飛行機

文字数 7,198文字


 飛行機に乗った時、僕は奇妙な経験をしました。旅の疲れもあって旅客機の座席でうとうとしていたのだけれど、ふと目が覚めると機内が空っぽなのです。客室は無人で、誰も座っていないイスがいくつも並んでいるだけで、人影はまったくありません。
 スチュワーデスの姿もなく、居眠りをしている間に何が起こったのだろうという気がして、僕は不安になりました。もちろん、もともと極端に人の少ない便でした。機内には始めから6人しかいなかったのです。でも今は6人どころか、僕一人しか姿がないのです。
 たった6人しかいない状態でこの飛行機が飛ぶことになったのには、もちろん理由がありました。夏休みに一人で旅行に出ていたのですが、家に帰る日が来たので、僕は空港へ行ったのです。だけど行ってみると、おかしなことが起こっていました。乗る予定だったのは午後10時発の最終便だったのですが、なぜかオーバーブッキングになっていたのです。機械のミスで、定員よりも2人多く座席の予約を受け付けていたのです。
 でもだからって、何日も前から予約している乗客をほってはおけません。無駄が大きいとわかっていながら、航空会社はもう一機飛ばす決心をしたのです。それに搭乗したのが、僕ともう一人の乗客でした。この飛行機は、正規便に15分遅れて空港を離陸しました。
 もう一人の乗客というのは、かなりの年のおじいさんでした。頭は完全にはげていて、ヒゲもきれいにそっているので、耳がなければまるで満月のようです。よく太っていておなかも大きく、座席に身体を落ち着けるのに苦労しているようでした。スチュワーデスの一人が手伝ってあげるのが見えました。
 スチュワーデスは2人いて、僕の世話はもう一人がしてくれるようでした。だから2人の乗客と2人のスチュワーデス、操縦室にいる操縦士と副操縦士を合わせて6人が搭乗していたわけです。
 どういうわけか、2人のスチュワーデスは色の違う制服を着ていました。おじいさんの世話は赤い服を着た年上のスチュワーデスがして、僕の世話は紺色の制服の少し若い人でした。座席に座るとき、この人がカバンを荷物戸棚の中に入れてくれ、僕は彼女を見上げました。
「こんなことはよくあるの?」
「こんなこと?」
「こんなに空っぽで飛ぶことだよ」
 スチュワーデスはにっこりしました。「私も初めて経験します。めったにないことでしょう」
 離陸準備が済み、バタンと音を立てて入口のドアが閉められました。エンジンが大きな音をあげ、機体がゆっくりと動き始めました。そうやって離陸し、僕はいつの間にか眠り込み、目を覚ますと2人のスチュワーデスとおじいさんの姿は見えなくなっていたわけでした。
 シートベルトを外して立ち上がりながら頭をしぼり、僕はこれまでに機内で起こったことを思い出そうとしました。居眠りを始める少し前のことですが、機長が客室に顔を見せたことを思い出しました。定年間近とまでは言えないけれど、意外なほど年長の人でした。さっきの若いスチュワーデスとなら親子と言っても通るかもしれません。
 注意して見ていたわけではないのですが、機長があのスチュワーデスに何かをささやくのを見たような気がしました。何を言ったのかはもちろん聞こえませんでした。だけどスチュワーデスの顔色が変わって、「あれ?」という気がしたように思います。でも僕はもう眠りかけていて、それ以上のことは何も覚えていません。
 座席を離れて歩き回り、僕は機内を探しました。ジャンボのような大型機ではないので、探す場所などすぐになくなってしまいました。それでもやはり、僕は誰一人見つけることができませんでした。客室はもちろん、ギャレーもトイレも人影一つないのです。
 僕にはわけがわかりませんでした。まだ探していないのは操縦室だけです。エンジンは静かな音を立て、飛行機は空を飛び続けています。外を見ると星が輝いています。下を向くと、どこなのかわからないけれど、山か森のようなものが暗く広がっていて、ときどき村や町の明かりが見えます。
 鍵がかかっているに違いないと思ったのですが、操縦室へ続くドアに触ってみました。すると鍵などかかってはいなくて、ドアは軽く動くではありませんか。みんなここにいるのだと思って、ほっとして僕は大きく開きました。だけど、すぐにまたがっかりしなくてはなりませんでした。操縦室の中にも人影はなかったのです。
 もちろん僕だって、操縦室とはどんな場所なのか興味がありました。思っていたよりも狭くて、パイロット2人だけでいっぱいになる感じです。イスの前には操縦かんがあり、小さな時計のような形をしたメーター類が目が痛くなるほどたくさん並んでいます。
 操縦席の背に無線機のヘッドセットが引っかけてあることに気がつきました。マイクロフォンとヘッドフォンをくっつけて一つにしたような道具です。これを使って無線機で話をするのでしょう。なんとなく手に取りました。子供っぽい行為といえばそうかもしれません。気がつくと僕は、そのマイクロフォンにむかって話しかけていました。
「ええと、誰か聞いてる?」
 すると驚いたことに、無線機から男の声が返ってきました。固い声で、こう聞こえました。
「ただいまこの周波数を使用中の方へ。これは航空機専用の周波数です。直ちに電波を出すのをやめなさい」
 僕は目を丸くしましたが、すぐに気がついて返事をしました。
「これはいたずらじゃないよ。僕はいま本当に飛行機の上から送信してるんだから」
 しばらくの間黙っていましたが、やがて相手は答えました。「ボクね、おじさんをからかっちゃいけないよ。すぐにスイッチを切りなさい。お仕事の邪魔なんだから」
「邪魔してるのは、そっちだよ。僕はいまPPM113便の操縦室にいるんだから。これは緊急事態だよ」
「PPM113?」
「東京発○○行きの最終便だけど、予約ミスがあってもう一機飛ばすことになったやつだよ」
「そこでは何が起こってるんだい?」
「僕は乗客の一人だよ。寝てて目が覚めたら、パイロットもスチュワーデスも誰もいなくなってたの」
「なんだって?」
 僕は事情を始めからすべて説明しなくてはなりませんでした。管制官は黙って聞いていました。こう言って、僕は締めくくりました。
「…それでいま、僕は操縦室へやって来たところなんだよ」
「どうも理解できんなあ。いたずらじゃないのかい?」
「じゃあこの飛行機のパイロットを呼び出してみたら? 応答するはずないと思うけど」
「少し待っておくれよ」
 しばらくの間、管制官は静かになりました。予備の別の周波数を使って、この飛行機を呼び出そうとしたのだと思います。だけど、もちろん応答があるはずはありません。少しして、当惑した管制官の声が返ってきました。
「本当に113便は応答がない。ぼうや、ぼうやの言っていることは本当なんだろうね」
「本当だよ。ウソなんかついても仕方がないもん」
 管制官は静かになってしまいました。でも30秒ぐらいして、こう言いました。
「ぼうやの名前を教えてくれるかい?」
 僕は自分の名を言いました。どこかに連絡を取って、きっと乗客名簿と照らし合わせたのだと思います。数分して返事がありました。
「わかった。どうも君の言うことは事実らしい。それでもう一度きくんだが、本当に君以外は誰も機内にいないんだね?」
 僕はもう一度事情を説明しなくてはなりませんでした。だけど今回は他の管制官たちも横で聞いているようで、いくつか質問を受けました。もちろん僕はすべてきちんと答えることができました。それが済むと管制官は言いました。
「113便、応答してください」
「はーい」
「今おじさんたちがこっちでいろいろ考えているからね。少し待っておくれよね。操縦室の機械には絶対に触っちゃいけないよ。わかったね」
「ねえ、この操縦室の床下には何があるの? 床にハッチみたいなものが見えてるよ」
「ああ、それは車輪の格納室だよ。着陸するときに出す車輪が収めてあるんだ。だけど、どうしてそんなことをきくんだい?」
「機内で人が隠れそうな場所は、もうここしか残っていないもん」
「まさかそんな場所に人間が隠れるものだろうか」
「さっき僕がこの操縦室に最初に入ってきたとき、このハッチがカチッと閉まる音が聞こえたような気がしたよ。取っ手も半分上がったままだったしね。何も考えずに、僕が足で押さえてロックしちゃったけど。だから下にいる人は、出たくても出られなくなってるんじゃないのかな」
「それはありえることかもしれない」管制官の声が緊張しました。
「考えてても仕方がないね。今からこのハッチを開けてみるよ」
「やめたほうがいい。何が起きるかわからない。もし下にいるやつが…」
「なに?」
「いや、つまりその…」
「凶悪なハイジャック犯だったらということ?」
「そうだ」
「でも、この飛行機の中に僕は一人ぼっちではいられないよ。そのうち燃料が切れちゃうもん」
 管制官は止めようとしましたが、僕はもう決心していました。マイクロフォンをほうり出し、かがみこんでハッチの金具に手をかけました。
 車輪格納室は箱のように四角い狭い部屋で、内部は暗かったけれど、ハッチが開くにつれて様子が見えてきました。海水浴で使う浮き輪を何倍にも大きくしたようなタイヤが2つ、仲良く並んで収まっています。それを支える巨大な脚もあるのですが、今は折りたたまれ、しつけの良いワシのようにひざまずいています。
 この部屋にも床があります。中央にまっすぐな切れ目があるので、着陸のときにはあそこから割れて開くのでしょう。その床の上を血が流れているのを見ることができました。すみのほうでは水たまりのようになっています。でもその血はもう固まりかけています。
 そういう床に人が倒れているのです。4人いて、折り重なるように横たわり、ピクリともしません。だけど部屋の中にはもう一人いて、この人は床の上に立って、僕を見上げていました。部屋の壁にはハシゴがあるので、その気になればこの人は簡単に登ってくることができます。だけど僕は、なぜか怖いとは思いませんでした。
 ハシゴをつたって、あの紺色の制服のスチュワーデスはゆっくりと上がってきました。気がついたときには、僕は手を差し出して手伝っていました。
「ありがとう」
 少し恥ずかしそうに彼女は言いました。2人で並んで操縦室の床に立つと、心配そうな管制官の声がヘッドフォンから聞こえてくることに気がつきました。
 でも僕も彼女も、そんなことは気になりませんでした。手を引かれ、僕は客室へ連れていかれました。スチュワーデスは、座席の一つに僕をそっと腰かけさせました。それから話し始めたのです。
「あなたはひどく驚いたでしょうね。気がつくと機内は完全に空っぽで、しかも車輪格納室には死体が折り重なっているのですから」
「うん、まあね…」
「その説明を今からしましょう。あなたには何も悪いことはないし、元気で地上へ降りてほしいと思っているのです」
「そんなことできる?」
「充分に可能です。もう気づいているかもしれませんが、この飛行機の機長は私の父です。親子で同じ航空会社に勤務しているのです。でも私には母はいません。数年前に亡くなりました。母はあるとき急病におちいり、ある病院に担ぎ込まれたのですが、そこの医師はろくな診察もせず、いい加減な手当てだけして、母を放置したのです。母が亡くなったのは翌朝のことでした」
「へえ」
「メスを入れるのは忍びなかったのですが、別の医師に依頼して、私たちは死後解剖を行いました。その結果わかったのは、あの悪党医師は伊藤という名なのですが、その信じられないほどのいい加減さでした。どんな新人医師でも見落としっこない病変を見落とし、死ぬ必要のない母を死なせたのです。どうあっても許せない怠慢でした」
「ふうん」
「もちろん父と私は伊藤医師を訴えました。裁判にかけようとしたのです。でも伊藤には、政府や役所に有力な友人が何人もいたのです。名をあげればきっとあなたも知っているであろう人々です。その人たちの口出しがあって、裁判は私たちの負けとなり、伊藤は無罪を認められてしまったのです。父と私にはもうどうすることもできませんでした。伊藤の不正を暴き、罰する方法は失われてしまったのです」
「それからどうしたの?」
 スチュワーデスは悲しそうに微笑みました。「本当にどうすることもできませんでした。父と私は以前どおり、航空会社の仕事を続けるしかなかったのです。でも神の思し召しかもしれません。何の予告もなく今日という日が訪れたのです」
「今日って? 何が起こったの?」
「この飛行機に、何も知らない伊藤が乗り込んできたのです。しかも機内はほとんど無人といってよい状態です。こんなに空っぽの便など、私は話に聞いたことさえありません。
 父と私が同じ便に搭乗するのは珍しいことではありません。でもそこへ、無人の機内と伊藤の搭乗という2つの大きな偶然が重なるなど、神様の意思が存在するとしか思えないではありませんか。私たちはそれを無駄にすることはできなかったのです」
「どういうことなの?」
「私は娘ですから、父と共に死ぬことに異存はありません。でも他の人たちはどうなります? もっとも気になったのはあなたのことです。赤い制服の先輩スチュワーデスと副操縦士にとっては、職務上の死と言えなくもないでしょう…。だけどあなたはそうではありません。気の毒ですが、先輩スチュワーデスと副操縦士を助ける方法はありませんでした。でも、あなた一人なら助けることができるかもしれません。私はその可能性に賭けたのです」
「どうやったの?」
「最初父は、墜落させてこの飛行機もろともあの憎い伊藤を殺すつもりでいました。搭乗する姿を父は偶然目にして、伊藤だと気がついたのです。そして決心を固め、私に伝えました。そのときには、この飛行機はすでに空の上にいたのです。父を思いとどまらせる方法はありませんでした」
「それで?」
「規定の高度に達し、自動操縦装置をセットしたあとで、『点検のためだ』と言って、父は副操縦士を車輪格納室へ行かせたのです。父の手の中には、すでにステーキ用のナイフが握られていました。ギャレーから持ち出したものです。無防備でいる副操縦士ののどを突くのは難しい仕事ではありません。そうやって副操縦士は亡くなりました」
「赤い服の先輩スチュワーデスは?」
「父に言われるまま、私が操縦室へ呼びこみました。殺害方法は副操縦士のときと同じでした。すでに父と私の服は血まみれでしたが、そのあと2人で客室へ行き、伊藤を操縦室へと連れてきたのです。あなたはぐっすり眠っていました」
「伊藤は抵抗しなかった?」
「私たちの手にはナイフがありましたし、相手は老人なのですよ。難しい仕事ではありませんでした。伊藤も死に、死体は他の2人と同じ場所に落とされました」
「お父さんは?」
 スチュワーデスはため息をつきました。「私にあとを任せ、自ら命を絶ちました。母のあとを追うため、父はここ何ヶ月もずっと死に場所を探していたのです。裁判が不本意な結果に終わり、すべての希望をなくした父は、毒薬を常に持ち歩くようになりました。父は今、母とともにいます」
「この飛行機はどうなるの?」
 僕は不安そうな顔をしていたに違いありません。スチュワーデスはにっこりしました。
「私が安全に着陸させることができます。小型飛行機の免許を持っているのですよ。こんなに大きな飛行機の操縦かんには手を触れたこともありませんが、一度降ろすだけなら何とかなるでしょう」
 スチュワーデスは腕時計をのぞき込みました。
「どうしたの?」
「そろそろ空港が近づく時刻です。私は操縦室へ戻ったほうがよいでしょう」
 僕を座席に座り直させ、スチュワーデスはベルトを締めてくれました。そのあと一度立ち上がりかけましたが、何かを思い直した様子です。不意にかがみ、僕の額にキスをしてくれました。
 スチュワーデスは客室を出ていき、ドアがバタンと閉まって、操縦室の中に姿を消しました。エンジンの出力をしぼり、機体がゆっくりと旋回を始めたのは数分後のことでした。床がわずかに斜めになるのを感じながら、僕は自分がなぜか幸せな気分でいることに気がつきました。理由はわかりませんでした。キスをしてもらったからかもしれません。
 床下のどこかから、油圧装置が作動する音が聞こえてきました。着陸に備えてハッチを開き、車輪を出すためでしょう。この飛行機のおなかは爆撃機のように開き、丸いタイヤが顔を出したに違いありません。
 僕は気がつきました。4人の死体は車輪格納室に入れてありました。そのハッチが大きく開いたのです。死体がどうなったのかは簡単に想像がつくではありませんか。この飛行機が『爆撃機のようにおなかのハッチを開いた』という言い方は、あながち間違っていません。
 きっと彼女はこの飛行機を安全に着陸させてくれるでしょう。何も心配することはないと思います。飛行機が着陸すると、すぐに警察官が駆けつけてくるでしょう。ドアが外から開かれ、僕はすぐさま連れ出されると思います。そのときまでには、きっとスチュワーデスは自ら命を絶っていることでしょう。彼女の父は、持ち歩いていた毒薬の一部を娘にも分け与えただろうから。
 でも二人とも、安らかに死んでいったことでしょう。一つの復讐がこれで終わったということなのだから…。
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