山の蜂
文字数 4,314文字
僕は小学生で、両親や祖母と一緒に田舎の小さな家で暮らしていた。農家であり、あまり大きな面積ではないが、田畑を耕して生活していたんだ。
ある日、祖母が死んだ。
特に持病はなかったが、年ではあったのだろう。自然な老衰で、朝目が覚めると息をしていなかったのだ。
両親はため息をついた。農繁期でなかったのは幸いだが、それでも通夜に葬式、墓の手配と、忙しい数日間になるのは目に見えている。
僕は一人っ子だったが、自分もできるだけ手伝いをして、親に負担をかけないようにしようと心に決めたほどだ。
とにかく両親は、寺と親戚へ知らせに行くことにした。
ところが電話どころか、ちゃんとした道路もない山奥なのだ。両親が二人とも出かける必要があって、棺おけをはじめ、葬式に使う道具類もそろえなければならない。
両親が戻ってくるのは早くても午後遅く、もしかしたら夕方前になるかもしれなかった。それまで僕は、家の中に一人でいなくてはならなかったのだ。
祖母は布団に入り、頭を北に向けた形で寝かされていた。
春なのにひどく暑い日で、窓は大きく開け放してあり、祖母の枕元では線香に火がつけられ、かすかな煙がただよっていた。
さすがに同じ部屋の中にいる気はしなくて、僕は隣の部屋でぼんやりしていた。
娘時代には大変な美少女で、美貌を聞きつけて映画会社がスカウトに来たとか、年頃になると縁談を求める釣書が何十も届いたという話だったが、年を取ってからの姿しか知らない僕にはあまり関係のないことだった。
僕と祖母は、仲が悪かったわけではない。また、かわいがってもらえなかったわけでもないが、僕も祖母の死を特に悲しんでいたわけではないんだ。
なんだか、死体になった祖母と、自分のよく知っている祖母とが同一人物であることが、どうにも信じられない気持ちがしていたんだ。今から考えれば、祖母の死を目にして、僕も混乱していたのかもしれないね。
その僕があることに気づいたのは、そのときだった。大きな羽音は立てないのでギリギリまで気が付かなかったのだが、一匹の蜂が祖母の口元に止まるところだったんだ。
毒々しい黄色をした巨大な昆虫で、あなたもどこかで目にしたことがあるかもしれない。
だけど僕は、そいつを追い払うことができなかった。数メートルの距離があったし、人を刺し殺す恐ろしい毒をもつ蜂でもあった。
山に住む子供は、あの蜂にだけは絶対に手を出すなと、小さい頃から散々注意を受ける。
蜂を追い払うための棒を求めて、僕の目は部屋の中をさまよったが、その時にはもう遅かった。あっと思ったときには、蜂は祖母の口の中へと姿を消していたんだ。
あまりの出来事に、僕はどうすることもできなかった。恐る恐る祖母に近寄り、開いたままだった口をそっと閉じてやることしかできなかった。
やがて両親が家に戻ってきたが、蜂のことなど僕は一言も口にせず、その後は何事もなく葬式が行われたんだよ。
僕が住んでいた地方には、変わった風習があった。死体は焼かず、そのまま土に埋めるんだ。
死体を入れる棺には、節を抜いた竹筒を刺して、空気の抜ける穴を作ってやるという習慣もあった。まるで土中に潜んで身を隠す忍者みたいだが、大昔からあるやり方なので、誰も疑問を持たなかった。
僕の家の墓は裏山にあって、勝手口を出て、山道を登って数分かからないところだった。祖母の葬式以降、母に言われ、新しい花や線香を持って、僕は毎日のように墓へ行くようになった。
だが僕は、その言いつけが嫌ではなかった。言われなくても、僕は祖母の墓を自分から毎日訪れていたと思う。墓にある変化が起きていることに気が付いていたんだ。
さっきの空気抜きの穴さ。
この穴を通って、蜂がさかんに出入りしていることに気が付いたんだ。
つまりあの日、祖母の口の中へ入っていったのは女王蜂だったに違いない。それが生んだ何百匹という子孫が、今はこの穴を出入りしていたんだ。
もちろんこのことも、僕は誰にも話さなかった
さらに事件が起こったのは、数週間後のことだった。いつものように墓へやってきたのだが、地面に大きな穴が開いているのを見つけ、僕はひどく驚いたのだ。
穴ができていたのは、ちょうど棺が埋まっていたあたりで、人が一人通り抜けられるほどの直径があったが、どんな道具を使って掘ったのかはよくわからなかった。
家に飛んで戻り、今度こそ僕は両親に知らせた。両親も驚き、僕をそのまま駐在所へと走らせたのだ。
犯人はもちろん、何が目的の犯行かもわからず、やってきた警察官も首をかしげるばかりだった。
すぐに本署へ連絡が入れられ、刑事たち数人も姿を見せたが、やはり何もわからなかった。
僕は直接見せてはもらえなかったが、話に聞いたところでは棺の内部は空っぽで、祖母の死体は影もなかったそうだ。
しかし埋葬から日がたち、腐敗していたはずの死体を犯人がなぜ欲しがったのかは、誰にも見当がつかなかった。
警察は捜査を行ったが、山中のことゆえ目撃者もなく、成果のないまま、村人の噂からも少しずつ忘れられていった。
そんなころ、村でちょっとした出来事があった。
といっても悪いことじゃない。新しい店ができたんだ。
いやいや、笑ってはいけない。一日に2本しかバスの来ない停留所があったが、その真ん前に新築されたんだ。
なんでも、どこかの家の次男坊が都会へ出て就職していたのが、結婚してどう気が変わったのか、Uターンしてきたということだ。
だけど感心するような店ではないよ。間口も小さくて、普通の家とあまり変わらないんだから。
商品はパンとかお菓子とかインスタント食品とか。コーラとかビン入りのジュースとか。
亭主は農作業をするということで、都会から来た若い奥さんが店番だった。こんなに小さな店でも、やっと田舎の子も買い食いの楽しみを味わうことができるようになったという意味はある。
こづかいにもらった10円玉を握りしめ、もちろん僕も学校帰り、その店の常連になった。まだあの時代には、「寄り道をせずに家へ帰れ」などと小言を食らうことはなかったからね。
だけどこの店で、僕はちょっとした発見をした。
映画館なんて、僕は町へ連れて行ってもらった時に運が良ければ立ち寄ることができるぐらいで、1年に一度楽しめるかどうかだった。
それだけに映画とは都会の匂いを感じさせるものだったが、その宣伝ポスターが、この店にも張られるようになったんだ。
店があるのはバス停の真ん前だ。それに目をつけ、映画会社が店主に、いくばくかの掲出料を支払っていたのだろう。
その1枚を目にして、僕は気が付いた。
ある映画の主演女優。といってもデビュー間もない若手なのだが…。
「あれっ、これはおばあちゃんじゃないか」
まったくその通りだったのだよ。
僕の祖母は本当に美貌の持ち主だったから、古いアルバムに残されている写真も多かった。実際の話、小学校の遠足などで撮る機会の多い現代の僕よりもたくさん写真があったと思う。
娘時代、何のかんの理由をつけて祖母の実家を訪れ、写真を撮ってゆく親戚や縁者は多かった。そういう連中が祖母の機嫌を取るため、できた写真をプリントして送ってきたんだね。
喜ぶどころか、祖母はそれを迷惑に感じていたそうだ。だから、どこかの金持ちの御曹司のところで玉の輿に乗るのではなく、幼なじみではあるが何の特徴もない祖父のところへ嫁に来たといういきさつがある。
祖母の古い写真をよく知っている僕が、見間違えるはずはない。あの女優は祖母だよ。埋葬された時よりも、ずいぶんと若返っているけれど。
生まれてからずっと同居していた僕が、勘違いをすると思うかい?
あの蜂には、どうやらそういう不思議な作用があるらしい。
だけど僕は、映画ポスターの話など両親にはしなかった。店の前の道を両親が通ることはあまりないから気づきはしないだろうし、教えてやっても混乱するばかりで、なんの役にも立つまい。
「おばあちゃんはおばあちゃんで、新しい人生を始めたんだ」
そう思って、僕は納得することにしたんだ。
あの時代のことだから、映画なんて年間に何十本も作られる。ポスターもどんどん張り替えられてゆく。
いつもいつも祖母が出演する映画ばかりではなかったけれど、何ヶ月かおきに僕は、祖母の元気な顔を見ることができた。
祖母は、スターへの階段を着実に登っていたようだ。僕も遠くから応援していたのだよ。
蜂によって肉体を乗っ取られ、顔は同じだが、中身はまったく別の人間に変化してしまう。
それを僕は、特に恐ろしいことだとは感じなかった。
「まあ、広い世界にはそういうこともあるさ」
ぐらいの気分だった。
僕が風邪をひいてしまったのは、ちょうどこのころだ。特に寒い日々だったのでもなく、水に入って冷たい思いをしたのでもない。
だけど数日の間、僕は咳が止まらなくなった。両親は心配し、風邪薬を飲まされた。
とはいえ、病院へ行くほどの症状ではなかったし、学校を休むこともなかった。
だからあの時も、ランドセルを背負って僕は下校中だった。
小学校のあるあたりを過ぎると、家は途端に少なくなり、友人たちとも別れ、僕は一人きりになる。
道も、田んぼの間の細い道に変わる。例の店なんて、もうはるか後ろだ。
突然、僕は咳がしたくなった。
「あれれ、昨日はもう直ったのかと思うぐらい咳が出なかったけど…」
立ち止まり、僕は口に手を当てた。
咳はいったん収まったかに見え、出る気配が消えた。
「あれ?」
そこでまた咳の気配。
「?」
喉の奥に、なんだかむずかゆいような奇妙な感覚がある。
「面倒だから、出してしまおう」
僕は少し力を込めた。
ゴホン。
咳が出た。
だけど変なんだ。咳だけじゃなく、何か別の物も喉を通り抜けたような感じがある。
うん、確かに何かが僕の喉の内側に触れていった。
僕は手のひらを見た。そして、何が自分の喉の奥から現れたのか、はっきりと見ることができた。
「死ぬ前に、おばあちゃんもこんな咳をしてたのかなあ」
もう一度咳が出た。ゴホン。
喉にはまた同じような感覚があり、再び何かが僕の喉を通り抜けていった。
それは、さっきの1回目と同じように手のひらに乗っている。もちろんどちらも生きていて、足を動かし、羽も小刻みに震わせている。
2匹の蜂…。