兄の始末

文字数 4,085文字

 実の兄妹なのに、洋子と啓次郎は非常に仲が悪かった。
 まさしく犬猿の仲といってよく、『啓次郎』と聞くだけで、洋子の心の中を苦い味が走るほどだったのだ。
「そういえば、兄さんとはこんなことがあったわ。あれは中学に入学してすぐの頃、電車の中で偶然カバンがぶつかり合い、時ならぬ兄とのケンカが始まった」
子供らしい口ゲンカだからと、はじめはまわりの乗客たちも笑っていたが、みるみるエスカレートして、ついにつかみ合いにまで発展したとき、とうとう車掌が仲介に入った。
「なんとか引き離されたけれど、まだ私たちはにらみ合っていた。ええそうよ、思い出したわ。同じ車内にいればまたケンカをするに違いないと乗客の一人が提案し、『どちらか一人を後続の電車に乗り換えさせよう』ということになった」
 ところが、どちらが下車するかで、またもめた。
「だけど結局、妹の私が無理やり降ろされたのだけどね。そのことでも私、気を失いそうなほど腹が立ったわ…。あれから何年もたつけれど、まだ私たちの不仲は直らない。直す気もないけどさ」
 この不仲について、最初は家族も心配したが、そのうちにさじを投げた。
 そして数年後、あいついで両親がなくなった。
「だけどそのとき、私も兄もまだ成年には達していなかった。両親はかなりの遺産を残してくれたけれど、まだ私のものではない。同い年なのだから、兄のものでもない」
 二人が成年に達するまでの数年間、遺産は弁護士が管理することになった。
「私があの疑問に思い至ったのは、ちょうどその頃のことだわ。遺産なんて、20歳になれば黙っていても受け取ることができるのだけど、兄も同時に同額を受け取るというのが、私は気に入らなかった」
 だから洋子は用事を装って弁護士を訪れ、質問したのだ。
「ねえ先生、もしも私が死んだら、私が受け取るはずだった遺産は誰のものになるかしら?」
 何も疑わず、弁護士は答えた。
「お兄さんのものですよ。あなたが亡くなった場合、ご両親の遺産はすべてお兄さんのものとなります」
「あらそう?」
 何食わぬ顔をして、洋子は家に帰った。
 このときになっても、まだ洋子は古い屋敷で兄と同居していたのだ。
「だって、住み慣れて使用人もいるこの快適な屋敷を離れる理由はないもの。たとえ毎日、あの不愉快な兄と顔を合わせる必要があるとしてもね」
 しかしそれが計画の発端となったのだ。
 洋子はある光景を目撃し、それがきっかけとなった。
「子供のころから、兄は動物がとても好きだった。ケガをした子犬や子猫を町で見かけ、拾ってかえって世話をしたのも一度や二度ではなかったし、最悪なのはイモムシを捕まえて、けばけばしい水色の巨大なガになるまで育てたことだわ。それがなぜかビンの中から逃げ出し、私の寝室へ迷い込んで、ベッドの枕カバーにとまっていた」
 悲鳴を上げ、洋子は気絶しかけたが、鼻で笑うだけで、啓次郎はまるで取り合わなかったのだ。
「虫なんかを見て、悲鳴を上げるほうがおかしいぜ。毒も何もないんだからな」
 この一件が、啓次郎に対する洋子の憎しみをさらに燃え上がらせたのだ。
「ええ、ええ。兄に対して、あのときほど強い敵意を感じたことはない」
 しかし洋子はほくそ笑むのだ。
「…だけどさ、兄の動物好きを私が利用するなんて、なんと皮肉なことかしらね」
 屋敷の近所の家に、一匹の犬が飼われていた。
 太郎丸という名で、洋子など近寄る気にもならないほど巨大な体だ。
 門を入ってすぐのところに、番犬がわりにつながれていた。
「でもどうにも気の荒い犬で、飼い主ですら気をつかって、エサをやるにもこわごわ近寄っていたのに、なぜか兄だけは平気だったのよ」
 その家の前を通りかかるたびに啓次郎は門に近寄り、鉄格子越しに手を伸ばし、太郎丸をなでてやるのだった。
「するとどうだろう。あれほど凶暴な犬なのに、太郎丸も兄にだけは心を許すのだ。大きな声でほえるでもなく、それどころかクウンと甘えた声を出して体をすり寄せる。地面に仰向けになって腹を見せることだってある。それを兄は、またうれしそうになでてやるのだわ」
 離れた場所から気づかれないように観察しながら、啓次郎が手をなめさせてやるのまで洋子は見たことがあった。
 その瞬間に、洋子の頭の中で計画がすべて出来上がったのだ。
「太郎丸が怖いのと、ほえる声があまりにうるさいのとで、普段から私は、あの家の前は通らないようにしていた。だがこの日からは習慣を変え、一日に一度は必ず通るようにした」
 門の前を誰が通りかかっても、太郎丸はうなり声を上げ、大きくほえた。
 例外は啓次郎と、エサの皿を持っているときの飼い主だけだった。
 手ぶらのときには飼い主自身でさえ、あのほえ声を向けられるのを洋子は何度も目撃した。
「だけど私は、太郎丸の前をただ毎日通るようになったわけではないわ。いつもポケットの中に小石を忍ばせていた。小指の先ほどの小さなものよ」
 あの家の門が近づき、ほえ声が聞こえると、洋子はサッとポケットに手を伸ばす。
 そしてまん前を通りぬけながら、小石を、太郎丸めがけて投げつけるのだ。
「もちろんいつも命中するわけではないわ。むしろ、外れることのほうが多い。だけど毎日毎日、通りぬけざまに小石を投げつけられて、いい気分でいるはずがない。一度だけだが鼻の真ん中に命中して、太郎丸はそれこそ爆発するようにほえ立てた。何事かと、家人が庭に飛び出してきたほどだわ」
 そうやって、洋子と太郎丸は敵になっていった。
 たった数日のうちに、洋子の足音を耳にするだけで太郎丸は猛烈にほえ、興奮し、鉄の門の向こうではね回るようになった。
「やつは私にかみつき、八つ裂きにしたいのだろうけど、まさかね。門は大きく高く、翼でもない限り飛び越えることはできない。それ以前に、太郎丸は太い鎖でつながれている。私の顔を見ているときのやつの怒り、憎しみは想像もつかないほどだわ」
 そろそろよいころだろうと、洋子は最終的な作戦を実行することにした。
 啓次郎を観察し、何曜日は何時に家を出、何時ごろに帰ってくるか、洋子は予測できるようになった。
 啓次郎は大学生で、経済学を学んでいた。
「そういうある日のことよ。今夜、兄は夜の8時ごろ帰ってくるだろうと私は見当をつけた。そして家の近所で待ちかまえていた。人通りの少ない物影で、太郎丸のいる家から遠くはなく、かといって近すぎもしない。ここからでは私の足音も届かず、太郎丸が騒ぎ出すことはなかった」
 数分待つだけで、啓次郎が近寄ってくる姿を、洋子は遠くに見つけることができた。
 物影に身を隠し、洋子は啓次郎をやり過ごした。
 啓次郎は気づきもせず、洋子を追い越していった。
 十分な距離をとり、洋子はついていくことにした。
「足音を消し、私は息までつめていた。やがて兄は、太郎丸がいる門の前にさしかかった。兄は立ち止まり、太郎丸に目を走らせた。太郎丸も気づき、立ち上がって尾を振っている。兄は一瞬ためらい、今日は太郎丸の相手をしたものかどうか、迷っている様子だったわ。学科の試験が近いので、余分な時間はないという気持ちだったのね」
 啓次郎がそのまま歩き続ける気配を見せたとき、洋子がどれだけ落胆したことか。
 だがあの太郎丸だ。
 太郎丸はクウンと甘える声を出し、もう一度、啓次郎の注意を引いたのだ。
「…顔をほころばせ、ついに兄は門へ近寄っていった。期待に満ちた太郎丸の息づかいまで聞こえてくる。兄はかがみ、門のすきまから手を差し入れ、太郎丸の頭をなで始めた。太郎丸は目を細め、兄の指をなめようとする」
 これこそが、洋子が待っていた瞬間だった。
「パタパタとわざと足音を立てて、私は歩いていったのよ。太郎丸の耳が一瞬でピンと立つのが見えたわ。ご丁寧に門の前まで行き、私は太郎丸に顔を見せてやった」
 この瞬間、犬の脳の中で、怒りと憎しみのスイッチが入ったのだ。
 息を吸い込み、筋肉を震わせ、太郎丸は全身を緊張させた。
 怒りに取り付かれ、もう何も見えてはいない。
 そういう瞬間には善悪はなく、自分のそばにいる者はすべて、ただ邪魔な存在でしかない。
 それが味方であるか敵であるか、もう判断もつかない。
「この何日かの経験で、太郎丸の心には怒りが分厚く積もっていた。私にかみつき、全身の力をアゴに込め、牙を突き立てることしか、あの瞬間のあいつの頭の中にはなかった。八つ当たりでも何でもかまわない。私への攻撃心を満たすためなら、手近なものに何でもかみついてしまう。そしてこのとき、太郎丸の目の前には兄の手首があったのだ」
 人間の手首には、太い血管が通っている。
 あのサイズの犬なら、骨もへし折る強い力が出せる。
「兄の悲鳴は夜の空気をつんざき、町内の全員を飛び上がらせたわ。家々の窓や扉がガラガラと開き、人々が姿を見せたほどだ」
 人々はすぐに啓次郎のありさまに気がついたが、そのときには洋子は姿を消し、家とは反対の方角へと歩き始めていた。
 まわりの注意を引かないように、できるだけ平静な足取りを保った。
「そのまま町へ出て、喫茶店でコーヒーを飲んで時間をつぶし、私は家にはゆっくりと帰った。玄関を開けると、メイドがすぐに飛んできた。彼女の顔は紙のように真っ白だったが、それは予想していたことだ」
 メイドはこう言った。
「…お嬢様、お兄様が事故でなくなりました」
 死因は出血多量だった。
 あの後すぐに病院へ運ばれたが、間に合わなかったのだ。
「ああ、やれやれ。明日は兄の葬儀だ。面倒くさいけど、せめて悲しみにくれる妹の演技を心がけてやろう。それに、あのことを思い出すたびに私はうれしくてたまらず、思わず笑いが浮かんでくる。まわりの人々の目からそれを隠すのに、どれだけ苦労していることか」
 それは洋子の誕生日のことだ。
 あと一週間で、洋子は20歳になる。
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