立ち退き
文字数 13,593文字
細川良介は、今日も気分がくさっていた。
鮎屋のばあさんは、今日も首を横に振るであろう。
それどころか、また昨日のように大きな声を出すかもしれない。
「大きな屋敷を構えて、金にも不自由しないように見えるのに、なぜあんなに短気で、怒りっぽいんだろう」
鮎屋というのは、商店の屋号ではなく、そういう姓の家なのだ。
だから鮎屋のばあさんとは、鮎屋英子という名であるが、まったく良介がため息をつく通りの人物だったのである。
良介がこれまで、あの屋敷へ何回足を運んだのか、多すぎて、もう分からないほどだ。
良介は、市役所の道路課に勤務し、現在は市道の拡張工事を担当している。
江戸時代から続く古く狭い道を広げ、バスが通れるように整備する仕事なのだ。
道路を広げるには、当然ながら用地が必要になる。
そのために、道路ぎわの家々の土地を買い上げるのだが、その交渉が良介の役目だ。
良介の予想通り、この日の訪問も散々なものだった。
英子は話を聞くどころか、鍵をあけて、門の中へ入れてもくれなかった。
「お前なんかに、話すことはねえっ。帰れ。帰らないと、こうだぞ」
と、今日の良介は塩まで撒かれてしまったのである。
だが今日は本来、これまでの何十回かとは意味の違う訪問だった。
用地買収に際し、最初から市の側は紳士的であった。
言葉づかいに気をつかい、高圧的にならぬように注意したのである。
立ち退きにあたり提示した金額も、それなりに手厚いものであった。
道路の拡幅が、どれほど市民の生活を良くし、待たれているか。
それをじゅんじゅんと説明したつもりでもあった。
であるのに、
「いやだ。わしはこの土地は絶対に売らねえ」
と英子は声を荒げるばかりだったのである。
英子の側に、同情すべき事情がないわけではない。
英子の屋敷は古いが、その年代にはまだ珍しかったモダンなデザインで、生まれて以来、英子は一度もこの屋敷を離れたことがないそうである。
道路の構造から言って、敷地の一部の買収ではなく、屋敷の解体も避けられない工事になる。
80歳近い老女に、
「解体するから、一生を過ごしてきたこの家から出て行ってくれ」
とは簡単に言えることではない。
しかし市の発展にともない、道路網の整備も待ったなしなのだ。
そのため、今日の良介は、英子への最後通告を持って現れたのである。
『行政代執行(ぎょうせい・だいしっこう)』
と呼ばれる手続きで、土地収用法という法律によって行われる。
『道路の拡幅』
という公共性と、
『住みなれた家に、ずっと住み続けたい』
という個人の幸福のどちらを優先させるか、という話なのだ。
バスが通行できる広い道路を建設するためであるから、工事の公共性は疑うべくもない。
そこで裁判所は最終的に、行政代執行を認めたわけである。
具体的にはある朝、裁判所の人間と作業員がやってきて、英子の屋敷を、
『強制的に解体し、更地にしてしまう』
ということである。
警察官も同席するから、家の所有者、つまり英子には何の勝ち目もない。
「行政代執行は、明朝行われることに決定しました…」
と、この一言を良介は英子に伝えたかったのである。
しかし英子は、聞く耳を持たなかった。
肩を落として、良介は市役所へと戻り、自分の机の前にドサリと腰かけた。
「もう何もかも終わった」
という気分なのである。
明日の朝8時から、行政代執行が開始される。
この件はもはや、良介の手を離れたも同じである。
しかし気がつくと、良介の手はいつの間にか、鮎屋の件を記したファイルへと伸び、ページをくってしまうのであった。
もう何十回と開かれ、ファイルの背は薄汚れている。
鮎屋英子
大正○年 ○月 ○日生まれ。
父親は鮎屋太吉。母親は鮎屋カネ。
英子は地元の尋常小学校と高等女学校を卒業後、一度も結婚はせず。他に兄弟姉妹はなし。
鮎屋は代々の資産家で、英子も勤労経験はないが、経済状況に問題はないと思われる。
両親の死後は、何十年も一人暮らしを通している。
鮎屋家は、N市が都市化する以前、つまり江戸時代から続く名門で…
鮎屋家が江戸時代から財をなしてきたのは事実であるが、そこには奇妙な伝説があった。
江戸時代の中期に、鮎屋重吉という人物が、鮎の捕獲技術に秀でていたのだ。
鮎とは、もちろんあの川魚のことである。
香りと味の良さで知られ、現代でも食用魚として需要は高い。
それは江戸時代でも同じことで、諸藩の大名たちももちろん初夏から夏にかけて、良質の鮎を求めたであろう。
現代ではともかく、江戸時代にはまだ鮎の養殖は不可能であった。
それゆえ大名といえども、川で捕獲された鮎を求めて食することになるが、この鮎屋重吉という男は、ことのほか良質で味の良い鮎を供給することができた。
名だたる漁師というところであろう。
それゆえに重吉は代々の大名にかわいがられ、ついには『鮎屋』という名字まで、たまわったのである。
そして時代が流れ、その当代があの鮎屋英子なのだ。
ファイルにもある通り、あの大きな屋敷に英子はもう何十年も独居しており、
「結婚相手や子供どころか同居人もなく、本当に英子はあの屋敷で一人で暮らしてきたのか…」
と良介はつぶやいた。
英子は、なぜ結婚しなかったのだろう? 屋敷付きの資産家の一人娘なら、引く手あまたであったろうに。
あるいは相思相愛の相手がいたが、何かの理由で許されぬ恋であったか、親に反対でもされたか。
しかし、いくらファイルを眺めていても仕方がない。
明日は代執行の日なのである。
翌日は、朝から良く晴れた。市職員の一人として、もちろん良介も現場に立ち会ったのである。
あたりはものものしく、背広を着た裁判所の執行官が数人。騒ぎを防止するための警察官が2人。
あとの大部分は、屋敷の実際の解体作業を行う作業員たちである。
必要な重機類やダンプカーも、すべてそろっている。
大きな事件ではないということなのか、マスコミの姿がないことに、良介はほっとした。
良介自身に落ち度はないといっても、新聞ネタになることが嬉しくはないのである。
8時ちょうどになり、ついに執行が始まったが、ここでまず異変があった。
いくら玄関のベルを鳴らしても、ドアをドンドンと叩いても、返事がないのである。
「細川君…」
と上司が良介を呼んだ。
「はい」
「鮎屋のばあさんは、どうした? どこへ行ったんだ? 君は知らんか?」
「いいえ、知りません」
玄関の前でいくら待っても、何の反応もない。
拡声器を使い、すでに執行官は、裁判所からの通知を読み上げ終わっている。
屋敷の中にいようが、いまいが、これで文書の内容が英子の耳に届いたとみなされ、すべての行動が法的に正当化されるのだ。
ついに、そのときが来た。
「よし、やれ…」
執行官が、作業員に合図を送った。
重機のエンジンがかけられ、屋敷の解体作業が始まったのである。
☆
「それで代執行の結果はどうだったの?」
と私は良介に質問した。話聞きたさに、居酒屋に呼びだしてみたのである。
代執行が行われたのは私の家のごく近所のことであり、それを全く気にせずにいられるほど、私も聖人君子ではない。
良介は私の姉の子である。
常日頃から、私も良介のことは気にかけているつもりではあった。
それならば、『お前はどれだけ立派な叔母ぶりであるのか』という意見も出てこようが、そのあたりは容赦してもらいたい。
完璧な人間など世界に存在しないのと同じように、完璧な叔母というのも世の中にはいないのだ。
だがもしかしたら、良介は完璧な甥に近いかもしれない。
子供の頃はともかく、長じてからは、私には常に敬語を使った。
本人はまだ気づいていないが、良介はなかなかのハンサムである。
高校を出て、市役所で働き始めて数年というところだが、生真面目で、素行不良どころか、浮ついた話さえ聞いたことがない。
学生時代にも、同級生たちのように遊びまわるよりは、試験勉強に没頭することを好むような青年であり、実は私も、
「いつかは良介の嫁に、良い娘を世話してやらねば」
と心に決めているほどだった。
そんなこんなだから、私のことも、まあ叔母バカの一人と考えてもらいたい。
「ねえ、あの代執行よ。あれからどうなったの?」
はじめは良介も気の進まないふうであったが、2杯、3杯と勧めると、舌も唇も多少は滑らかになったようだ。
「ちゃんと終わりましたよ…。家財道具を運び出し、今週中には更地になるでしょう」
「そういった家財道具はどうなるの? 相続する人間がいるのかな?」
良介は首を横に振り、
「いや、いませんよ。全て調べてあります。ばあさんは天涯孤独の身の上だから、管財人が指定され、家財道具は売られ、現金化されて国庫に入るんです」
「じゃあそのばあさん、名前は英子といったっけ? 代執行の時、英子はすでに死んでいたのね?」
まるで硬い石の塊であるかのように、良介はさらに1杯の酒をぐいと飲みこんだ。
「玄関には鍵がかかっていたので、専門の解錠業者が開けました。そこから裁判所の執行官やら数人がどやどや入っていったんですがね、すぐにまた出てきて…」
「死体があったから?」
ええ、と良介はうなずき、
「警察官たちが呼び入れられました。それからなんと、警察官たちは僕に手招きをするんです」
「どうして?」
「死体の顔を確認してほしいんだとかで。生前の英子に会ったことがあるのは僕だけだから…。もちろんうちの課の主任も、英子には2、3回会ってます。でも代執行の現場にはいなかったものだから」
「へえ」
「屋敷の中はきれいでしたよ。きちんと片付けられていたし、掃除もされていたし。僕はそれまで、玄関までしか行ったことはなかったけれど、普通の家の内部と同じようで、見た限り変わったところはありませんでした…」
この日、良介が語ったことを要約すると、以下のようになる。
もちろん、良介もすべてスムーズに語ってくれたわけではない。
ときどきは口ごもるので、何か言葉を添えるなり、もう1杯ついでやるなり、私も努力したのである。
なぜ私がそのように熱心であるのか、幸いなことに良介は不審には思わなかったようだ。
この代執行の前夜遅く、鮎屋の屋敷に侵入者があったのは疑いない。警察はそう結論した。
なぜなら布団の敷かれた寝室ではなく、英子の死体は寝間着姿で、地下室に倒れていたからである。
寝室には、急いで布団をはねのけた跡があり、部屋から廊下へ出るフスマも開かれたままであった。
侵入者の物音に驚き、英子は逃走を図ったのだ。
しかし、そのむかった方向がまずかった。
何かの理由でそうせざるを得なかったのだろうが、外部へと続く玄関や勝手口ではなく、英子は地下室に身を隠そうとしたのだ。
「地下室? あの屋敷にはそんなものがあるのね」
「警察も最初は、戦時中の防空壕の跡かと思ったそうですけどね。1階の廊下のはずれに、鉄製の頑丈なドアがあって、その奥に地下への階段があるんです」
「ははあ、じゃあ英子は、その鉄ドアの頑丈さをあてにして、身を守ろうとしたのね…。泥棒だったのかしら?」
「警察はそう考えているようです。あの大きな屋敷だから、金目のものがありそうに見えたんでしょう」
「あら良介君、えらく詳しいじゃないの?」
「警察に高校の同級生がいるんですよ。本当は民間人に話すようなことじゃないけど、関わった以上はお前も目覚めが悪いだろうからって、教えてくれたんです」
「へえ」
警察官も、英子の顔を確認するために呼ばれていった良介も驚いたのだが、鉄ドアの先はすぐに急角度の下り階段となり、地底の洞窟へとつながっていた。
「洞窟ですって?」
その言葉に良介はうなずき、
「この町の地質からいって、珍しいことじゃないそうです。この町は石灰台地の上に立っているから。…つまり地下室というのは、天然の鍾乳洞だったんです。階段を下りてゆくと、そのままつながるんですね」
代執行の職員たちは、英子の死体をそこで発見したわけである。
良介が呼ばれて鍾乳洞へ降りて行った時には、すでに体の大部分がシーツで隠され、顔だけを見ることができるように警察が配慮していた。
その顔を見て、良介は証言した。この死体は鮎屋英子であると。
良介の話によると、鍾乳洞の内部とは、次のような場所だそうだ。
母屋から階段を下りきったところには岩の床があるが、それも10メートルほどで終わり、そこでは水がきらきらと光を反射するのが目に入るようになる。
洞窟は少し広く、ここではかなりの横幅がある。
水面はその先に丸く広がり、クリスタルガラスのように透明な水なのだが、岸を離れると、まるで切り立った崖のように水底はずんずん深くなり、見通そうとしても、底などとても見ることはできない。
ただ暗いばかりで、懐中電灯を向けても、なにに反射されることもなく光は水に吸収されてしまう。
地底湖とはそういうゾッとする眺めで、良介も思わず身震いをしないではいられなかった。
「この水はどのくらい深いんですか? 洞窟はここで行き止まりなんですか?」
と思わず良介は口にした。
「深さはわからない。ほとんど底なしといってもいいんじゃないかねえ。この先何キロ続いているのやら、知りようもないよ」
と警察官は答えたそうだ。
警察官の言う通り、この水はこの先もずっと続いていると思えた。
おそらくは、こういうことだと思われる。
鍾乳洞そのものは、トンネルのような形で、ここから地の底へ向って、急角度に下っているのだ。
だがボートを使って探検して、その終点を確かめることはできない。
なぜなら見ての通り、ここから先では、鍾乳洞は完全に水没しているからだ。
死体が見つかった場所には石の床があるが、そのすぐ先で天井は水面に接し、もはやボートを進めることはできなくなる。
潜水艇でもない限り、その先の探査は不可能だが、こんな洞窟を旅できるサイズの超小型潜水艇など、SF映画の中にしか存在しないだろう。
私はため息をついた。
「ふうん…、それで英子の様子はどうだったの?」
「もちろん死んでましたよ。警察は見せてくれなかったけれど、シーツの下は体中が切り傷だらけで、ひどいありさまだったそうでした…」
姿を見られたことで逆上した侵入者が、何らかの刃物で英子を滅多切りにして殺害した。
そう警察は結論付けた。
捜査はまだ継続中であり、容疑者の特定、逮捕には至っていない。
しかし…
私の個人的な意見だが、恐らく逮捕に至ることはないであろう。
この日の会話はこれで終わり、飲食は適当に切り上げ、良介とは別れて、私は自分の家に帰ってきた。
私の家と英子の家は、本当に近所である。
直線距離にして、せいぜい200メートルしか離れてはいない。
また、『鮎屋』という苗字を大名からたまわったのは、英子の家だけではない。
実は私の先祖もそうだったのだ。
事情があって大正時代に姓を変えたので、今では誰も知らないことだが、私の家系もまた過去に鮎屋を名乗っていた。
だがそのあたりの事情を、私はずっと秘密にしてきた。もちろん良介も知らないことである。
英子と同じように、私もまた一人暮らしなのだが、そのことを特に寂しく感じたことはない。
私の家は英子の屋敷ほど大きくも、豪華でもないが、共通点がある。
同じように鉄のドアが廊下のすみにあり、その先はやはり同じように地下の鍾乳洞につながっているのだ。
ただしあの鍾乳洞は途中で完全に水没しているから、両家の間で行き来はできない。
私の先祖と英子の鮎屋は、江戸時代には、いってみれば共同事業者だった。
考えてみてほしい。
どこかの大名から鮎を所望された時、よく肥えて味の乗ったものを都合よくホイホイと捕まえ、サッと城まで届けることができるだろうか。
そんなことは不可能だ。
そうそう都合よく、良い鮎が捕まってくれるはずがない。
私の先祖と鮎屋は、ずっと世間を欺いていたのだ。
もちろん大名の目も欺いていたことになる。
先祖たちは、良い鮎をつかまえる名人だったのではなく、水がきれいで、水温が一年中安定している鍾乳洞の地底湖を使って、ひそかに鮎を養殖していたのだ。
生物学的、あるいは水産学的には、これは大したことだ。
現代でも、鮎の養殖に成功したのは、ここ数十年のことだからである。
詳しい事情は伝わっていないが、おそらくは鮎屋重吉あたりが、その方法を偶然発見したのだろう。それを秘密の家業にしたのだ。
これが江戸中期のこと。
しかし先祖たちも、いつまでもその稼業に精を出すわけにはいかなかった。
時代が江戸から明治に変わるあたりで、廃業を経験しなければならなかったのである。
廃業後も、それまでに蓄えた財をうまく用い、鮎屋は金持ちになった。
私の先祖も、ある頃まではうまく行きかけたが、昭和の恐慌ですっかり傾いてしまった。
その末代が私である。
しかし英子の鮎屋にしろ、私の先祖たちにしろ、川で捕獲したものと偽って養殖鮎を売るという仕事を、やめたくてやめたわけではない。
廃業したくて廃業したわけではない。
ちょうど江戸から明治へと変わる頃、地底で異変が起こり、鮎の肉体に変化が生じて、もはや商品価値を持たなくなったのだ。
突然だが、ここで生物学の講釈をすることをお許しいただきたい。
物語の進行上、どうしても必要なことなのだ。
一般に、鍾乳洞には地上と異なる生物が住んでいる。
といっても、何もゴジラが住んでいるというのではないが、魚や昆虫、イモリ、クモ、エビやカニなどだけれど、地上とは行き来のない分、これらの生物は変わった姿をしている。
光など全くない暗闇の世界だから、体に色がついていても仕方がない。
だから自然と白っぽい体色の物が多い。
また目を持たず、物を見ることができないものも多いのだ。
英子の屋敷の地下と同じように、私の家の地下もすぐに鍾乳洞へとつながり、いくらも行かないうちに、やはり同じような水面に出くわすことになる。
この水は、鍾乳洞を満たす地底湖と呼んでよいものと思うが、この地底湖を通じて、英子の屋敷と私の家はつながっているのだ。
これら2軒の家は、鍾乳洞へ通じる入口を隠すために、それぞれの場所に建てられたのであろう。
この地底湖に放し飼いにして、私たちの先祖は鮎を養殖したのだ。
私も子供の時分、父に連れられて自分の家の鍾乳洞へ降りて行った時のことを、まるで昨日のようによく覚えている。
自分の家の歴史を伝えるために、父も覚悟を決め、鉄ドアを開いたのであろう。
父の手の中には、鮎釣りの道具があった。
私を連れ、父は地底湖の湖畔で釣りをしたのである。
しかし釣り上げられたのは、もはや鮎ではなかった…。
まず敷物を敷いて腰を下ろし、父は釣りを始めた。
明かりにするための石油ランプは、もちろん持ってきてある。
糸を垂れて5分もたたないうちに反応があったので、私は驚いた。
「釣れたの?」
「そうだよ」
父は、ゆっくりと水から糸を引き上げにかかった。
糸が上がってくるのは、あの底なしの暗がりへと降りてゆく、気味の悪い水からだ。
「ほら釣れた」
釣られた魚は元気がよく、糸の先でピチピチはねていた。
その動きが速すぎて、形をよく見ることができない。
「どんな魚?」
私のために、父は魚を岩の床にたたきつけてくれた。
それでも死んでしまうことはなく、魚はウネウネと動いている。
糸も針もまだついたままだ。
手を触れる気にはならないのか、父は両足でそっと押さえた。
それからランプの灯を近づけてくれたのだ。
まず目についたのは、色がいかにも頼りないピンク色をしていたことだ。
なんとも形容のしようがないが、200年間も太陽に当たっていなければ、こうなるものかもしれない。
鮎だと言われれば、確かにそうであろう。
二つに分かれた優雅な尾びれは、この魚も持っていたから。
だが頭部は違った。
この魚は、エビとそっくり同じ頭部をしていたのだ。
ザリガニなどでおなじみであろう。きゅっとすぼまった西洋の古いカブトのような形なのだ。
鼻先まわりに短いひげが幾本か生えているところもエビで間違いない。
しかし胴体の後ろ半分は鮎なのだ。
まるでエビと魚の胴体を中央でちょん切り、冗談で張り合わせたような姿をしていた。
こんなものは、どんなに発想豊かな子供の悪夢にも登場しないであろう。
この奇妙な魚の胸部には、あろうことかクモの足が4本、それも横向きに生えていた。
クモには足が8本あることはご存知であろう。そのうちの半数だけだ。
こんな足の生え方では、歩行の役には恐らく立つまい。
「これは何の魚? どういうことなの?」
と私は尋ねた。
本式の学者ではないが、父は読書家で、広い分野の様々な知識を持つ人だった。
「時代が江戸から明治に変わる頃、なぜかここの鮎にはこういうことが起こってしまったのだよ。だからもう売りものにはならない」
「そうね」
「明治の人には、これがどういうことなのか、さっぱり理解できなかっただろう。だけど今は違う。生物学がずいぶんと進歩したからね」
「それを調べるために、お父さんはたくさんの本を読んだの?」
はにかんだように父はかすかに笑い、
「いや、そうではないのだな。ただ面白いから読んできただけだよ」
「ふうん…」
そのあと父は、地底湖で鮎たちの身にどういうことが起こったのか、かいつまんで私に説明してくれた。
なにぶん私はまだ子供だったから、そのすべてがちゃんと理解できたとは思わないが…。
☆
昨夜、私は良介を殺害した。
叔母である私が、実の甥を手にかけたのだ。
叔母バカどころか、まったくひどい話ではないか。我ながら、そう思わないではいられない。
「ちょっと相談したいことがある」
と言って呼び出すと、わが甥は何一つ疑うことなく私の家へやって来た。
良介はそれまでにも私の家へやって来たことは何度かあったが、廊下の奥の鉄ドアのことまでは私も教えていなかった。
今回はそれを教え、カギを開けてドアを開いて見せたのだ。
その先に何があるのか、英子の家と同じように鍾乳洞へとつながっているのか、良介は興味津々な顔をしていた。
そうやって楽しそうな表情のままでいる良介を殺すことができたのが、私にとって唯一の慰めであろう。
地下の終点に達し、英子の家とそっくり同じな鍾乳洞と地底湖の景色を目にして、良介がどんなに驚いたことか。
そうやって警戒も何もしていない人物の後頭部を、隠し持った野球バットで一打するなど、難しくもなんともない。
なぜ私が甥を殺したのか?
それを質問する権利は、あなたにももちろんあろう。
ではお答えする。
私は、自分の甥に恋をしていたのだ。
道ならぬ恋とでも何でも、お好きに名付けるがよろしい。
結局私は、一生の間独身を貫いたが、姉は早く結婚し、玉のような男の子を生んだ。
それがあのような好青年に育ってゆくのを、私はすぐそばで眺めてきたのだ。
この文章の最初のほうで私は、
『いつかは良介の嫁に、良い娘を世話してやらねば、と心に決めている』などと書いたが、あれは真っ赤なウソだ。
まだセーラー服を着ていた頃から、私は心に決めていたのだ。
「誰の手にも、良介は渡すまい」
しかし私に何ができる? 今では良介の母親よりも年上の中年女だ。
まあいい。
もう何もかも終わったことだ。
私の一生になど、誰も興味を持ちはしないだろう。
最後に、私が行った悪行について述べて、この文章を締めくくることにしよう。
鮎の肉体的変化についてだが、地底湖の奥底で起こったであろうことを、父はこう説明してくれた。
まず第1に、地底湖の最奥部には、人類がまだ誰も見たことのない生物が潜んでいたものと思われる。
それがどんな姿形をしていたのか、私に質問しても無駄だ。
誰も見たことがないのだから。
魚類だったかもしれないし、昆虫だったかもしれない。
はたまた菌類か、もしかしたら植物だった可能性だって否定できない。
この生物には、他生物とは根本的に異なる一つの特徴があった。
それは、
『相手を捕食した時、相手の栄養分ばかりでなく、遺伝子までも取り込んで進化してゆく』
ということだった。
普通の狼が羊を襲って食っても、羊の体から栄養分を吸収するだけだ。
捕食することと、狼がさらに高等な生物へと進化してゆくことの間には、直接の関係はない。
生物学では当たり前の常識だ。
だがこの生物は違う。
この生物も進化はする。
だがそれが、
『遺伝子の変異を待ち、変異した遺伝子型が表現型のあり方に反映し、それが自然淘汰のフルイにかけられる』
という通常の進化過程をへるわけではない。
足なら『足』、目玉なら『目』というすでに完成したパーツを、遺伝子ごと相手から吸収して、我がものとするのだ。
おそらく何億年も前から存在している生物なのだろうが、深さ数千メートルか数百メートルか、地底の奥も奥、どうしようもないほど深い場所で、他の生物とは完全に切り離されて、細々と生存していたのだろう。
それが地震か地崩れか、何かの理由で鮎屋家の地底湖とつながってしまい、地底湖に住む生物たちを捕食、いや、取り込み始めたのだ。
それが江戸時代の終わりごろで、鮎屋の鮎たちもたちまち餌食になり、やつに遺伝子を提供する結果になった。
父が釣り上げた一匹を例に挙げよう。
あいつが本来どんな形をしていたのかは知るすべもないが、エビを食ったことでエビの頭を得、鮎を食ったことで、鮎の下半身を得たのだろう。
そのほか、おやつがわりにクモまで食ったようだ。
だからこそ、水中で何の役にも立たないクモの足を4本も、腹から下へぶら下げていたわけだ。
もちろん、地底湖に潜んでいるあいつは、たった1匹ではない。
何十匹か、きっと何百という数であろう。
英子の家の地下にある地底湖の水辺と、私の家にある地下の水辺とは、よく似てはいるが、違うところもある。
英子の家では、足元はすべて岩だが、私の家では、ほんの少しだが砂地の場所があるのだ。
侵入者の手にかかり英子が殺害されたというニュースは、まず新聞記事として私の目に飛び込んできた。
自分の先祖と英子の先祖の関係について、私はすでに知っていたから、気にならないわけがない。
だから良介を呼び寄せ、居酒屋で一杯おごることになったのだ。
あの時の会話で、私が知りたい内容はすべて聞き知ることができた。
「…事件の犯人は、警察の言うような侵入者ではないわ…」
私はすぐに確信することができた。
そしてその後、その確信をさらに強固にする証拠を得ることができた。
私だって気にはなる。
自分の家の鉄ドアのカギを開け、地下の様子を見に行ったのだ。
見る限り、地底湖には何の変化もなかった。
まさか釣りをする気にはならず、真っ暗で気味の悪い水中を一べつしただけで、私はきびすを返したのだが、そのときに気が付いたことがある。
先ほど話した砂地のことだ。
鉄ドアから階段を下りて、その階段が終わり、水面へ向かって数メートル進んだところにある。
私はそこに、足跡を見つけることができた。
人間の足跡である。
裸足で、靴は履いていなかったと断言できる。
「…あら、英子の足だわ…」
そうとしか考えられないではないか。
普通の人間の足跡だというのなら、どこのどういう人間が地底湖から現れ、鉄ドアに進路をはばまれてあきらめ、再び地底湖へと戻ってゆくというのか。
すでにお話ししたであろう?
やつは、
『エビを食ったことでエビの頭を得、鮎を食ったことで、鮎の下半身を得…』
英子を食ったことで、ついにやつは人間の足を得たのだ。
私が想像したとおり、たかだかクモの足では、歩くのに不便なのであろう。
砂地には、地底湖から鉄ドアへ行き、また地底湖へ戻ってゆく足跡がしるされていた。
私と良介は、決して結ばれることはない。
現行法下、叔母と甥では結婚できる可能性はない。
それならば、せめて…。
私は考えたのだ。
自分と良介の間に子供をもうけよう。
とはいえ、それにしたって、現行法下で、どう法律の抜け穴を突いたものか。
私は頭を悩ませた。
そこへ英子の事件が起こったのだ。
私はまるで、問題の解決策を天からたまわったような気がした。
「良介と自分の遺伝子をあいつに食わせて、あいつ自身を自分たちの実子としよう」
というアイディアが、まるで稲妻のように私の頭にひらめいたのだ。
お分かりか?
若いみそらで良介を死なせてしまうことを気の毒に感じなかったわけではないが、良介との間に子供を持とうと私は決めた。
良介の遺伝子と私の遺伝子が、一つの肉体の中で永久に生き続けるのだ。
このような幸運に恵まれた女は、私以外には存在しないかもしれない。
『実子』とは、両親の遺伝子を引き継いでいる者という意味でもあるのだ。
地底湖に潜むあいつは、その要件を十分に満たしているではないか。
自分の死体が横たわっているさまを眺めるというのは、奇妙な気分がするものである。
その隣には良介も横たわっている。
良介の死因は、私が野球バットで頭部を打撲したことだ。
殺害した後、自分も良介に添い寝するように横になったが、自殺するのは、私はどうにも気が進まなかった。
日本では銃も手に入らないし、即効性の毒薬というのも、どうすれば手に入るのか、見当もつかなかった。
だから私は、睡眠薬を用いることにしたのだ。
「甥は死んで、お前はおねんねか?」
と言われそうだが、どうせこのままやつに食われて死ぬのだから、同じことではないか。
私はそう納得することができた。
そして一夜が明けたのである。
私は目を覚ました。
「…あら…?」
自分がまだ生きていることが非常に意外だったのである。
例の砂地の上に横たわっていたので、身を起こした。
良介はまだそこにいたが、何者かによって食い散らかされているのは明らかで、意外なほど少量ではあったけれど血液も流れ、砂にしみこみかけていた。
自分も似たような姿なのだろうかと思ったが、そのときに目に入ったのである。
良介の死体の隣に、私自身の死体を見ることができたのだ。
こちらも同じように食い散らかされているが、良介は胴体や内臓を主に食われているのに比べ、私のほうは頭蓋骨が割られ、脳を重点的に食っていったようだ。
まあいい。誰にだって食の好みはあろう。
食い跡の感じから、それなりに大きく育った生物の仕業と思えた。
つまり、子供の頃に父が釣り上げて見せてくれたのは、まだ幼体だったのかもしれない。
今では私の頭蓋骨を押し割るなど、それなりに強い力を持っている。
進化というのは、恐るべきものかもしれない。
ところが、ここで私も気が付いたのだ。
「…待てよ。良介と私の死体がここにあるのなら、それを観察しているこの私とはいったい何者なのだ?」
パニックとまではいかないが、私は一瞬混乱しかけた。
自分がどこの誰なのか、分からなくなりかけたのだ。
もちろん私には記憶がある。
自分の名もキチンと言えるし、両親のことも子供時代のことも、卒業した学校名だってちゃんと思い出すことができる。
だが目の前には、私自身の死体がころがっているではないか。
「…なぜ? 何がどうなっているのか?」
鉄ドアへ向けて、私は階段の手すりに手をかけた。
そう。
自分が何者であるかを知るためには、鏡を見るのが一番手っ取り早い。
私もそう思ったのだ。
良介を手にかけてから、まだ長い時間はたっていないのだろう。
階段を上がって鉄ドアを通り抜けても、家の中には何の変化もなかった。
いやに重々しい足取りで、私は廊下を歩いて行った。
鏡が置いてある部屋には、すぐに行きつくことができた。
ここは私の衣装部屋で、出かける時には、最後の身だしなみチェックを大きな鏡の前ですることにしている。
その前に立ち、ほこり除けのために常にかけてある布を取り除け、私は鏡を見た。
そしてため息をついたのである。
「…なるほど。こういう結末か…」
私はすでに申し上げた。
『エビを食ったことでエビの頭を得、鮎を食ったことで、鮎の下半身を得…』
私も見ていたわけではないが、あの夜、侵入者の気配ではなく、鉄ドアの向こうから聞こえる物音を不審に思い、英子は階段を下りていったのだろう。
しかし80歳近い老女だったのだ。出会った者の姿に驚き、恐らくその場で英子はショック死したのだ。
だから私のようなことは起こらなかった。
英子の体を食い、遺伝子を取り込み、やつは足を得た。
良介の場合もすでに死んでいたから、やつもなにがしかの遺伝子を取り込んだに違いないが、それが何かは私の知らぬことだ。
だが良介の隣で、私はまだ生きていた。
それはそうだ。私はただ睡眠薬を飲んだだけだったから。
生きている人間の脳というものと、やつは初めて出会ったのだ。
うまそうに見えたのかもしれない。
遺伝子を取り込むだけでなく、やつには別の特技があると思われる。
生きた脳を食い、その記憶を自分の中に取り込むことができるに違いない。
なぜなら…
鏡をのぞき込んだ時、私はそこに怪物の姿を見たのだ。
鮎を食った時に手に入れたのであろう真ん丸で小さな目が、鏡の中からまっすぐに見つめ返している。
今の私は一部がエビで、一部が鮎で、サンショウウオで、クモで、昆虫で…、
部分的には人間で…。