遺志

文字数 6,809文字


 子供のころから、僕にはある性癖がありました。困ったことだと自分でもわかっていたのですが、どうすることもできませんでした。
 他人の書斎や町の書店、公共の図書館などへ足を踏み入れることが、僕にはとても苦痛でした。引き金が引かれ、あの性癖が刺激されるともうどうしようもなく、止めるすべもないまま身を任せるしかないのです。
 親しい友人には話してありましたが、初めて目撃する人はみな驚き、続いてクスクスと笑い始め、最後には不思議そうに僕の顔を眺めなおすのでした。
 あるとき僕は、語学関係の蔵書が充実していると評判の図書館の中にまぎれこんでしまい、しかも気がついたときには、棚一つを占領してずらりと並ぶ数十冊のドイツ語辞書と対面してしまったことがありました。
 その瞬間にいつもの性癖が始まったのは言うまでもありません。僕が本棚の前を離れることができたのは、やっと40分後のことでした。
 自分の意思とは関係なく腕が伸び、僕はドイツ語辞書を手に取ってしまうのです。
 それがどんなに大きな本であろうと、小さなポケット版であろうと関係はなく、一度などは縦横が1メートルもある18世紀の超大型本を持ち上げようとして骨折しかけたほどです。
 ドイツ語辞書のページを開き、僕はPの項を探します。あせりと興奮のあまり指が震え、額にうっすらと汗までかくほどです。
 Pの項を見つけ出すと、次はその最初のページを開きます。
 それはつまりOとPの境目のページのことですが、それを見つけて僕は数秒間顔を近づけて眺め、ほっと息をつき、辞書を閉じ、やっと本棚に戻すことができるのです。
 目に入ったドイツ語辞書すべてについてこの動作を行うのですから、図書館や書店で本棚いっぱいに並んでいるのと出くわしたとき、僕がどんなに大変な思いをすることになるかは簡単に想像がつくでしょう。
 この性癖は友人たちの間ではよく知られており、親切な人々はよく気をつかってくれました。
 僕は読書家で、いつも出入りしている書店もあったのですが、その店のドイツ語辞書を納めた本棚の前にはカーテンが取り付けてあり、いつでもさっと引いて中身を隠すことができるようになっているのは、もちろん僕への配慮からなのです。
 因縁と言おうかなんと言おうか、僕の祖母はドイツ語に堪能で、ドイツ文学に関する研究書まで書いたような人でしたが、そういえばこの祖母には奇妙な話がありました。
 もう何年間も誰も祖母の姿を見ていないのですが、それが自然な死ではなく、ある日を境に行方不明になり、その姿がぷっつりと消えてしまったのです。
 書斎にいるはずなのが、夕食の時間になっても出てこないので使用人が様子を見にいき、部屋が空であることを発見したのでした。
 警察にも通報され、捜索や捜査が行われましたが何の手がかりもなく、祖母の姿が見かけられることは二度とありませんでした。
 でもこれは僕がまだ子供だったころのことなので、正直に言うと僕は、祖母の顔はあまり覚えていません。
 ドイツ語辞書に関する性癖のおかげで、僕は学校時代にもさんざんからかわれたものでした。
 もちろんドイツ語を学ばないですむ学校に進学したのですが、級友たちが面白半分にドイツ語辞書を僕の机の上にぽんと置くことがしばしばあったのです。
 すると僕の身体は自動機械のように動き始め、級友たちは大笑いをするのです。僕はひどくくやしい思いをしましたが、どうすることもできませんでした。
 でも次第にあきられ、このイタズラも行われなくなっていきました。
 成人し、僕は弁護士になっていました。本当は医師になりたかったのですが、それにはどうしてもドイツ語を学ぶ必要があり、あきらめるほかなかったのです。
 祖母のことですが、行方不明とはいえすでに三十年近く経過しているわけだから、近々裁判所が死亡宣告を出す予定になっていました。死亡が宣告されると法的には死者と同じ扱いになり、祖母の遺産は母と叔父によって相続されることになります。
 その関係で、どうしてもある書類が必要になりました。田舎にある小さな土地の所有権に関する記録で、ないと困るというほどではありませんが、あれば事務手続きが非常に簡単になります。
 それを探すために、僕は祖母の書斎へ足を踏み入れることにしました。
 定期的に鍵を開け、使用人たちの手で掃除がされていましたが、三十年間使用されていない部屋はがらんとしていました。
 家具のほとんどはすでに運び出されていましたが、いくつかある本棚だけは中身と一緒にまだ残っていたのです。
 その中にかつてはドイツ語辞書がいくつも並んでいたはずですが、母が命じて何年も前に地下室へ片付けられていたので、僕は何も気にすることなく足を踏み入れることができたのです。
 僕は書類を探し始めました。ところがそれも、いくらもたたないうちに中断されてしまいました。
 並んでいる本の背に指を走らせ、何か書類がはさまってやしないかと僕は調べていたわけですが、そのときに気がついてしまったのです。
 すべて取り除いてあったはずなのに、手抜かりがあったか、分厚い本ではないからそうは見えなかったということかもしれません。たった1冊だけれど、僕は本棚の中にドイツ語辞書を見つけてしまったのです。
 体中の毛穴から汗がどっと噴き出してくるような気がしました。注意深く行動してきたせいでここ何年も経験していなかったあの性癖がまた僕に取り付き、支配しようとするのが感じられました。
 でももうどうすることもできません。僕は身を任せるしかないのです。
 気がついたときには僕は辞書を開き、Pの項の最初のページを目にしていました。
 小さな文字でアルファベットが並び、発音や意味の説明が書かれています。なんということのないただの辞書のページです。でも僕は、奇妙なことに気がつきました。
 赤インクを使って、誰かがそのページのすみに書き込みをしているのです。
 インクの色でなんとなくわかるのですが、辞書と同じようにかなり古そうな書き込みです。きっと何十年も前のものでしょう。
 その筆跡に見覚えがあることに気がついて、僕はひどく驚きました。
 死亡宣告を得る手続きの関係で、このところ毎日のように手書きの書類を目にしている祖母の字だったのです。あの独特なペン使いは間違いようがありません。
 目を近づけ、すぐに僕は読みはじめました。こう書かれていました。


この屋敷の中で何か探しものをする必要が生じたときには、私の書斎の暖炉の左から3番目のネジをゆるめてみるとよい。


 どういう意味なのか、もちろん僕にはさっぱりわかりませんでした。
 でもこれは、祖母が書いたものなのです。『私の書斎』というのは、いま僕がいるこの部屋のことに違いありません。
 僕は暖炉に近寄りました。今は冬ではないので、火はついていません。
 正面には大きな鉄板でできた部分があり、横一列になって、たしかにネジが並んでいます。
 あまりに当たり前すぎて、今まで気づきもしなかったものです。僕がさっそくねじ回しを探しにいったのは言うまでもありません。
 ねじ回しの先を当てると、左から3番目のネジはすぐにゆるめることができました。数回まわしたところで、部屋のどこかからガタンという音が聞こえてきたので、僕は驚きました。
 振り返って見回すと、足元のじゅうたんに一ヵ所、奇妙な形でしわが入っていることに気がつきました。
 さっきまではなかったものです。まるでその下に秘密の入口でも隠してあるような形に見えます。
 じゅうたんを持ち上げてみると、やはりそうでした。
 自分が生まれた家なのに僕もまったく知らなかったのですが、こんなところに秘密のドアがあったわけです。固くロックしてあったものが、さっきのネジをまわすことでゆるみ、1センチばかりずれたのでしょう。
 僕は懐中電灯を探しにいきました。
 秘密のドアは上へと持ち上げる形になっていて、とても重かったけれど、なんとか開くことができました。懐中電灯の光を向けると、石でできた階段が下へむかって伸びているのが見えました。
 僕はゆっくりと降りていきました。
 長い階段ではありませんでした。途中に曲がり角があって見通しはきかなかったけれど、すぐに終点につきました。
 昔はきっと酒蔵だったのでしょう。ドアがあって、それを開けると小さな部屋に出て行き止まりになりました。
 その部屋の中で、祖母が僕を待っていました。
 もちろん生きている祖母ではありません。もう三十年もたっているのです。服毒自殺をしたようで、小さなテーブルがあり、その上に薬の小ビンとすっかり乾いたグラスが置いてありました。
 テーブルの隣にはイスがあり、祖母はそれに腰かけていました。祖母の手の中に紙が握られていることに気がつきました。
 そっと手を伸ばし、僕は祖母の指の間から引き抜きました。これも祖母の字で、僕にあてて書かれた伝言でした。


おまえの母の部屋へ行き、壁にかけてある馬の油絵を調べなさい。
絵を裏返して、額の裏側を見るのです。
木枠の表面に、ごく小さな穴があるはず。
そこに針の先を差し入れ、強くひねってみるのです。
内部に書類が一枚隠してあるのを発見することでしょう。
自分のためを思うのであれば、それを今すぐ燃やしてしまいなさい。


 書かれているのはこれだけでした。
 意味はわからなかったけれど、とりあえず指示に従って、僕は母の部屋へ行ってみることにしました。
 鼻の上にメガネを乗せ、ソファーに腰かけて母は読書をしていましたが、僕が入ってゆくと顔を上げました。僕は黙って、祖母からの手紙を見せました。
 手を伸ばして手紙を受け取り、メガネの位置を直し、目をこらして文面を読んで、母はため息をつきました。
「とうとうおまえが真実を知るときがきたのですね」
 母の部屋は屋敷の奥まったところにあるのですが、中庭に面した明るい場所でした。
 壁にかかっている油絵のことは、僕は子供のころから知っていました。白い馬の絵で、強い風の中に立ってたてがみをなびかせています。
 嵐が近いのか、ごく小さくですが、はるかかなたにいなづまが描かれています。黒い雲から発して、今にも大地を鋭く突き刺そうとしています。
「何をためらっているのです?」母は僕をせかしました。「早くその絵の裏側を調べてごらんなさい」
 言われたとおりにすることにしました。イスを持ってきてその上に立ち、油絵に手を伸ばします。
 いったん降ろして机の上に乗せ、絵を裏返してみました。目を近づけてよく見ると、たしかに小さな丸い穴があります。
 針の先を差し込むと、それはすぐに開き、隠されているものもすぐに見つけることができました。
 額の内側を巧妙にくりぬき、目立たないようにフタがしてあって、そうと知らなければ見つけることはまず不可能でしょう。
 出てきたのは、祖母が言うとおり一枚の書類で、ひどく古びています。
 折りたたまれているのを広げ、僕は目を通しました。母の声が聞こえてきました。
「いいのですよ。その書類を燃やしてしまっても、私は何も言いません。おまえの叔父はきっと不満に思うだろうけれど」
 叔父というのは母の弟のことです。この屋敷に同居していますが、この日は朝からどこかへ出かけて留守をしていました。
 どういう職を持つどういう人かはこの物語とは直接関係はありませんが、あまり人に誇れる叔父ではないということだけは申し上げておきましょう。
「この紙は?」
 絵の中から見つかった書類を、僕は母に見せようとしました。
 でも母は首を横に振り、受け取ろうとはしませんでした。その代わり口を開きました。
「それはおまえの出生証明書ですよ」
 出生証明書というのは、僕が生まれた日に役所が発行したもので、僕の名と生年月日、生まれた病院名、両親の名が記されています。きちんとした書式にのっとった公文書です。
「でもこれによると…」出生証明書に書かれている内容が意外だったので、僕は口を開こうとしました。
「その書類は、おまえが私の実の息子ではないということを証明するものです。おまえの叔父、つまり私の弟がのどから手が出るほどほしがっている書類でもあります。私たちの目を盗んで家の中を勝手に探したりする人だから、そんな場所に隠しておかなくてはならなかったのです」
「どうして?」
「弟はひどく欲張りだからです。実の息子ではなく、おまえには本当は相続権はないということになれば、この家の財産はすべて弟が独り占めすることができます。
 おまえは孤児でね、ある日この屋敷の玄関の前に捨てられていたの。私たちが拾い、世間体もあって、役所には実子として届けたわ。でもその出生証明書が表ざたになれば、おまえは相続権を失うことになる」
「この出生証明書はどこで手に入れたんですか?」
「おまえと一緒に玄関の前に置かれていたのですよ。人を雇ってひそかに調べさせたのだけど、実のご両親はすでに亡くなっているわ」
「おばあさんは、なぜこの出生証明書を命をかけて隠そうとしたんですか?」
 母は再びため息をつきました。
「私の弟はそれほど恐ろしい人間だからです。今でも誇れる弟ではないけれど、若いころからずいぶん悪いことをしてきた男なのですよ。
 だから30年前にも、その出生証明書のありかを白状させるため、弟はおまえの祖母を攻め立てました。自分の実の母なのに、毎日毎日激しい口調でです。それに耐え切れなくなって、母は命を絶ったの。地下室へ降りてゆき、毒を飲んだのです」
「でも、なぜそんなにまでして僕のために?」
 母は微笑みました。
「おまえが私のお気に入りで、自慢の息子だからですよ。母にとってもお気に入りの孫でした。30年前、母と私は話し合い、とにかくこの場は時間を稼ぎ、先のことは成人したおまえ自身に決めさせようということになりました。
 当家とは縁のない孤児として、遺産を相続することなく、しかし叔父とは縁を切って生きるか。あるいは出生証明書は燃やしてしまい、当家の跡取りとして、だがあの男の親戚として生きるか」
「僕の奇妙な性癖は、このことと関係あるんですか?」
 この質問については、母も首を横に振るしかないようでした。
「それは私にもわかりません。母の霊がさせていたことかもしれません。出生証明書を見つける手がかりはドイツ語辞書の中に隠してあるのだから、おまえの注意をそこに引きつける必要があったのでしょう」
「だけど…」
「さあ、その書類をどうするか決めなさい。燃やしてしまうのなら、ここに必要な道具があります」
 母は、僕の目の前に小皿とマッチの箱を置いてくれました。


 出生証明書は明るく燃え上がり、あとにはわずかな煙と小さな灰の塊が残るだけでした。
 窓を開けて煙を追い出したあとで、母は静かに読書に戻りました。僕は部屋を出て、そっとドアを閉めました。
 廊下で偶然叔父に出会いました。外出先から戻ってきたところなのでしょう。
「やあ叔父さん、お帰りなさい」
 僕が声をかけると、普段あまりないことなので叔父は驚いたような顔をしていましたが、すぐに返事をしてくれました。
「ああ、ただいま」
 僕の顔つきや表情から叔父が何か感づいたかどうかはわかりません。でも、どうでもよいことでした。裁判所が祖母の死亡宣告を正式に出せば、財産は母と叔父の間で二等分されることになります。
 父は何年も前に死に、母は寡婦です。もちろん、年老いた母も先は長くないでしょう。
 母が死ぬ日を、叔父は指折り数えていることでしょう。それまでには何とかして出生証明書を見つけ出し、財産をすべて自分のものにして、この家から僕を追い出すつもりでいるのでしょう。
 だけど、それはもう不可能になりました。僕は母の財産をすべて引き継ぎ、この屋敷の中で生きてゆくことになります。
 毎日顔をあわせて生きるには、叔父はいささかタフな相手かもしれません。
 でも僕は若いし、今は元気だけれど、年が離れているとはいえ叔父は母の弟なのです。いずれ年を取ってゆくでしょう。もう勝負は見えているではありませんか。
 そう、最後にあの困った性癖のことです。
 母が言うとおり、原因になっていたのは死んだ祖母の霊だったのかもしれません。祖母は僕に真実を伝えたかったのでしょう。
 その目的は達成されたわけです。この日以降、あの性癖はウソのように消えてしまい、僕が悩まされることは二度とありませんでした。

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