氷の中
文字数 7,681文字
子供のころから私は読書が好きだったが、中でも印象に残っている本がある。
タイトルは『世界の七不思議』といい、実録風の体裁を取って、「アレキサンドリアの大灯台」や「古代エジプトのファラオの呪い」といった話が並んでいた。
その中に「漂流船の謎」という一章があったわけだ。
漂流船とは、なんと魅力的な響きを持った言葉だろう。
フライング・ダッチマンやマリー・セレスト号が有名だが、操る者もなく、風と波のなすがまま、場合によっては数世紀も漂い続けると書かれていたのだ。
不思議な話ではないか。
例えばマリー・セレスト号は、発見されたとき、つい今しがたまで人がいたとしか思えない状態だったそうだ。
食堂のテーブルには朝食が用意され、コーヒーカップは湯気まで立てていた。
海は荒れてもおらず、船内にも積荷にも異常はまったく見られず、船を離れなくてはならない理由は何一つ見当たらないにもかかわらず、乗組員たちの姿はなかった。
そしてその後も、マリー・セレスト号に乗っていた者たちの姿が見かけられることは二度となかったのだ。
10歳の少年にとって、これほど心躍らせる物語はそうそうないだろう。
私なりにいろいろと空想を働かせたりしたものだが、何年もたって自分がそれと同じ経験をするとは、まったく想像もしていなかった。
大人になり、気がつくと私は船乗りになっていた。
そしてある船に乗り組んだのだが、北大西洋でのある夜、この船は氷山に衝突し、あっという間に沈没してしまった。
夜が明けると私はただ一人、小さな救命ボートに乗り、濡れた身体で毛布にくるまってふるえていたのだ。
仲間たちはみなすでに海底にいたのだろう。
沈没の混乱の中で荷物が失われ、救命ボートの上には食料も水もほとんどない状態だった。
仲間が呼んでいるのかもしれないと、なかば死を覚悟したことを覚えている。
だがそのとき、水平線のかなたにあの船の姿が見えたのだ。
そのときの私の喜びが想像できるだろうか。
震える手でオールをつかみ、体力を振り絞って、その船に向かって私はボートをこぎ始めたのだ。
運良く船べりに縄ばしごが垂れ下がっていたので、私は甲板に立つことができた。
そして耳を澄ませたのだ。
最初に気がついたのは、あまりの静けさだった。
動くもの一つなく、人影一つ見えなかった。
中型の漁船で、風がないのでロープまでだらりとしている。
「おーい」
私は声を上げた。
だが私の声は甲板や青い空に吸い込まれるばかりで、返事はなかった。
私は船内を探検した。
船のサイズから見て、乗組員は7、8人というところだろう。
港を出て日が浅いのか、水も食料も十分積み込まれている。
だが誰もいないのだ。室内が荒らされた様子もなく、私物や備品類もすべてあるべき場所に収まっている。
船長室へ行って航海日誌を読んでみようとしたが、きちんとした几帳面な文字でつづられていたが、外国語なので一行も理解することはできなかった。
私は無線室を見つけ出した。
だめかもしれないと思いつつスイッチに手を伸ばしたが、なんと無線機はちゃんと使える状態にあるではないか。
暖かいオレンジ色に光る電源ランプがなんと美しく思えたことか。
すぐに救難信号を送ったのは言うまでもない。
いくつかの中継局を経て、私は運良く海軍司令部と話すことができた。
自分が航路を大きくはずれた場所にいることはわかっていたから、一般商船の手で救助されることは望み薄だったのだ。
海軍の司令官は、私のためにすぐに船を派遣すると約束してくれた。
無線機のスイッチを切るとあまりにほっとして、私はイスの上にへたり込んでしまった。
長い間、身体を動かすことさえできなかった。
かなりの時間がすぎてからやっと、昨夜の事故と空腹のせいで体力が失われているのだと気がついた。
机に手をつき、私はゆっくりと立ち上がった。
キッチンへ降りてゆき、食事の用意をはじめた。
パンを切り、コーヒーを沸かしたのだ。
新鮮なハムと卵があったので、フライパンの上でいためた。
胃袋を満たしたところで、自分でも気がつかないまま、私はイスの上で居眠りを始めていた。
何時間か後に突然目が覚め、やっと自分が眠りに落ちていたことに気がついたほど、よく眠っていた。
気分はよく、立ち上がって私は大きく伸びをした。
窓から差し込む太陽は、もうかなり水平線に近づいている。
このまま日が暮れるのだろう。
だが海軍司令官は、迎えの船が到着するのは明日の明け方近くのことだろうと言っていた。
それまでは何もすることがない。
私だって、もちろんこの船が無人になるに到った理由に関心がなかったわけではない。
だがすでに船内は調べつくし、手がかりが何もないことはわかっている。
これ以上やれることはないではないか。
だが、自分を取り囲む空気がひどく冷たいことに突然気がついたのは、このときのことだった。
部屋を出て、私は甲板の上に立った。
そして、驚きのあまり声を上げたのだ。
キッチンで眠りに落ちたときまで、たしかにこの船は何もない大洋の真ん中にぽつんと浮かんでいた。
だがそれが、今は巨大な氷山が船に寄り添い、夕暮れが近いので赤くなりかけた太陽の光を受けて、まるで宝石のように輝いているではないか。
意味がわからず、私は長い間、呆然と立っていた。
氷山は船尾に触れ、ギシギシと音を立てている。
風のない日で、船も氷山も同じ海流に乗って流されているのだろうが、両者は大人と子供ほども大きさが違う。
何かの理由で速度に差がつき、先行していたこの船に氷山が追いついたのだろうと思った。
追突するような形で、氷山は船に身体を押し付けているのだ。
本当に大きな氷山で、小さな丘ほどもあるだろう。
もっと詳しく見てやろうと、私は船べりに近寄った。
そして気がついたのだ。
氷の内側から、彼女は私をまっすぐに見つめ、見下ろしていた。
すらりと美しい身体を金色に輝くヨロイで包み、右手には長い剣を持っている。
なめらかな髪をカブトの下に隠し、瞳は冬の空のようなブルーだが、優しさなどカケラも感じられず、視線は私をまっすぐに突き刺すかのようだ。
彼女に見つめられ、私は身体を動かすことができなくなった。
彼女は氷山の氷の内部に包まれ、たたずんでいたのだ。
彼女が何を考えているのか、もちろん私にはわからなかった。
氷を断ち割り、今にも氷山の中から飛び出してきそうな気がした。
そしてこの船に乗り移り、私の目の前に立ち、その剣をきらめかせるのだろう。
だがその瞬間、私は奇妙なことに気がついた。
ずっと以前、まだ子供だったころだが、私は彼女の姿を見たことがあるような気がしたのだ。
心の中を探り、私は思い出すことができた。
たしかに子供のころ、私は彼女の姿を何十回も目にしていたのだ。
それは、あるビスケットメーカーのことだ。
ある会社が自社のシンボルマークとして、『戦の女神』の姿を用いていたことがあるのだ。
それはまったく、いま私の目の前で氷に閉ざされているこれと同じ姿だった。
顔の形や表情、カブトやヨロイの装飾までそっくり同じだということに気がついた。
彼女はこの姿で何百万枚も印刷され、ビスケットを詰めた箱の表を飾っていたのだ。
私は自然に、あの飛行船のことを思い出すことになった。
これも、私が子供だった時代の話だ。
『戦の女神』印のビスケットメーカーがスポンサーになって、ある探検旅行が企画された。
飛行船に乗って北極海を横断し、ヨーロッパから北アメリカへ到るというもので、人類が史上初めて北極点の上空を飛行するということで人々は興奮し、かなりの期待が集まった。
数人の若い冒険家たちを乗せ、飛行船はロンドンを飛び立った。
大西洋を北西に進み、アイスランドを通過したことは確認されたのだが、彼らが北アメリカへ姿を現すことはついになかった。
もう30年も前のことだ。
捜索隊が派遣されたが成果はなく、飛行船は北極のどこかで遭難したものと結論付けられた。
そして月日が流れ、今ではほとんど忘れられてしまっている。
飛行船に何が起こったのかは、今の私には簡単に想像がつく。
機体に致命的な故障が起こったか、予想外の強い嵐に出会って墜落してしまったのだろう。
それが北極の氷原のどこかで、冒険家たちは全員死亡し、機体の上にはゆっくりと雪が降り積もったのだろう。
やがて雪は機体を完全にうずめ、全体が一つの巨大な氷塊になる。
海からほど遠からぬ場所ではあったのだろう。
ある日その氷が割れ、氷山となって海へただよい出たのだ。
もう想像がついただろうが、この飛行船の表面にはビスケットメーカーのシンボルマークが大きく描かれていたのだ。
30年たってもその色が失われることはなく、当時のままの姿で私を見下ろすことになったのだ。
私だから、これがビスケットメーカーのシンボルマークだと理解することができた。
だがもしも何も知らない人であれば、本物の女神のような超自然の存在が氷の中に閉じ込められている姿だと感じても仕方のないことだろう。
外国人であるこの船の乗組員たちには、まさにそのことが起こったのだ。
洋上で氷山を見つけ、彼女の姿に驚き、畏敬と崇拝に似た気持ちを感じて、船を離れてボートをこぎだしたのだろう。
その乗組員たちの姿も、私は氷山の上に見つけることができた。
彼らはすべて死に、今では冷たい氷の上に横たわっていた。
全員がのどを鋭く切り裂かれ、血が流れ出しているのが見える。
彼らに死をもたらした者の姿も、私は氷の上に見つけることができた。
あの船員たちの最大の失敗は、全員が一度に船を離れ、氷山に乗り移ったことだ。
戦の女神の姿が、それだけの美しさと異様さを備えていたことの証明でもあるが。
船の上にもしも一人でも残っておれば、狼に襲われてあっという間に全滅することも、無人になった船がいつしか氷山を離れ、ひとりでに漂流を始めることもなかっただろう。
だが私も、いつまでも彼らの不運に思いをはせているわけにはいかなかった。
ガラガラと大きな音を立てて氷山の一部が崩れ、小規模な崖崩れのようなものが突然起こり、船べりの一部をうずめたのだ。
もちろんこれだけでは大した出来事ではない。
甲板の一部がへこんだというだけのことだ。
だがすぐに私は、別の意味にも気がついたのだ。
これで氷山と船の間には橋がかかった形になり、あの狼はいつでも好きなときに氷の上を離れ、こちらに乗り移ってくることができるようになった。
そして狼も、同時にそのことに思い至ったようだ。
彼の目には、私も憎むべき敵の一人であると見えたのだろう。
氷の上に長々と身体を休めていたのが起き上がり、弾かれたゴムボールのように飛び上がって、氷の斜面をあっという間に駆け上がり、私からいくらも離れていない場所までやってきたのだ。
もちろん私には、どうすることもできなかった。
ただ一つ実行できたのは、手近にあったマストにつかまり、よじ登ることでしかなかった。
垂直なマストで、簡単なハシゴがついてはいる。
だが四足の動物に登ることができるようなものではない。
すぐに私はマストの支柱の一つに身体を落ち着け、こわごわと見下ろすことになった。
狼は真下におり、声を出してはいないが、私にキバを向けている。
いかにも口惜しげにしっぽを振り、イライラと歩き始めた。
数歩行っては振り返り、数歩行っては振り返りを繰り返し、そこを離れようとはしないのだ。
私はマストの上に釘付けにされてしまった。
太陽はすでに水平線の下に沈み、わずかに空の輝きだけでまわりを見ることができる。
狼は私の真下で腹ばいになり、身体を休めるつもりだ。
あせることはない。時間はいくらでもあるということだろう。
やがて月が昇ったが、目を閉じて、狼は身動き一つしなかった。
前足の上にあごを乗せ、両耳を伏せ、しっぽは甲板にそってだらりとさせている。
だが私にはわかっていた。
やつは眠っているふりをしている。
私がわずかでも降りるそぶりを見せれば、すぐに目を開くだろう。
こうやって、私と狼の我慢比べが始まった。
だが私は、それほど深刻な気分ではなかった。
食事をすませ、睡眠をしっかりとった直後なのだ。
疲れてなどおらず、明日の朝まで、ここでがんばることができるだろう。
夜が明ければ、海軍の船が迎えにくる。
タヌキ寝入りをしている狼の真上で、私もできるだけリラックスすることにした。
あせっても何もよいことはない。
身体の力を抜き、支柱に座り続けた。
だがリラックスするといっても、私はいささか度を過ごしていたのかもしれない。
キッチンで一眠りしたといっても、そんなものではまだまだ不十分だった。
自分でも気がつかないうちに、私は再び居眠りをはじめていたのだ。
気がついたのは、奇妙な夢を見たからだった。
自分がどこか高い場所にいて、機嫌よくまわりの風景を眺めていたのが不意に足をすべらせ、身体のバランスを崩して転落しそうになるのだ。
ずいぶんと不安な夢だったが、体中の筋肉をピクンと緊張させながら、私は一瞬で目を覚ました。
そして、まわりで起こっていることに気がついたのだ。
私の身体は大きく斜めに傾き、支柱からずり落ちかけていた。
手の力が抜け、眠っている間にそうなったらしい。
私の身体は、もうその半分以上が何もない空中にあったのだ。
一ヵ所だけでぶら下げられた布袋のように、落ちかけていたのだ。
狼は起き上がり、期待を込めて見上げている。
口を大きく開き、舌とキバを見せているではないか。
腕に力を込め、私は自分の身体を引き上げようとした。
だが不可能だった。
すでにそれほどバランスを崩していた。
うめきつつ再び力を込めたが、やはりだめだった。
悲鳴を上げ、ついに私は甲板に落下してしまった。
足から落ちたということもあるし、ケガをするほどの高さではなかった。
だが狼が歓迎してくれるわけではなかった。
4本の足をバネのように使い、もちろん飛びかかってきたのだ。
私はさっとよけるのが精一杯だった。
何とか一撃目をかわし、全速力で走り始めた。
狼から身を隠すには、小さすぎる船だった。
結局私は船首へ逃げ、へさきのマストによじ登るしかなくなった。
このマストは前を向いて船首から生え、垂直とはとても言えず、ピノキオの鼻のように斜めに突き出している。
登るとその下には何もなく、海面がそのまま広がっているのだ。
狼に追いかけられているのでなければ、誰も足を向けない場所だ。
手足を巻きつけて私はつかまることができたが、狼にはそんなことはできない。
私まであと3メートルというところで、狼は立ち止まった。
マストは電柱のように丸く、その上に立つのは難しい。
私に飛びかかりたくて、狼はうずうずしていたことだろう。
だがそんなことをすれば、一緒に海に転落するのはわかりきっている。
そこまでバカな動物ではないのだ。
夜明けが近づき、あたりは明るくなり始めていた。
水平線のむこうに、太陽の最初の丸い弧が顔をのぞかせている。
昨日西の水平線の下に消えてから、地球の下をぐるりと一周して戻ってきてくれたのだ。
うれしさのあまり、私は投げキスをしたいような気分になった。
そして次の瞬間、待ちに待ったものが私の耳に届いたのだ。
拡声器を通して割れた人間の声だったが、はっきりとこう聞こえた。
「伏せろ。弾に当たるな」
もちろん私は言われたとおりにした。
腹ばいの身体をできるだけ小さくし、すべての筋肉を使ってマストにしがみついたのだ。
すぐに大きな銃声が響いた。
ダン、ダンという2発だった。
狼が小さな悲鳴を上げ、さっと身をひるがえらせる気配があったが、一瞬遅かったようだ。
一発が命中し、私がおそるおそるマストの上から身を乗り出したときには、すでに甲板の上で事切れていた。
海上に汽笛が響いたので、私は手を振った。
漂流船にそって、海軍の魚雷艇が航行していた。
全長30メートルもない小さな船だが、その姿がいかに心強く思えたことか。
軍艦というよりも、大型の高速ボートという風情で、いくつかの機関銃と魚雷発射装置を備えているだけだ。
甲板に腹ばいになって狙撃銃を構えていた水兵が身体を起こすのが見えた。
エンジンをゆるめ、水兵たちはすぐに漂流船へ乗り込んできた。
私は礼を言い、一人一人と握手をした。
艇長は30歳にもならない若い男だったが、戦の女神と氷山の上の死者たちの姿を見て、心を打たれた様子だった。
港へ持ち帰るために漂流船をロープでつなぐ用意を水兵たちに命じ、死者を水葬する準備も進めた。
すべてはとどこおりなく済んだが、次に問題になったのは、狼の死体をどうするかということだった。
物問いたげに艇長が見つめるので、私は提案した。
「命をかけて守ろうとしたんです。ずっと彼女のそばにいさせてやろうじゃありませんか」
甲板に横たわる狼を、私たちは見下ろしていた。
今は目を閉じて、穏やかな顔つきをしている。
手を伸ばし、私は毛皮をそっとなでてやった。
狼が人間の娘に恋をすることがあるのかどうか、もちろん私にはわからない。
だがこの漂流船の上での一連の出来事は、そう考えるしか解釈のしようがないではないか。
北極の氷原で狼は偶然彼女を見つけ、恋をし、自らその守護者たろうとしたのだろう。
氷が割れて海上を漂い始めたときにも、彼女のそばを離れることはなかったのだ。
氷山を見つけ、ボートをこいで近寄ってきた船員たちも、狼の目には、彼女を迫害する敵に見えたのだろう。
だから彼なりに全力を尽くし、彼女を守ろうとしたのだ。
私たちは狼を氷山の上へ移し、戦の女神のすぐそばに横たえてやった。
近くから見上げると、神々しく輝く氷壁の向こうにたたずむ彼女の姿は本当にこの世のものとは思えず、狼が命をささげる気になったのも理解できる気がした。
血なまぐささや乾燥した軍の秩序に慣れきっているはずの艇長や水兵たちですら、彼女を見上げてため息をつくのを私は聞き逃さなかった。
それは彼らの魂が一瞬で肉体を離れ、この女神に導かれるままどこかへ行ってしまいたがっているかのように聞こえた。
ここで私の物語は終わる。
漂流船は港までけん引され、私は無事に本国へ帰ることができた。
その後あの氷山がどうなったかは、誰も知らないことだ。
だが何が起こったのか、ある程度の想像はつく。
あのまま南へと流されてゆき、氷山は溶け、次第に小さくなっただろう。
その途中、何かの拍子に氷が大きく割れ、女神と狼は海へ落ちていったことだろう。
今はどちらも海底に眠っているはずだ。
願わくば、彼らが互いに遠からぬ場所に横たわっていますことを。