風船爆弾
文字数 2,069文字
『風船爆弾』
というとファンタジーっぽく響くが、第二次大戦で使われた、本物の兵器なのだ。
日本軍が作り、太平洋を越えて、アメリカ本土に落下することを期待して、大量に打ち上げた。
風に乗って飛ぶ爆弾だが、太平洋の高空は、西から東へ常に強風が吹き、あながち意味のない作戦ではなかった。
娘時代、早苗は、この爆弾の製造に参加していた。
同僚は、同年代の女子工員たちで、決して楽な仕事ではないが、みな若く、班長が見張るので、ペチャクチャ雑談などできないが、それなりに日々をすごした。
班長の名は吉田といい、中年の感じの悪い男だった。
背は低いが、なぜか首だけはヒョロリと長く、目玉が大きいこともあり、何に似ているかと言えば、
「踏みつぶされて、断末魔の声を上げるウナギである」
というのが、女子工員たちの一致した意見だった。
この班長が、作業中ずっと目を光らせるから、早苗たちは気を抜くことができなかった。
まず、和紙を所定の形に切り抜く。
一辺の長さが15メートルある大きなものだ。
その表面には化学処理がされ、中身のガスは漏れない。
この紙を何枚も張り合わせ、球形の風船が、やっと一つ出来上がる。
早苗たちの仕事はここまでで、次に風船は別の場所へ運ばれ、点火装置を取り付け、ガスが詰められて、空へ放されるわけだ。
戦争中とはいえ、若い娘たちだ。
毎日毎日同じ仕事で、退屈しきっている。
そのうち、誰かが悪戯を思いつくのは、火を見るよりも明らかだ。
作業に用いる黒いペンが、作業机の上にあった。
器用で、すばしっこいお調子者なら、それを手に取り、班長の目を盗んで、和紙の裏にちょいちょいと落書きをするなど、造作もない。
悪戯心と絵画表現の本能のおもむくまま、彼女はそうした。
このお調子者が、早苗その人であった。
その和紙も、他の和紙と同じく正常に張り合わされ、落書きは風船の内側に隠され、見えなくなった。
ガスを詰められ、その風船も、空に放された。
何ヶ月か後には戦争も終わり、そんな悪戯のことなど、早苗もすっかり忘れた。
そう、あれが早苗たちの作った風船爆弾だったことは間違いないが、その身の上に、おそらく次のような出来事が起こったのだ。
空を飛ぶうちに、重い発火装置を吊り下げたロープが、何かの原因で切れた。
すると、風船は極度に軽くなる。
まるで水面へと浮かび上がる空気の泡のように、風船は、大気中を急上昇していったのだ。
その後、風船は、はるか高空を流れるジェット気流につかまった。
風船は極低温、強い紫外線や宇宙線にも耐え抜いた。
ジェット気流に乗って、風船が地球を何周したのかは、見当もつかない。
そして、運命の日を迎えたのだ。
紙製の物体だから、電波を反射することはなく、レーダーでも発見できなかった。
だから管制官は、ロケットの発射に許可を出したのだ。
ご存知の通り、あのロケットには、人類初の月着陸を目指す宇宙飛行士が乗り込んでいた。
そういう歴史的な旅立ちで、ロケットは鉛筆のように尖り、でこぼこのないスムーズな形をしている。
あのどこに風船が引っかかったのか、とても不思議だが、事実を否定しても仕方がない。
ロケットの表面に引っかかり、もろい紙製の風船が、地球から月への長旅に耐え抜いたのだ。
実に驚くべきことだ。
宇宙飛行士も、さぞかし肝をつぶしたであろう。
何十万キロの旅を終えて、やっと月面に降り立つと、わけのわからない物体が出迎えてくれたのだから。
地面に横たわり、その表面には、何やら絵と文字が書かれている。
これこそ、宇宙人からのメッセージに違いない。
物体は慎重に回収され、地球へ持ち帰られた。
絵と文字の解読には、世界を代表する頭脳が動員され、いかに多くの努力が注がれたことか。
だがそれも、ある日系人科学者が一目、その物体を見るまでのことだった。
信じられないという表情で目をむき、突然彼は、腹を抱えてケラケラと笑ったのだ。
どうしたのだろうと、同僚たちが、いぶかしんだほどだ。
気が済むまで笑い、まだ目に涙を浮かべながら、日系人科学者は説明したのだ。
最初は信じられない顔をしたが、事情がのみ込めるにつれ、他の科学者たちも笑いに加わり、だが最後には、みな深刻そうにうつむいた。
この月旅行計画のために莫大な税金を払い、
『人類史上初、地球外生命体の証拠を発見!』
という大ニュースの続報をかたずをのんで待つ、国民たちのことが頭に浮かんだのだ。
だが、真相を隠しても仕方がない。
翌日、すべての真相が、全世界へむけて公表されたのだ。
この不思議な物体が、なぜか日本製の和紙によく似た成分を持つことは、化学分析の結果、すでに判明していた。
その表面には黒インクでもって、
「班長のバカ」
という子供っぽい文字とともに、ウナギそっくりの丸い目玉をひんむいた男の似顔絵が描かれていたのだ。