蝶娘

文字数 3,867文字

(この作品には、残酷な表現が含まれています。ご注意ください)



 裕子は、いわゆる優等生であった。
 しかもX女学院といえば相当に有名で、近在どころか、遠く他県からも入学希望者が集まるという学校である。
 学業成績が優秀というだけでなく、在学中のクラブ活動でもこの学校は成果が目を引き、何々大会で優勝だのというニュースは、新聞紙面でも見飽きるほどだ。
 学業やクラブ活動を離れて、ボランティア活動などでも良く知られていた。
 さらには卒業生も、有名大学への進学は当たり前として、政財界にあまねく広がるOG会(同窓会)の活躍も、甘くは見られないのである。
 ためしに同窓会名簿をくってみると良い。市議会や県議会の女性議員はもちろん、国会議員や内閣閣僚の妻にまで、卒業生をたくさん見つけることができる。
 そんな学校の優等生である裕子の身に事件が起こったのは、ある日曜、窓を大きく開け、風を浴びながら読書をした時のことであった。
 いつの間にかうたた寝をして、目を覚ましたが、そのとき鼻の上に違和感を感じたのである。
 むずかゆいような、何かが張り付いている感じが鼻の頭にあるのだ。裕子は鏡をのぞき込み、息をのんだ。
 季節がちょうどよく、開いたままの窓から、知らぬ間にイモムシが入り込んでいたらしい。それが何も知らない裕子の体をよじ登り、鼻の上で脱皮したのだ。
 裕子の鼻の上には、蝶のサナギがくっついていたのである。
「きゃっ」
 小さく叫んで、むしり取りかけたが、サナギに指先が触れる直前に、裕子は思いとどまることができた。
 頭の中に考えが浮かんだのである。
(私みたいな優等生なら、こんな時には、どう行動するべきかしら?)
 なにしろ裕子は、筋金入りの優等生だったのである。
 学業成績が学年1位であるのはもちろん、生徒会活動にも参加している。2年生の今は生徒会長だが、実は1年の時から役員についていた。
 3年生となる来年には生徒会を退くが、きっと文化祭の実行委員長に選ばれるであろうとは、もっぱらの噂であった。
 そんな優等生が、か弱い生物にめったなことはできない。もう一度、鏡に顔を近づけ、まじまじと眺めたのである。
 サナギは小指ほどの大きさしかない。よく見ると、とがった頭が妖精の帽子のようでかわいらしいではないか。
 裕子の鼻に細い糸をピンと掛け、しがみついている。
(顔の真ん中にこんなものなんて、みっともないことこの上ないけれど、意外と役立つかもしれないわね)
 優等生の考えることは訳が分からない。蝶がかえるまでの間、裕子は、サナギをこのまま放置することに決めたのである。
 翌朝になり、制服を着て家の外へ一歩出た瞬間から、思惑通り裕子は人々の注目を集めた。
 まず隣家の主婦が大きな声を上げた。真ん丸い目をして丸々と太った女だが、その目をもっと丸くしたのだ。
「まあ裕子さん、その鼻はいったいどうしたの?」
 裕子は立ち止まり、微笑んだ。注目されることが大好きな娘なのである。
 好奇心旺盛な観客たちに、この事態をどう説明するか、その文言は昨夜のうちに考案してあった。
 裕子はにっこりと説明したが、「まあ」と言うきり、女はそれ以上言う言葉を思いつかなかった。
 女の視線が自分へと向かい、引き離すことさえ難しいこの瞬間を、裕子は充分に楽しんだのである。
「ではこれで…」
 裕子は女の元を離れたが、顔には出さずとも内心はうれしくて仕方がなかった。
(思った通りだわ。今日一日、いいえ、このサナギがかえる日まで、私は周囲の視線を集め続けるに違いないわ)
 なんといい気分であろう。道行く人すべてが裕子に注目した。だが裕子は気づかぬふりを続け、道を急いだのである。
 学校に着いて教室に入っても、午前中はまともに勉強にならなかった。全学から見物人が集まり、裕子の鼻をまじまじと見つめるのだ。
 いちいち説明する代わりに、例の文言を紙に書き、裕子は机の上に置いた。好奇心いっぱいの新たな見物人が現れるたびにそれを手渡し、優等生らしく静かに勉強を続けたのである。
 誰が知らせたのか、カメラを手に新聞部員が現れ、散々写真を撮り、インタビューをして引き上げていった。
 生物部の連中も姿を見せ、ルーペを使い、たっぷり15分間は観察してから、やっと帰っていった。
「形からいって、これはアゲハチョウのサナギね」
 と、メガネをかけた生物部員は宣言した。なんでも、昆虫学の雑誌に論文を投稿するのだそうである。
(まあ、お好きになさいよ。クラブ活動に協力しておくのも、私の評価を上げる邪魔にはならないわ)
 誰が連絡したのであろう。数日後、ついに本物の新聞記者が学校を訪れたのである。
 もちろん校長以下、教師たちもご満悦で、取材のために校長室が提供されたほどだ。
 そして翌日の紙面が振るっていた。裕子の大きな写真とともに、活字が躍ったのである。
『蝶娘』などと書き立てられ、裕子もまんざらではなかった。この新聞が配られた朝が、文字通り裕子の鼻が最も高かったときであろう。
 あと数週間先のことに違いないが、サナギが羽化し、蝶が飛び立つ瞬間のことを、裕子は想像しないではいられなかった。
(いつがいいかしら? 家に一人でいる時ではつまらないわ。たくさんの人に目撃してもらわないと)
 裕子の想像力には限界がない。
(ええ、そうだわ。学校の授業中、いいえ、テストの時間中のほうがいいわ)
 裕子によると、最もドラマティックな羽化の場面とは、次のようなものである。
 テストの時間中、サナギの変化に最初に気づくのは、裕子の隣に座っている生徒だ。
 驚きのあまり、彼女は「ひいっ」と声を上げかけるが、重要な試験の真っ最中なのだ。手を上げて教師に告げるわけにもいかない。
 気持ちを抑え、彼女は答案に注意を戻すしかないのだ。
 その頃には裕子自身も、自分の鼻の上の異変に気づいているが、これまたどうすることもできない。
 まず始め、ピリリとサナギの背中が細く裂ける。そこから羽根を先に、ゆっくりと蝶が姿を現すのだ。
(生物部が言ったとおり、本当にアゲハチョウなのだわ)
 と羽根の模様から裕子は理解するのだが、だからといって、どうなるものでもない。
 羽化したばかりの蝶の羽根は、しわくちゃである。これが次第に乾き、しわのないまっすぐな形になるのだ。
 試験が終了する頃にはすっかり乾き、準備体操でもするように、蝶は鼻の上で羽根を動かし始める。
 試験の終了を告げるベルがついに鳴った時には、裕子は心底ほっとする。羽根が巻き起こす風が、くすぐったくて仕方ないのだ。
 答案が回収されるや、席から立ち上がる前にそっと手を伸ばし、裕子は蝶を捕まえる。
(誰が母親か分かっていて、蝶は逃げるそぶりも見せないのだわ)
 ごく繊細な折り紙であるかのように、裕子は蝶を扱い、
「ねえ、誰か窓を開けてよ」
 さっそく一人がそれに従うと、生徒たちは窓に群がり、その中心に裕子がいるのだ。
 腕を突き出し、指の力をゆるめると、蝶はさっそく大きく羽ばたき、最初に吹いた初夏の風を捕まえ、大気の中へと飛び出していくのである。
 生徒たちの歓声と拍手が校舎に響き、何事かと職員室の教師までが窓から身を乗り出すほどだ。
 その間に蝶はさらに風を受け、ずんずん高度を上げる。そして太陽の方向へと進み、何秒間かは小さな黒い点だったが、やがて見えなくなるのだ。
 生徒たちはもう一度歓声を上げ、手を叩く。
「うふふふ…」
(こんなシーンを目撃すれば、先生たちだって大いに感心するに違いないし、同級生たちも感激して拍手は鳴りやまず…。そう、私は学校の伝説になるんだわ)


 読者は、サナギタケという言葉をご存知であろうか。あるいは『冬虫夏草』のほうがおなじみかもしれない。
 要は菌の一種で、セミやガの幼虫に取り付き、養分を吸収して成長する。取り付かれた昆虫は、もちろん死んでしまう。
 サナギタケにはいくつかの種類が知られるが、この世にはまだ未発見の新種が存在したということなのだろう。
 生物学者はきっと興奮するであろうが、この新種はどうやら、アゲハチョウに寄生するようなのだ。アゲハチョウがまだ幼虫である時代に取り付き、サナギに変化するころになって、やっと行動を開始する。
 つまり寄生されたサナギは、蝶へと羽化することはないのである。
 もちろん裕子はそんなことなど知らない。夢にも思わない。
(なぜまだ羽化しないのかしら。お寝坊さんねえ)
 などと思っているうちは良かった。
 ある日を境に、頭痛や吐き気などに襲われ、学校を欠席するぐらいならよかったが、ついには高熱を発し、裕子は入院してしまったのである。
 もちろん医師たちは、鼻の上のサナギを最初に疑った。より高級なルーペを用いて、生物部のメガネ生徒よりもよっぽど詳しく観察し、サナギがすでに死んでいることに気が付いたのである。
 だが時はすでに遅し。
 サナギから伸びた菌糸(きんし)は皮膚を突き破り、すでに裕子の体内へと侵入を果たしていた。
 菌糸とは、文字通り糸のように細いものだが、すでにしっかりと根を張り、裕子の鼻と一体となっているではないか。
 しかも昨日より、裕子は意識不明なのである。
 裕子の生命を救うためには、鼻ごとごっそり切断するしかない、と医師たちは覚悟を決めた。

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