姉の部屋
文字数 4,750文字
(この作品には、非常に残酷な表現が含まれています。くれぐれもご注意ください)
実の姉が、
『どこかの男たちに強姦され、殺害されたらしい…』
と警察から聞かされても、新介には特に何の感情もわかなかった。
せいぜいが、
「警察と関わるなんて、面倒だなあ」
と思った程度で。
姉のことを愛していたわけではない。むしろ姉弟仲は悪かったのである。
しかしながら、すでに両親はそろって他界し、親戚も遠くの県に散らばっているのであれば、
「死体の身元確認には、自分が警察署へ出向くしかないのか」
と、あきらめるほかなかった。
姉の名は、佐田直子といった。新介の名は、佐田新介ということになる。
まだ子供だった頃から、姉の直子は新介にとって、
『目の上のタンコブ』
のような存在であった。
特に、新介が中学1年に入学した時点で、姉は3年生で、なんと生徒会長をしていた。
男子ではなく、女子生徒が生徒会長というのは、当時は珍しいことだったのである。新介が入学した初日、教師の言葉からしてこうだった。
「やあ、君が直子さんの弟かい?」
校内で、新介の呼び名が決定した瞬間だった。
『直子さんの弟』と、同級生までが新介を呼んだ。
ついには廊下ですれ違いざま、校長までがその名を使った時、堪忍袋の緒が切れた。
その翌日、新介はテスト答案の氏名欄に記入したのだ。
『1年1組 氏名:直子さんの弟』
呼び出されて怒られるかと思ったが何もなく、採点された答案が正常に返却された時には、体中の力が抜けた。
「ねえ直子さんの弟君、直子さんは今日はお忙しいかしら?」
「なあ直子さんの弟君、今度の日曜、直子さんを映画に誘いたいんだが、君の口からきいてみてくれないか?」
「おお直子さんの弟君、直子さんの昨日の演説は、なかなか立派だったね。さすがは生徒会長だ」
などなど…。
その姉が今、新介の目の前で、白いシーツ以外は一糸まとわぬ姿で、冷蔵庫から引き出されて来たところである。
死体の確認は、警察署でするものと思っていたが、意外にも検視局へつれてゆかれ、そこでご対面となった。
まず警察官から、自分の職業について尋ねられた時、実は新介もドギマギした。
新介は職についておらず、特に何もせず、一日中、家にいたのである。
しかし警察官も、そのあたりには興味がないらしい。事務的に仕事を進めた。
壁一面が何十もの銀色のドアで埋めつくされた広い部屋があり、そのドアの一つが開いて、まるで引き出しのように、姉は滑り出てきたのである。その手際のよさに、新介は感心した。
部屋の中には線香がたかれ、その煙が新介の背後、何メートルか離れたあたりを漂っている。
一日の勤務を終えた夜遅く、駅から自宅への道の途中で、2人組の男に襲われ、姉は力ずくで自動車に乗せられた。
そして数日後、死体が山中のゴミ捨て場で発見されたのである。
ゴミ捨て場といっても、公式のものではなく、ただの不法投棄の場所であり、人通りのほとんどない山道が、ある場所で、ひじのようにクイッと曲がっている。
そこからコンクリート片や古い木材などの廃材が投棄され、小さな谷を半ばうずめているのである。
姉の死体は、廃材の山の上に放り出され、素っ裸のまま、万歳でもするような形で、両手を広げて発見された。
公衆電話からの通報だったので、発見者の名も身元も不明だったが、おそらく不法投棄をもくろんだ者の一人だろう。
死後、時間が立ち、死体は腐敗がはじまっていた。それを新介は見せられたわけである。
当然、人相は大きく変化していた。
すでに死後硬直は解けているのでポーズは変わっているが、喉には明らかな絞殺の跡が残り、胸よりも下はシーツで覆われていたが、検視時、内臓を検査するため腹部から胸にかけて切開された跡が、長い縫い目になって見えている。
『姉の乳房は、思ったよりも小さかったのだな…』
それが、新介の感じた唯一の感想であった。
「ご遺体は、あなたの姉、佐田直子さんに間違いありませんね?」
と警察官が尋ねるので、新介はうなずいた。
あまり興味もなかったが、新介も一応、被害者遺族らしいセリフをはいておくことにした。
「犯人は捕まりましたか?」
「まだ捕まりません…。あるところに防犯カメラがあり、その映像に、犯行に使われたとおぼしきバンが写っています。しかし盗難車でしてね…」
「そうですか…」
姉の部屋へ立ち入るのは、新介は事実上、これが初めてだった。
新介も姉も独身で、両親の残した大きな家に住んでいたが、姉の個室のドアには常に鍵がかかっており、本人以外は入ることができなかったのである。
生前から、本当に姉は誰一人として、この部屋に立ち入ることを許さなかった。
友人を招いても、この部屋に通すことはなく、家族の者も同様で、掃除から模様替えまで、すべて姉は、自分ひとりの手で行ったのである。
強姦殺人事件はまだまだ解決しないが、とりあえず姉の私物だけは警察から返却されたので、その中にあったキーを用いて、新介は姉の部屋へ足を踏み入れたのである。
意外にも、姉の部屋の内部は乱雑であった。姉の性格から、もっときっちり片付いていると思っていたので、少し驚いた。
「姉の所有物のうち、売れるものは勝手に売ってやろう…」
と新介は考えていた。
そんな新介に、ある戸棚が目についた。
以前は、家の中の別の場所に置かれていたのだろう。あまり大きなものではないが、新介にも、
「おやっ?」
と見覚えがある戸棚だったのである。
ガラス窓はないが、2枚の木の戸が、観音開きに手前に開くようになっているのだ。
この戸には鍵穴があった。ロックもされている。しかしそのキーに、新介は見覚えがあったのである。
新介は筆記具のコレクションが趣味で、
「姉のやつ、何かいいペンでも持ってやがらないかな…」
と、この部屋へ入ってすぐ、まず書き物机の引き出しをあさったばかりなのだ。
ペンも鉛筆も、ろくな収穫はなかったが、小さな金色のキーがころがっているのは目についたのである。
試してみると、はたしてそれが戸棚のキーであった。鍵穴にピタリと収まり、カチンと気持ちの良い音がした。
新介は、恐る恐るドアをひき開けた。
戸棚の内部には、何段かの棚が作りつけられていたが、その上には雑然と物が積み上げられ、置かれていた。
写真立てや個人的なノート、学校の教科書といった、あまりこの場にふさわしいとは思えないものばかりである。
その中である物が、新介の目をひきつけた。
「あっ」
と思い、手に取ると、ボール紙製のカードなのである。
いかにも子供向けの商品で、鮮やかな色で、文字と写真が両面に印刷されている。
「くそっ…」
思わず新介は、悪態をつかなくてはならなかった。新介は、そのカードに見覚えがあったのである。
見覚えどころか、これはかつて、新介の所有物であった。
小学生時代、新介は、怪獣ものの映画やテレビ番組が大好きで、いつも見ていたのである。学校でも、友人たちとは怪獣の話ばかりしていた。
そういう新介の宝物が、怪獣の名と写真が印刷された、ハガキ大のカードだったのである。
1枚何円と、駄菓子屋で安く売られていたのだが、新介は何十枚と買い集めた。
それを毎日眺め、大切にしていたのだが、その中の1枚がある日、行方不明になったのである。
しかもそれは、最も気に入っている火炎怪獣のものであり、新介は家中を探し回ったが、結局発見することはできなかった。
泣きべそをかき、とうとう捜索をあきらめたが、その後の数日間を、文字通り、新介は涙とともに過ごし、ショックがあまりにも大きかったのか、あれほど大好きだった怪獣への情熱も、急速にしぼんでいったのである。
それ以来、何事かに熱中することを、新介はきっぱり止めてしまったのだ。
『何かを好きになると、それだけ、失ったときの衝撃も大きい』
と小学生なりに学んだのであろう。
それ以後、新介は何事にも情熱を燃やさず、深く関わることを拒否する人間へと成長していった。
そして今、その火炎怪獣のカードが、姉の部屋から出てきたのである。
「これじゃあ、犯人は誰だったのか、分かりきっているじゃないか…」
新介が言うのは、もちろん強姦殺人犯のことではない。
「姉が盗んで、隠していたのだ…」
そう思って見回すと、思い当たらないこともない。
例えばこの戸棚の中、怪獣カードの次に目についた数学の教科書だが、高校生用のもので、裏返すと所有者の名が書かれている。
女の名で、新介本人に覚えはないが、かつての姉の同級生ではなかろうか。
そういえば、
『理系クラスへ進みたいと数学の猛勉強を始めた誰かが、そのとたんに数学の教科書を紛失してしまい、大いに困っているらしい…』
という話を、姉が母親にしているのを小耳に挟んだ記憶がある。
「ははあ…」
と新介はうなずいた。
幼い頃からずっと、姉は、
『良い子』
小学校へ入学してからも、常に、
『優等生』
で通っていたのだし、家族としても、一度も疑ったことはない。
しかしどうやら、見かけの姉と、真実の姉との間には、かなりの乖離(かいり)があったようである。
「おやおや」
数学の教科書の次に発見した物は、新介の確信をさらに深めた。
大学入試の受験票だったのである。日付は10年弱の昔。
つまり、姉自身が大学受験生だった時期に重なるのだ。
貼り付けられている顔写真にも、氏名にも見覚えはないが、これも姉の同級生なのであろう。
「受験票を紛失し、この受験生は当日、受験できたのだろうか」
新介は思いをめぐらせたが、まず受験は不可能だったであろう。姉の行為は、少なからぬ人々の人生を狂わせたのだ。
新介は、戸棚の中の品々を次々に調べていった。そのたびに、隠されていた姉の姿が浮かび上がるのである。そのバラエティーに、新介は退屈する暇もなかった。
誕生日プレゼントだったのであろう。誰かの名が裏面に刻まれた女物の腕時計。
どこかの男の名が書かれた表彰状が、細かくちぎられ、破られて、封筒の中に納まっていた。
この男が何をし、何故に表彰されるに至ったのかすら、もはや新介は確かめるのも面倒であった。
それほどまでに、姉の『戦利品』は数多かったのである。数えれば、30点近かったであろう。
もちろんこれらは、姉が所有していて良いものではない。
姉の死後、この家の中にとどまっていてよいものでもないのだ。
「これはみんな、持ち主に返さなくちゃな…」
正式の所有者名が書かれていないものは、さすがにどうしようもないが、書かれているものも多い。
その名の中で、新介に思い当たるのは、姉が高校時代に無二の親友とした一人だけだが、
「なあに、卒業アルバムや名簿で調べれば、すぐに全部分かるさ」
新介の頭の中では、送り返す盗品に添えるべき手紙の文章までが、なんとなく形作られつつある。
『…先日、姉の部屋の鍵を開けたところ、これらの品々が発見され、驚きつつも取り急ぎ、ご返送させていただく所存でございます。生前の姉に賜(たまわ)りましたご厚情に感謝しつつ…』
うふふふ。
「人生って、嫌なことばかりじゃないんだな…」
もう何年も経験したことがないほど、新介は気分が良かった。戸棚の品々を調べる仕事を続けつつ、気がつくと新介は、鼻歌まで口ずさんでいたのである。