蜂の巣

文字数 12,430文字



 それまでまったく存在を知らず、話に聞いたこともない秘密の小部屋の家の中に発見したとき、なぜあのような行動を取ったのか、加代子本人にもうまく説明することができなかった。
 それだけではない。
 知らぬ間に加代子の手は電話器を取り、指は母の家、つまり実家の番号を押していたのだ。
 2、3回ベルが鳴ったところでカチリと音がして、母の声が聞こえてきた。
「はい、佐藤でございます」
 それは、いつもの通りの母の声だった。だが奇妙な衝動にかられ、加代子は自分でも理解できない行動をとったのである。
 母のいる実家を離れ、加代子は何年も伯母と同居していた。
 足が不自由で車椅子が必要になった伯母と同じ屋根の下、加代子はこれまで長い時間をすごしてきたのだ。声や話し方をまねるのは難しくはなかった。
 伯母の声音で、加代子は母に呼びかけたのだ。
「もしもし和子かい?」
 想像通り、母の返事は驚きの色に満ちていた。しかし…
「えっ、お姉ちゃん? お姉ちゃんなの? まさか本当にあの世から生き返ったのかい?…」
 という返答は、母がいくら迷信深い女とはいえ、あんまりである。
 だが加代子は、こうなることを無意識のうちに予想していたのだ。
 伯母の声音で、加代子は静かに続けた。呼吸一つ乱れないことに、自分自身でも恐れを感じながら…。
「ああ和子、もちろん私だよ。エンマ様の特別なお許しを得て、こうしておまえに電話しているのさ」
「ああお姉ちゃん、本当にあの世からかけているのかい? ああうれしい。お姉ちゃんが死んでから、今日でちょうど一年だものねえ。じゃあ今度こそ、うまくいくんだね」
「今度こそって?」
「なんだ忘れたの? 無理もない。死んであの世へ行った人なんだもんねえ。20年前、身寄りのない女の子をもらってきて、あたしが養子にしたじゃないか」
「そうだったかねえ?」
「そうさ。この子をいけにえに、お姉ちゃんは何回も何回も呪いをかけたけれど、だめだった。女の子はずっとピンピンして、足にケガをする気配もなかった。とうとうお姉ちゃんは自分の足を直せないまま、ある日、蜂に刺されて死んでしまったねえ。真夜中、寝ている部屋の中に蜂が入ってくるなんて、なんと運の悪いことだろうねえ…」
「和子、その養子って、加代子のことを言っているのかい?」
「当たり前じゃないか。それでお姉ちゃん、加代子の命を取って、代わりにお姉ちゃんがこの世によみがえる準備が全部済んだんだね? だからエンマ様のお許しが出て、こうして電話してこれたんだろう?」
「もちろんそうに決まっているさ。ところで和子、年のせいか最近私は物忘れが激しくてねえ。加代子の命をとって、私が生き返るあの仕掛けって、どうなっているのだっけねえ?」
「お姉ちゃん、そんなことを忘れては困るよ」
「忘れてやしないさ。ただほんの少し頭がぼんやりして、自信がなくなっているだけさ」
「頼りないねえ。あたしがしっかり思い出させてあげるよ。今日はお姉ちゃんの命日だ。その日に合わせて着くように、加代子には私から小包が送ってあるんだ」
「小包?」
「中身はあの子の大好きなお菓子だから、すぐにペロリと食べてしまうさ。日暮れまでには眠り薬が効いて、加代子はだらしなく眠りこけるに違いない。そのころを見計らって、あたしが出かけてゆくのさ」
「加代子の家へあんたが行って、何をするんだね?」
「うふふ、それは後のお楽しみだよ。全部あたしがうまくやるから、お姉ちゃんは何も心配しなくていいんだよ。子供の頃みたいに、また二人だけで楽しく暮らしたいねえ。あれあれ、もうこんな時間だ。あたしは加代子の家へ行く支度をしなくちゃならない。名残惜しいけど、電話を切るよ」
 チンと音がして、電話は切れてしまった。
 母から届いた小包はテーブルの上に置かれ、加代子はまだ封を切っていなかったのだ。ここへやってきて、母は何をするつもりなのだろう。加代子は頭を悩ませなくてはならなかった。
 母が姿を見せたのは、一時間後のことだった。家の前に自動車の止まる音があり、少しして、玄関がそっと開かれる気配があった。
 わざと真っ暗にした部屋の中で、加代子は待っていたのだ。足音を忍ばせて廊下を通ってきた母は電灯のスイッチを入れ、加代子の姿を見てひどく驚いた声を出した。
「あら加代子ちゃんいたの?」
「ええ、待っていたのよ」
「どうして明かりを消しているの? 元気にしているかと、様子を見に来たのよ。今日はあんたの伯母さんの命日でもあるしね。あんた、あたしが送ったお菓子は食べたの?」
「食べるわけないじゃないか」
「どうして?」
「なあ和子、お菓子の中には眠り薬が入れてあると、おまえ自身が電話で言ったじゃないか」
「なんだって? あんたは親を呼び捨てにするのかい?」
「まだわからないかい? 私は加代子じゃないんだよ。もちろん肉体は加代子のままだが、魂はおまえの姉なのさ」
「お姉ちゃん?」
「フフフ、その通り。エンマ様も粋なことをなさる。私を単に生き返らせるよりも、加代子の魂を取ったあと、その空っぽの肉体に私の魂を入れるほうが何かと便利だろうとおっしゃった。それはそうだろうねえ。死んだはずの人間が元の顔かたちのまま歩き回ったら、世間が変に思うからねえ」
「じゃあお姉ちゃん、ついにこの世に戻ってきたんだねえ。ああうれしい。また二人で暮らせるよ。あの頃はよかったねえ。そういえば、あの金持ち男のことを覚えているかい?」
「いいや、この世に戻ってきたばかりで、まだ少し頭がぼんやりしているのだよ。思い出させてくれるかい?」
「もちろんさ。とてもおもしろい話なんだよ。もう20年前になるけど、ある男がいたのさ。妻に早く死なれ、一人娘の世話と仕事で毎日忙しくしていた。その家に、あたしが家政婦として住み込んだのさ。男は会社を経営していて、若いのに羽振りが良く、それはそれは立派な屋敷だったよ」
「へえ」
「もちろん、あたしはまじめに働いたさ。掃除に洗濯、幼稚園への子供の送り迎えとね。数ヶ月たち、すっかり信用を得たところで、あたしはお姉ちゃんを呼び寄せたんじゃないか」
「その男の屋敷へかい? やってきて、私は何をしたんだい?」
「おやおや、すっかり忘れちゃってるんだねえ。数日の間、お姉ちゃんは物置の中に潜んでいたのさ。夜中にそっと抜け出し、お姉ちゃんは屋敷の中のつくりや、どこに何か置かれ、どのように保管されているかをすべて調べた。金庫の合鍵も作った。そしてある日…」
「どうしたね?」
「あの日は幼稚園の遠足があった。だから母親の代わりとして、あたしは娘につきそって一緒に出かけたんだ」
「ほう」
「犯行に遠足の日を選んだのは、あたしのアリバイを作るためだったけどね。もう一週間になるのに、屋敷の中にお姉ちゃんが潜んでいることなど、あの男は夢にも知らなかった」
「それで、どうなったんだい?」
「あたしと娘が遠足に行っている間に、お姉ちゃんは屋敷の中から金目の物を運び出そうと奮闘していた。それは成功するかに思えたが、一つだけ計算違いがあった」
「なんだい?」
「忘れ物でもしたのか、あの男が不意に会社から帰ってきたのさ。屋敷の中で、お姉ちゃんと鉢合わせしてしまった。『おまえは誰だ? この泥棒め』、と捕まりかけたが、さすがはわが姉様、大きく重い花瓶で、とっさに男の頭をゴチンと叩き割った」
「男は死んだのかい?」
「当たり前じゃないか。一瞬でグウとも言わなくなった。盗品をかかえ、お姉ちゃんはすぐさまドロン。ネズミ小僧なみの鮮やかさだったねえ」
「おまえはどうしたんだい?」
「どうもも何も、何食わぬ顔で娘と一緒に遠足から戻ってきたさ。そして110番したが、警察はまったく不審がらなかった。みんな同情こそすれ、あたしは疑いの目を向けられることさえなかった」
「娘はどうした?」
「お姉ちゃんも鈍いねえ。その娘が加代子だよ。事件のあと、あたしが養子にしたのさ。ガキのくせにかなりの財産を相続したことも魅力だったし、何よりも本人があたしになついていたからね」
「そしてその後、加代子をいけにえに、私の足を直す呪いを色々と試してみたが、うまくいかなかったということだね」
「お姉ちゃん、やっと思い出してくれたんだね。これでもう安心だ。おや? 安心といえば…」
「どうしたね和子?」
「いや、ただ気がかりなんだけどね。あのとき盗品の中に、債券があったのさ」
「債券?」
「死んだ男が、娘のためにと買った物さ。それがなんと総額…」
 声を小さくし、和子は金額を口にした。その数字の大きさに、加代子も目を丸くした。
「…そんなに高額なのかい?」
「あの男は金持ちで、しかも一人娘だからね。ところがこの債券には、あらかじめある日付が決められていたのさ。20回目の誕生日が来て、加代子が成人しないと現金化することができないんだよ」
「だが和子、加代子の20歳の誕生日はもうとうに過ぎているじゃないか。その債券は、どこかに隠しておまえが保管しているのだろう? どうして現金化しなかったのだい?」
「事情があるのさ。事件の後、弁護士がしゃしゃり出てね。よせばいいのに、盗難品のリストを作って、警察へ提出しやがった」
「債券もそのリストに載っているというのだね。そうか。現金化しようとすれば、そこから足が着く。盗難届けの出た債券なのだから」
「その通りさ、お姉ちゃん」
「でも方法はあるんじゃないのかい? 家の中を片付けていたら、盗まれたと思っていた債券がひょっこり出てきた。盗難届けは間違いであった、と私が警察へ連絡すればいいんじゃないのかい?」
「お姉ちゃんがかい?」
「私じゃない。『加代子』がさ」
「ははあ」
「現金化にはもちろん『加代子』の…、いや私のサインが要る。でもそれは問題ない。ペンを手に、サラサラと書いてみせるさ。誰にもばれっこない」
「そりゃそうだよ、お姉ちゃん。さっそく明日、警察に届けを出そうよ。午前中に警察へ行き、午後は銀行へ回ろう」
「善は急げというやつかい?」
「そうともさ、お姉ちゃん。あたしはさっそく債券を取りに行ってくるよ。ちょっと遠い場所に置いてあるが、車があるから2時間もかかりゃしないさ」
 和子は機嫌よく出かけてしまった。
 自動車の音が遠ざかったことを確認してから、加代子は立ち上がった。受話器を手にし、今度は警察へ電話をかけたのだ。



 和子は予想通りの時間に姿を見せた。息をはずませながら家の中へ入ってきたのだ。
「お姉ちゃん、これだよ」
 さっそく取り出し、和子はテーブルの上に広げたが、加代子が何も言わないので、不審そうな顔をした。
「お姉ちゃん、どうしたんだい? 手にとってごらんよ」
 だが指紋採取の関係で、債券には出来るだけ手を触れないように、と加代子は刑事から言われていたのだ。手を伸ばす代わりに、加代子は口を開いた。
「ねえ和子、事件の後、この債権はずっと今までおまえが保管していたのだね。他の盗品はどうしたんだい?」
「すべて売って金に換えたよ。どうしたんだい、お姉ちゃん? 様子がおかしいよ」
「なんでもない。ただちょっと疲れただけさ。ところで和子、お願いだから、そこのふすまを開けてくれるかい?」
「開けてどうするのさ?」
「いいから開けてごらんよ。きっとびっくりするよ」
 さらに不審そうな顔をしながらも、和子は言葉に従った。そして大きな悲鳴を上げたのだ。
 飛び出してきた刑事の手を逃れ、とっさに反対側へ走ろうとしたが、そこにもう一人別の刑事が待ちかまえていたのでは、さすがの和子も逃げ切ることはできなかった。
 しばらくの間、憎々しげに加代子をにらんでいたが、和子はすべてを悟ったようで、きっぱりと言った。
「あたしはすべてを黙秘するからね。人を逮捕するなら、逮捕状を見せなさいよ」
 刑事は慣れた様子で答えた。
「逮捕状はこれから請求するさ。これは、重要参考人としての任意同行というやつでね」
「任意って、あたしは承知してないよ」
「刑事2人の目の前から走って逃げられるものなら、やってみるがいいさ」
「ちぇっ覚えてろ。加代子、おまえはなんて娘だ。親をこんな目にあわせるなんて、ただではすまないからね」
 加代子は口を開いた。
「刑事さん、今の発言は脅迫になりませんか?」
「いやいや、殺すとかなんとか、もっと強い言葉でないとね。では我々は失礼します。もうすぐ鑑識の連中が来るはずなので、例の秘密の小部屋を見せてやってください」
「わかりました」
 刑事たちに左右をはさまれ、和子は行ってしまった。
 鑑識の人々はすぐに現れた。テレビドラマで見るように紺色の制服を着て、道具類を入れた銀色のスーツケースをいくつもさげた物々しい姿だ。
 すぐに加代子は、小部屋へと案内した。
「ほほう」
 鑑識課員たちは目を丸くしたが、それも無理はない。目の錯覚を利用して、ちょっと見ただけでは存在に気が付かないようになっている。いつの間にどうやって用意したのか、本職の大工が手がけたしっかりした作りだったのだ。
 小部屋の内部は、まるで小さなコレクションルームのような眺めだった。
 写真が何十枚も、壁にじかに貼られている。すべて加代子の写真なのだ。
 最近の姿を写したものも、まだずいぶん小さく、小学校低学年か、もしかしたら幼稚園時代かと思える古いものまである。
 だが写真にはすべて共通点があった。どれも例外なく、加代子の足の部分に鋭利なナイフで傷がつけられていたのだ。勢い余ったのか、紙が千切れかかっているものまである。鑑識課員は言った。
「おやお嬢さん、この写真だけじゃないんですか?」
 写真の奥に並んでいたのが、雑多な小物類だ。ハンカチや小学校の名札、靴下の片方といったもので、手に取ると、加代子がいつの間にかなくしたと思っていたものばかりだ。子供らしい文字で名前が書かれているので、確かに元は加代子の持ち物だったとわかる。
 これらにも例外なく、ナイフで傷がつけられているのだ。ぞっとすることにハンカチなどは、見慣れない呪文まで書き込まれている。若い鑑識課員はため息をついた。
「これが呪術というやつか…。はじめて見たよ」
 鑑識の本格的な作業が始まって一時間ほど過ぎた頃、いったん席を外していた加代子は再び呼ばれ、小部屋へと入っていった。
「どうかしたのですか?」
「ええお嬢さん、ちょっと発見がありました。お手数ですが、あなたも見てください」
 加代子が案内されたのは小部屋のさらに奥まった場所で、そこでさらに隠し部屋が見つかったのだ。鑑識課員がその戸を開いたのはいいが、中にあったのは高さ一メートルほどの金庫で、開け方がわからなかった。
「この金庫には番号式の鍵がついていますね。開けて中を確認したいのですが、その数字がわからないのです。お嬢さんに心当たりはありませんか?」
「4桁の数字なのですか?」
「ええ、そうです」
「だったら、わかるかもしれません。ちょっと待っていてください」
 加代子は一人で自分の部屋へ戻った。宝石箱のところへ行き、また小部屋へと引き返したのだ。
「お待たせしました」
「それは何ですか?」
「伯母の形見の指輪です。サイズが合わないから私は使わなかったのですが、裏側にほら、小さな数字が刻印されていることに気がついたんです」
「ああ本当に書いてありますね。その番号をこの金庫に試してみましょう」
 はたして金庫はすぐに開くことができた。
 だが金庫の内部はほとんど空で、入っていたのが、40センチほどもある大きなガラス瓶一つきりだったのには、鑑識課員も驚いた。
 しかもこの瓶には中身があり、死んでからすでにかなりの日数が過ぎているが、数匹の蜂の死骸だったのだ。
 鑑識課員は首をかしげた。
「これは何ですかね?」
「ははあ」
「何です、お嬢さん?」
 加代子は鑑識課員を振り返った。
「ちょっと思いついたことがあるんです。刑事さんに連絡はつきませんか? うまくいけば、母の口から事情を聞き出せるかもしれません」
 翌日、加代子は警察署へ行き、刑事たちと合流していた。加代子の口から作戦を聞かされ、半信半疑の顔をしていたが、刑事たちも最後には承知した。
 留置場から引き出され、和子は取調室へ入れられた。この部屋の様子はマジックミラー越しに、隣の部屋からも見ることができる。
 最初、和子は不満そうな顔で座っていたが、刑事が部屋に入ってくるなり顔を上げた。刑事とのやり取りを、加代子はすべて目撃することができた。
 刑事は言った。
「娘さんのことでお知らせがあります」
 椅子に腰掛けたまま、和子はじろりと見上げた。
「ふん、加代子なんか娘と思ったことはない。金を目当てに養子にしただけさ」
「昨日の夜、加代子さんの家に蜂が姿を見せましてね」
「えっ?」
「一年前にあなたの姉が亡くなったときにも、蜂に刺されたのが死因でしたね。蜂の姿はないものの、鋭い針にさされた跡が皮膚に残っていた。体内からは蜂毒も検出されたのでしたね。それと同じ種類の蜂が昨夜、加代子さんの家に現れたんです」
 突然大きな声を出し、和子はニヤリと笑った。
「なんだって? 同じ種類の蜂?… なるほどそうか、さすがはお姉ちゃんだ。誰にも知られず、家の中でひそかに蜂を飼っていたのだな。それを使って事故に見せかけて、加代子を…」
「なんですって?」
「あんたも鈍いねえ。あの小部屋を見ただろう? 姉には呪術の知識があり、自分の足を直すために加代子をいけにえにしようと考えた。足のケガを加代子に移し、自分は治癒しようとしたのさ。だけど、それはうまくいかなかった。それならば、せめて加代子の財産だけでも手に入れよう、と姉は考えたに違いないね」
「なるほど…」
「だがあたしが思うに、姉は大失敗をしたようだ。機会を見て加代子の寝室に蜂を放し、刺し殺させようという計画が、何かのはずみで姉自身が刺されたのだろうよ。そう考えれば、すべての説明が付くじゃないか」
「真夜中だから加代子さんは何も知らず、ぐっすり眠っているわけですね。でもあなたの姉が亡くなったのは、真冬のことでしたよ」
「冬には昆虫は冬眠しているが、寝室は暖房されている。温められて活発になった蜂が、朝になって起き出した加代子に襲い掛かるという寸法だったろうよ」
「ところが、その計画が狂ったわけか」
「何かの理由で、蜂を手に持ったまま、姉は一旦、自分の部屋へ戻ったのだろうさ。加代子が不意に起き出したのかもしれないね。だけど姉の寝室ももちろん暖房されていたわけさ。蜂はすぐに目を覚まし…」
「ははあ」
「しかしまあいいじゃないか。うそつき娘は死んだんだ。姉と私のために、きっと蜂が仇を取ってくれたのだね」
「いえいえ、確かに家の中で蜂は見つかったが、それが加代子さんを刺したとは言っていませんよ」
 そう刑事が口にしたときの和子の顔を、加代子は一生忘れることはない。あれほどの憎しみと怒りに満ちた表情を、加代子は見たことがなかった。
 和子は刑事につかみかかろうとしたが、同室していた婦人警官に止められてしまった。そしてすぐさま、留置場へと送り返されたのだ。
 これ以上一秒でも同じ屋根の下にいることには耐えられなかったので、加代子は警察署近くの喫茶店へ移動した。刑事もすぐに追いかけてきて、腰を下ろすなり口を開いた。
「どういっていいか、何もかもお気の毒なことでした」
「ええ、母も伯母も、何年もの間うまくお芝居をしていたのですね。私はまったく気がつきませんでした」
「人間の中には、そういうことのうまい者がいるのです。警察官をしていると何度も目撃します。人を信じることができなくなりますよ。そういう人間は、真に迫った演技を何十年でも続けることができるのです」
「あの金庫の中で、伯母はひそかに蜂を飼っていたのですね。それを使って私を殺すつもりで…」
 刑事はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「例の債券のことですが、証拠品なのですぐにはお返しできませんが、現金化は可能だと銀行が返事をしてきました。それを元手に、気晴らしの旅行でもなさってはどうです?」
「いいえ、あの債券はしばらくあのままで置いておこうと思います。父が私に残してくれた宝物ですから。父の愛情そのものなのですから」



 何日かのち、あの刑事が突然家へ姿を見せたときには加代子も驚いたが、すぐに部屋へ通した。茶を出すと、刑事は口を開いた。
「私などが突然現れてびっくりされるかと思ったが、すぐ近くまで来たので、お元気でいるかと気になりましてね。なにしろ伯母さんとお母さんが相次いで、ああなってしまったわけですから」
「ありがとうございます。元気いっぱいとはいきませんが、なんとかやっております。このあたりに来られたということは、近所で何かあったのですか?」
「大した事件ではないんですがね。この町内のため池に灯油を流した者がいまして、水面が油だらけになりました。その捜査なんです」
「そんな事件にも警察が乗り出しますの?」
「ため池は農業に必要なものですから、被害届けが出ています。油が流されたのは深夜らしいんですが、目撃者などいないとあきらめていたところ、親の目を盗んで夜釣りをしていた中学生が名乗り出てくれました。親に怒られたらしく、むくれていましたが、なだめたりすかしたりして、話を聞いてきたところです」
「そうなのですか」
「目撃証言に従って池の底をさらうと、灯油缶を引き上げることができました。ところが驚いたことに、この灯油缶は中身が9割以上残っていましてね」
「灯油がですか?」
「フタはしてあったものの、わずかにゆるみがあったのでしょう。そこから漏れ出し、水面に油膜を作ったわけです。しかし犯人は、何を考えて捨てたんでしょうなあ。たかが灯油とはいえ、買えば金がかかるわけですし」
「そうですね」
「私が思うに犯人は、灯油がごくわずかだけ必要だったのでしょう。しかしまさか店へ行って、『灯油をコップに一杯だけ売ってくれ』、とは言えない。ひどく目立ち、店員に顔を覚えられてしまいます。だから石油缶ごと買い、必要な分量だけを抜き出し、残りは丸ごと捨てるしかなかったのでしょう」
 加代子は首をかしげた。
「その人は、そんな少量の灯油を何に使ったのでしょうね。でもそれだけの手がかりで、犯人を捕まえることができますの?」
「ある警察犬の話を聞きましてね」
「警察犬?」
「それが変わった犬でしてね。石油やガソリンにも税金がかかることはご存知でしょう?」
「ええ」
「ところが最近は、石油を大量に買いこんで量をごまかして、脱税する連中がいるんです。余分な石油はどこかに隠しておくんですな。だから、それを探し出すために特別に訓練された警察犬が存在するわけです」
「石油の匂いを探り当てる犬なのですか?」
「そうです。どんなに少量でも地面にこぼれていれば、すぐに探り当てます。犬の鼻とは本当にすごいものでしてね。たとえこぼしたのが一年前だったとしても、まだまだ十分な匂いが残っています。この町内を一通り歩けば、まず見逃すことはないでしょう」
「その犬はいつやってくるのですか?」
「明日ですよ。いま同僚が、その犬を借りに出かけています。明日の朝早くから匂いの捜索を始める予定なんです」
 その後もしばらく世間話をして、やっと刑事は帰っていった。
 玄関へ出て、にこやかに見送ったが、その瞬間から、加代子はがぜん忙しくなった。台所に買い置きの酢が十分にあるだろうか、と気になって仕方がなかった。夜になるのが、とても待ち遠しかった。
 田舎のことだ。加代子の家から数分歩くだけで、道は細く、坂もきつく、やがて人気のない本物の山道になった。
 闇の中で懐中電灯を使いながら、加代子は18ヶ月前のことを思い出そうと努めていた。
「一体あれは、どのあたりだったかしら?」
 さいわい加代子は、すぐに見つけ出すことができた。以前にも目印にした角ばった白い岩を見つけることができたのだ。
「このすぐ右側に、以前は蜂の巣があった。だけど私が掘り返したので、今では穴しか残っていないはず…。あああったわ。さあ、酢のビンをポケットから取り出そう」
 だが加代子は仕事を終えることができなかった。背後から突然、強い光で照らされ、小さく悲鳴を上げたのだ。
 その光源は懐中電灯で、聞き覚えのある声が響いた。
「ははあ、かつてそこに蜂の巣があったのですね」
 近寄ってきて、刑事が気楽そうに穴をのぞきこむので、加代子は答えた。
「ええ」
「掘り返して、巣の本体はどうしました? 茶色く大きなのがあったでしょう?」
「小さく壊して、川に流してしまいました」
「蜂の死骸はどうしました? 灯油を吸わされ、窒息して何百匹も死んでいたと思いますが」
「それも巣と同じようにしました」
「ああそうか。生き残っていたのは?」
「たった一匹でした。でもそれで充分だったのです。私が蜂を捕まえ、伯母の寝室に放して刺させたのだと、どうしてわかったのですか?」
「ファーブル昆虫記ですよ」
「昆虫記?」
「ファーブルは有名な昆虫学者ですね。あなたの家へ行ったとき、その本が本棚に並んでいることに気が付き、私も買ってきて読みましたよ。蜂の巣の内部を観察したくて、ファーブルは気温の低い真夜中に森を訪れ、巣に灯油を流し込んで、中の蜂を殺すんです。そうしておけば、翌朝安心して掘り起こし、思う存分観察することができるんですね」
「何もかも、すべてわかっていたのですね。警察犬の話もウソだったのですか?」
「でもため池のことは本当ですよ。あなたの家の暖房がセントラルヒーティング方式で、灯油など必要ないことも一目でわかりました。ねえ加代子さん、あなたの父上を殺したのは伯母さんであると、どうして知ったのですか? それゆえの復讐だったのでしょう?」
「それは、この世には根っからの悪人、本物の悪党は存在しないからですよ」
「どういうことなんです?」
「伯母は無慈悲にも父を殺しました。母はその共犯ですが、姉妹して一流の悪党を気取っていたくせに、やはり人の子です。良心の呵責だけはどうすることもできませんでした」
「伯母さんは、あなたに罪を告白したのですか?」
「違います。良心の呵責からの救いを求め、二人は信仰の道へと走りました。そして入信したのが、霊魂の復活だの、エンマ大王による死後の裁きだのを主張する教派だったのです」
「なるほど」
「良心の呵責をしずめるだけでなく、伯母に至っては、呪術を用いて足の治療まで期待したようですね」
 刑事はうなずいた。
「その儀式の跡は私も見ました」
「伯母と同居を始めて以来、私は何度も真夜中に目を覚ましました。耳が遠くなり、伯母は話し声が大きかったのです。その声で寝言を言われれば、誰だって起きてしまうでしょう」
「寝言の内容からわかったのですか?」
「『和子、和子はどこだ? いい加減な下調べをしおって』、だの、『なぜだ。なぜおまえが今頃帰ってくる? ええい仕方ない。この花瓶で…』、などと毎晩やられてはね」
「今あなたが手の中に持っている小ビン。中身は酢ですかね? その酢は、犬の鼻をごまかすための匂い消しですね」
「ええ、これ以上匂いの強いものを思いつくことができなかったのです」
「いもしない警察犬の鼻をごまかす方法など存在しません。蜂を捕まえ、入れておいたガラス瓶はどこに保管していたのですか?」
「屋根裏部屋です。車椅子の必要な伯母はハシゴを上がることができませんでした」
「それが18ヶ月前のことですね。しかし最近になって、あの小部屋を発見した後、あなたは再び蜂を用意しなくてはならなくなった。あのガラス瓶を金庫の中に入れて、わざと鑑識課員に発見させたのでしょう? だけどそれが、私が疑問を感じるきっかけになったのですよ。それまで私は、あなたに同情こそすれ、疑ってみることはなかった」
「どうしてですか?」
「鑑識で調べた結果、金庫の中で見つかった蜂がすべてオスだったからです。オス蜂は針を持たず、人を刺すことはありません。警察の目をごまかすために犯人がごく最近、再び森へ行き、蜂の死骸を見つけて持ち帰り、金庫の中に入れておいたのだとしたら、それは確実にオスです。この真冬に森で見つかる蜂は、オスだけだからです。蜂の生態とはそういうものですから」
「そこから私を疑い始めたのですか? 蜂のオスメスまでは、私も気がまわりませんでした」
「ええ、まずオスであることで私は疑問を持ち、あなたの部屋でファーブルの本を見かけたことを思い出したのです」
「金庫の中に蜂を隠すことで、母に揺さぶりをかけることができると、突然気が付いたのです。思いつくと、実行しないではいられませんでした」
「それはわかりますが、署まで同行願います。殺人犯である伯母さんには同情を感じませんが、私は法を執行しなくてはなりませんので」
「そうですね。それは私にも理解できます…。あら刑事さん、あなたの肩にとまっているのは蜂じゃありません? こんな冬の夜にどうしたのでしょう」
「なんですって?」
 加代子の様子がおとなしいので、刑事も油断していたのだ。加代子から注意をそらし、自分の肩のあたりを大きくはらった。
 加代子にはそれで十分だった。そもそも父の仇を取った後、長く生きるつもりはなかったのだ。
 怒りに任せて伯母を殺し、よしんば警察にばれなかったとしても、次は加代子が良心の呵責に苦しむことになるのは明らかだ。加代子はつぶやいた。
「だから私は事前に準備をしていた。せめて父の墓前に報告したかったが、ここ数日の忙しさで、果たせなかったことだけは残念だわ」
 錠剤は常にポケットに忍ばせてあった。それを取り出し、ごくりとのみ込むのは難しくはない。
 すぐに気づき、刑事は顔色を変えたがもう遅い。応援と救急車を呼ぶため、刑事はドタドタと駆け出したが、どう考えても間に合わないだろう。
 目を閉じ、心の中で再び加代子はつぶやいた。
「18ヶ月前、私はここで何百という蜂を殺してしまったが、その同じ場所で今、自分も死のうとしているのだわ。蜂たちもきっと許してくれることだろう…」
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