しみ

文字数 1,957文字

 小学生なりに私は悩んだ。転校していった正雄と、どうすれば再び教室で机を並べることができるだろう。計画を立て、私は実行に移した。古い油絵の道具を戸棚から持ち出し、通学カバンに忍ばせたのだ。
 放課後になり、校内がひっそりするまで私は待った。そして理科室へむかったのだ。
 私が巧妙だったのは、人間の形をしたシミを一度に描かなかったことだ。絵具はうんと薄め、一塗りしただけでは何も見えないほどだ。道具は下駄箱に隠し、10日間かけて、私はゆっくりと影を濃くしていった。そして、この濃さでちょうどいいと思える頃になって声を上げ、私は理科室の壁を指さしたのだ。
「あれ? あの壁のシミは、なんだか人の形に似ているんじゃない?」
 効果はてきめんだった。同級生たちはざわざわと騒ぎ、全員がその壁に目を奪われた。だが立ち上がって近寄り、近くから観察する者は一人もなかった。私の作品は、それほど真に迫っていたのだ。
 薄ぼんやりとした黒い人影だ。だがよく見ると、ところどころ細かく描き込まれた場所がある。くっきりとした目じり、あごの先のとがったヒゲ、やせて浮き出したあばら骨など、本当によい出来だった。
 今から考えれば、変に苦しげだったり、いかにも恨みを込めた表情にしなかったことが効果をあげた。まるで聖者のように静かな表情で、両目を閉じ、瞑想しているのだ。理科室に教師が入ってきたのはその時だったが、生徒たちが見つめる物にすぐに気がつき、教師もはっと息をのんだ。
 壁のシミは、すぐに学校中の話題になった。休み時間には生徒全員が見物に訪れ、昼休みには校長まで姿を見せたほどだ。
 ほっておいてもこの話は祖母の耳に入るだろう、と私は思った。私の祖母は迷信深く、この小学校は呪われていると信じるだろう。母に命じ、祖母は私の転校手続きを取らせるだろう。私が転校してゆく先は、正雄のいるあの学校以外にありえない。
 だが事態は、予想外の方向へと走り始めた。翌日には、新聞記者の一団が学校を訪れたのだ。
 あのシミは大きな記事になった。その翌朝には理科室が閉鎖されたので、私はとても驚いた。
 ついには有名な学者があのシミに興味を持ち、本格的な調査に乗り出したのだ。シミは壁ごと取りはずされ、精密検査のために研究所へ運ばれる。そのための工事が始まったのだ。
 私は青くなった。そんなことをされたら、ただの絵具の落書きだとすぐにばれる。もちろん犯人まではわからないが、決して楽しい気分ではなかった。その日、校内はずっと騒がしく、作業員の声や土木機械の音が響いて、私は憂鬱だった。
 昼食がすみ、午後の授業が始まるころに、作業の準備が終わった。次はコンクリートの大きな一枚板を、クレーンでゆっくりと持ち上げるのだ。
 だが持ち上げてみると、その向こうに四角い通路がぽっかりと開いているなど、誰が想像しただろう。口をポカンと開け、作業員たちは顔を見合わせた。誰も知らない通路が、壁の裏側に隠されていたのだ。教師たちが呼ばれたが、みな首をかしげた。最古参の校長ですら聞いたこともなかった。
 懐中電灯を手に、恐る恐る数人が中へ入った。天井の低い通路が、急な下り坂になって、地の底へと続いた。第二次世界大戦中には、この町にも軍の兵器研究所があった。毒ガスの研究をしていたが、昭和20年の終戦時、残った毒ガスはここに埋められ、隠されたのだ。軍事機密ゆえに知る人は少なく、やがて忘れられ、その真上に小学校が建てられた。
 地下へ降りた作業員たちが見つけたのは、毒ガスを入れて積み上げられた金属製の箱の山だったのだ。恐ろしいことに一部が腐り、毒々しい中身が漏れ出していた。もちろん、その日のうちに小学校は閉鎖された。
 私が知っていることはこれだけだ。転校し、正雄と同じ学校へ通うようになっただけで、私は満足だった。
 だが最後に一つだけ、不思議なことがある。その後、私は面白半分に、あのシミの絵をもう一度描こうとしたのだ。画用紙を広げ、道具はあの時と同じ物を用いた。
 だが私は落胆した。私のブラシが紙の上に生み出したのは、似ても似つかぬひどい出来だったのだ。あの絵を自分が描いたとは、自分でも信じられなかった。実を言うと、「絵がうまい」とほめられたことなど、それまで私は一度もなかった。むしろ私の絵は普段からへたくそだった。
 あの絵を画用紙の上に再現しようと、私はその後も何度か試みた。だが一度も成功しなかった。ブラシの先から生み出されるのは、はるかに及ばない駄作ばかりだ。でもあの時、私の手がブラシをつかみ、私の足が理科室の床に立っていたのは間違いない。ならば、あの時の私はいったい誰だったのだろう? 誰が私にあのシミを描かせたのだろう? 
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