に到っているわけでした。
駅員や他の乗客たちと同じように、祖母の遺体は発見されませんでした。
粉々に吹き飛んでしまったのです。
祖母は金持ちの家から嫁に来ていて、高価な持ち物をいろいろと持っていたそうです。
中でも一番だったのはダイヤの指輪で、誰でもあっと驚くほど大きく、売れば相当なお金になるものだそうでした。
戦争のころには、うちの家はそれほどお金持ちだったのです。
でも今はそうじゃなくて、かなり貧乏になって、両親がこそこそ話しているのを偶然耳にしたのですが、借金を返すために、いま住んでいる家ももうすぐ売り払わなくてはならないということでした。
父が経営していた会社が倒産し、僕の家には本当にお金がなかったのです。
それは僕にとっても悲しい話でしたが、子供にどうにかできることではありません。
何も気づかないふりをして、毎日学校に通い続けるしかありませんでした。
僕たちには、援助してくれる親戚も何もなかったのです。
そんなところへあの不思議な男の子が現れ、トイレの窓の外を指さしたわけでした。
「えっ?」
僕は思わず振り返ってしまいました。
そのときには男の子の姿はもう消えていましたが、彼がどこを指さしていたのかは、はっきりと覚えていました。
僕は窓に近寄り、ひさしを見上げました。
なんということのない景色です。僕は両手をかけ、窓にはい上がってみました。
ひさしがさっきよりもずっと近くなります。
雨どいにだって手が届きそうです。
「あっ」
突然バランスを崩し、僕は窓から転がり落ちそうになりました。
思わず手が伸び、雨どいをつかんでしまいました。
でも戦争前から立っている古い建物です。
雨どいは簡単にちぎれ、ガタンと外れてしまいました。
だけどそのとき、雨どいの中から何かが出てきたのです。
長い間内部に引っかかっていたものが、雨どいが壊れたことで転がり落ちてきた感じでした。
床に落ちて、小さな音を立てました。
僕はなんとか窓から落ちずにすみました。
ほっとしたけれど、雨どいの中から落ちてきたものに気がついて、思わず悲鳴を上げそうになりました。
手首のところで切断された人間の手だったのです。
僕は床に降り、何度も深呼吸をして気を落ち着け、やっと顔を近づけて観察できるようになりました。
その手が何十年も前の古いものだということはすぐにわかりました。
からからに乾いてすっかり黒ずんでいるけれど、女の人の手のようです。
その指に大きなダイヤの指輪を見つけたとき、僕がどれだけ驚いたことか。
もちろん、これが祖母の手だという証拠はありませんでした。
手をそのままにして、僕は駅員を呼びにいきました。
駅員は警察官を呼び、警察官は鑑識課員を呼び、翌日の新聞に記事が出る大きな騒ぎになりました。
アメリカ軍の爆弾によって吹き飛ばされ、祖母の身体はバラバラになり、手首もちぎれて遠くへ飛ばされたのでしょう。
そして偶然あの雨どいの中にポトンと落ち、だけどあんな場所だから誰にも気づかれることなく何十年もたってしまったのでしょう。
僕たちにとって幸運だったのは、これは祖母の結婚指輪だったのですが、指輪職人が製造番号を刻印していて、しかも製造品の台帳を今でも保管していたことです。
刻まれていた番号から、これが祖母のものであることはすぐに証明できました。
だから僕は、今でも以前と同じ家に住み、転校することなく同じ学校に通っています。
家を売って引っ越す必要はなかったわけです。
指輪を売って得たお金は借金を返してもまだ余裕があり、父はそれを元手に新しい仕事を始めることができたのです。
たぶんこれはハッピーエンドなのだろうと思います。
蛇足ですが、その後僕があのトイレを利用しても、あの男の子が姿を現すことは二度とありませんでした。