意地

文字数 1,789文字


 井上梅五郎といえば、N町で知らぬ者はなかった。
 大工の親方で、体は大きく背が高く、煙草が好きで、いつもスパスパやっていた。
 停留所でバスを待つ間も例外ではなく、ヒゲは黄色く染まっていた。
 あの路線のバスは、1時間に一本しかない。文子も登校に利用するから、梅五郎の顔はすぐに覚えた。
 車内は禁煙だから、もちろん梅五郎も煙草を捨てて乗り込んだが、しかしあの男、何もせずにただ立っているだけで匂う。
 ある日、車内でついに文子は口を開いたのだ。
「ねえおじさん、もう少し煙草は控えたほうがいいんじゃありません? 長生きできませんよ」
 この年代の娘は怖いもの知らずである。しかし梅五郎は顔色も変えなかった。
「そうかい? 母親のおっぱい臭いあんたのセーラー服の匂いよりは、多少はマシだがね」
 車内は爆笑の渦に包まれた。
 文子は顔を真っ赤にし、まだまだ学校は先だったが、ちょうど停車したバス停でそそくさと下車してしまったほどである。
 そのツンとした後ろ姿に、梅五郎はまわりの乗客と、さかんに目配せをした。
 もちろん騒ぎはこれだけではすまなかった。
 翌朝から梅五郎は、バスがやってくるギリギリの瞬間まで煙草を吸い、煙を肺の中いっぱいに貯め、一息も吐き出さずに車内に乗り込むようになったのだ。
 そして文子を見つけて真横に立ち、当たり前のような顔で話しかける。
「やあ文子さん。今日はまた一段とお美しいですなあ」
 その息が煙たいこと煙たいこと。
 文子はウッとうなり、ハンカチを鼻に当てて下を向く。
 梅五郎は顔を上げ、まわりの男たちとニヤリと笑い合う。
 文子だけでなく、まわりの乗客たちも匂いを感じたが、窓を開けて換気することはできなかった。季節は真冬で、このバスは暖房のききが悪いのだ。
 同じことが何日か続くと、
「この車内は禁煙ではないか」
 と文子は車掌に苦情を言った。
 車掌は苦笑いしながら注意をしたが、梅五郎はおどけた顔で、
「おいらは車内じゃ一本も吸っちゃいませんぜ」
 と答えるばかりだった。
 翌日から、文子は車内でできるだけすみに場所を取り、梅五郎を避けるべく試みた。
 だが梅五郎も、身体は大きいがひどく身軽なので、ちょっとした隙間を見つけ、ひょいひょいと近づいてくる。これには文子もどうにもできなかった。
 そうこうするうち、梅五郎は新しい作戦を思いついた。
 煙草を2本まとめてくわえ、2倍の煙を体内に蓄えてからバスに乗るようになったのだ。
 あの狭い車内、3メートルの距離を取っても匂いが届き、文子は閉口し、ますますすみで小さく縮こまった。
 梅五郎は調子に乗り、一度にくわえる煙草の数を増やした。3本になり4本になり、ついに5本になった。
 火のついた5本の煙草を同時に吸う光景は、なかなかの見物だったが、それが梅五郎の最高記録となったのである。
 その朝も梅五郎は、5本の煙草に同時に火をつけた。遠くにバスが見えると肺を忙しく動かし、梅五郎は煙を精一杯、吸い込んだ。
 本当かウソか、まわりの者の耳には、古びたバンドがこすれる時のような音がその体から聞こえたそうだ。
 バスが停車した。煙草は5本とも灰皿に捨てられる。
 息を吐かないために口を閉じ、顔を真っ赤にして、梅五郎はバスの踏み段を上がった。
 一段、もう一段。
 ひどく苦しそうだ。
 それでも3段目を登りきり、バスの床に立った。
 だが突然、梅五郎はウッと叫び声をあげ、白目をむいたのだ。
 そのまま意識を失い、前のめりに倒れた。突き出た腹が床でバウンドしたが、起き上がる気配はない。
 気を失っていたのだ。
 それを見下ろし、文子はフンと鼻を鳴らしたとか鳴らさなかったとか…。
 大きな体ゆえ、何人もで力をあわせて梅五郎を車外に運び出し、すぐに病院へ担ぎ込んだが、そのまま二度と目を覚ますことはなかった。
 ご臨終である。
 変死体であるから、梅五郎ももちろん警察へ運ばれ、解剖が行われた。
 そのときの執刀医の証言によると、死体の胸を切り開き、ろっ骨を取り除いて肺にメスを入れた瞬間、死後すでに半日が経過していたにもかかわらず、白い煙がまるで入道雲のようにポワッと立ち上り、ひどく驚いたのだそうである。
 死亡診断書の死因欄には、
『窒息死』
 と記入された。
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