聖域

文字数 6,467文字


 第二次世界大戦中、艦隊基地が置かれたのであるから、N市という町が海軍にとってどれほど重要であったか。
 Nの町を写した市販の絵葉書なども、軍の命令で背景の山並みが消され、修正してあったほどだ。
 山の稜線の形を手がかりに、N市の位置を敵国が割り出しては困るからである。
 僕は、そのN市内で生まれ育った。
 ただし物心ついた時には終戦していたから、戦中世代ではない。
 当時のN市は、ひどく人口過密だった。
 戦災を受け、周囲の町々から避難民が集まったところへ、海外からの引揚者が加わり、山と海に挟まれて元より大きな町ではなく、住宅難が慢性化したのだ。
 空き地などまるでなく、道は狭く常に人だらけで、特に風がピタリとやむ夏の午後には、空気の中で真っ赤にゆで上がるような気がした。
 僕が6歳になる頃には小学校も超満員で、狭い教室に60人もの子供がひしめき、校内は常にバタバタし、喧嘩や揉め事が絶えず、もう限界に達しているのは誰が見ても明らかだった。
 どうあっても、小学校をもう一つ作る必要がある。だが、そんな土地がどこにある?
 だから市当局は、あの空母に目をつけたのだ。
 日本海軍の航空母艦で、N市の造船所で建造され、大体の形ができて海に浮かんだのは良かったが、そこで終戦を迎えた。
 まだ正式な艦名すら決まっておらず、最後まで無名の船だったようである。
 戦後は工事半ばで放置され、ただ大きな体で、港にプカプカ浮かぶだけの存在だった。
 この無名空母、この時点で大蔵省の管理下となっていたが、巨大な船体は莫大な係留費を発生させ、大蔵省は毎月かなりの金額をN市に収めており、これをゼロにしてやるどころか、毎月の賃料まで払ってやると言われれば、頭の固い役人たちも首を縦に振るしかなかったのだ。
 翌週から、空母を小学校に改造する工事が始まり、翌年の春、僕は新入生として空母小学校に入学することになった。
 鉄の階段を上がり、初めて校庭に立った瞬間のことを、僕はよく覚えている。
 校庭は元の飛行甲板だが、とてつもなく広く、アメリカ軍払い下げのバラック兵舎がずらりと並び、これが教室だった。
 こんな場所で、僕の小学生生活が始まったのだ。
 正式には『N市立第3小学校』と称したが、一般には『空母小学校』と呼ぶほうがよっぽどよく通じた。
 授業内容は普通の学校と同じだったが、空母小学校には少し特徴があった。
 意外に思えるかもしれないが、校内が非常に清潔だったのだ。
 あの混乱した時代のことでもあるし、子供のことだから弁当の食べ残しや、リンゴの芯などをそこらに放り出して帰宅するのも珍しくはなかったが、それらが翌朝にはすべてキチンと片付けられていたのである。
 いったい誰が校内の掃除をしているのか、僕たちはまったく知らなかったが、気にもしなかった。
 終戦直後の日本は治安が悪く、犯罪も多かった。
 泥棒やカッパライなどは当たり前のことで、僕の父は自転車屋をやっていたが、ひどい場合には、朝になるとその修理工具がゴッソリ盗まれていたりした。
 そんなときは、いちいち警察に届けても仕方がない。
 いくら警察が捜査しても犯人など捕まらないし、盗品も帰ってこないからである。
 そのかわり父は、黙って闇市(やみいち)へと出かけたのだ。
 闇市というのは非公認の市場街のことで、あの時代にはどこの町にだって存在した。
 普通の商店に並んで売られている商品の数など本当に少なく、種類も限られていたが、闇市へ行きさえすれば、値は張るけれど、大概どんなものでも手に入れることができた。
 なんのことはない。
 闇市へ行けば、昨夜のうちに盗まれた自転車修理の工具が、そっくりそのまま売られていたりするのである。
 父は黙ってそれを買い戻し、商売を続けた。
 こういった治安の悪い世界だから、今さらどこの家に強盗が入ろうがどうしようが、もう誰も驚かなかった。
 それがたとえ強盗殺人事件に発展したとしてもである。
 だがあの夜、N市内で一仕事したのは、ちょっとした有名人だったようだ。
 沢田某という男で、タタキ(強盗のこと)の業界ではそれなりに知られていたらしい。
 Rという名の金持ちの屋敷がN市内にはあり、そこの主人が銀行を信用していなかったのか、いくばくかの現金を書斎の金庫に保管していたが、どう聞きつけたのか、沢田はそれを狙って姿を見せたわけである。
 屋敷の住人を一人刺殺、もう一人に重傷を負わせたが、通報を受けて駆け付けた警察官に追われ、沢田はN市の南部めがけて逃走した。
 といっても南に何かの目当てがあったわけではなく、なりゆきでそうなったらしい。
 夜行列車による高飛びを警戒して、警察が駅の近く、つまりN市北部を重点的に警戒したからである。
 とはいえ深夜のこと、N港から出航する船とてない。
 ほとぼりが冷めるまで、なんとか身を隠す場所を沢田は見つけるしかなかった。
 そんな時、街灯も少ない町の中ではあるが、星々を背景に黒々と浮かび上がったのが、空母小学校の巨大な姿だったのである。
 真夜中過ぎから午前2時ごろにかけて、N市北部はサイレンの音で騒がしかったものの、南部ではいつもと同じに平和に夜が明けた。
 僕もよく覚えているが、夏休みまであと数日、この日も強い日差しだった。
 朝早く起きだしても、サッカークラブの朝練があるわけでも、テレビで早朝アニメを見るわけでもなく、あの時代の子供は本当に暇だった。
 僕も例外ではなく、教科書を数冊詰めただけの薄っぺらい布バッグを担いで家を出た。
 時代が古すぎて、革製のランドセルすらまだ普及していないのである。
 数人の友人たちと桟橋へ着くと、すでに校門は開いていた。
 校内に住み込みの管理人がいるのではないが、すぐ近所に、市から委託を受けた人物がいて、この人が毎日、決まった時間にカギを開閉したのである。
 校門からは狭い鉄製の階段を駆け上がり、僕たちは飛行甲板へとやって来た。
 授業が始まるまでの数十分間、ボール遊びをしようというのだ。 
 ところがその時、友人の一人があることに気が付いた。
「あれ? あそこのドアのカギが開いちゃってるぞ」
 視線を向けると、その通りだった。
 教室が立ち並ぶ飛行甲板へは、桟橋から長い階段を上がって、やっと着くことができる。
 恐らく迷路のように複雑な艦内に子供らが立ち入り、遊び場にして思わぬケガをしたり、迷子になったりすることを警戒したのだろう。
 甲板上に教室はあっても、それよりも下部の船内へ立ち入るためのドアやハッチはことごとく閉じられ、厳重にカギがかけられていたのだ。
「空母の内部とはどうなっているのか?」
 というのは、子供らにとってはもちろん興味の対象であり、ああだろうか、こうだろうか、と話し合ったりもしたし、スキさえあれば探検に出かけただろう。
 しかしすべてのドアには厳重に鍵がかかっており、これまでは不可能だったのである。
 それは、ありとあらゆるドアに大ぶりの南京錠が取り付けてあったからだが、その一つがこの朝、なぜか破壊され、床に落ちていたのだ。
 初めて見る光景である。
「どうしてだろう?」
 僕は、ちらりと司令塔を振り返った。
 元が空母なのだから、本当なら艦橋が置かれるはずの背の高い建造物だが、今はただの時計台でしかない。
 校内のどこからでも見えるということで、時計の設置場所として選ばれていたのだ。
 この日は本当に朝早く家を出ていたので、朝礼が始まるまで、まだあと40分以上もある。ちょっとした探検遊びなら可能だろう。
 誰言うこともなく、僕たちはそのドアの前に集まった。そしてカバンを床に置き、ノブに手をかけたのである。
 蝶つがいは多少の音を立てたが、ドアは意外なほど簡単に開くことができた。
 その向こうは何かの部屋になっていた。
 倉庫なのか、広くはないが天井だけは高い。何も置かれてはおらず、空っぽのように見えた。
「おい、あれ…」
 だが一人が気付いた。電灯もない場所なので、明かりはドアから差し込む日光きりだから、暗がりにまぎれて、すぐには見えなかったのだ。
 その子供が指さす方向を追い、目を凝らすと見ることができた。
 鉄でできた四角い物体が何やら一つ、部屋の奥、床の上にあるのだ。もちろん僕たちは近寄った。
「なんだあ、ただの鉄箱じゃないか…」
 すぐに僕は興味をなくしかけたが、
「中に何が入っているんだろう?」
 と言われてしまえば話は変わる。
 外観は本当にただの鉄箱だった。奥行きはともかく、左右の幅は2メートルもなかったから、ちょうど一般家庭にある風呂オケを思い浮かべてもらえばいい。
 ただし高さだけは風呂オケとは違い、1・5メートルほどもある。つまり子供の背丈では、箱の上面は見えないということだ。
 だから僕たちは、さっそく肩車をして、のぞき込んだ。
「危ないぜ。落ちるなよ」
「大丈夫さ…。あれ、この箱にはフタがない。空っぽかな?」
「でも水が溜まってるぜ。フチまでいっぱいにある。雨水でもたまったのかねえ」
「水の中には何もないのかい? 何か沈んでないかい?」
「んー、暗くてよく分からないや…。おや、ここに鉄パイプがあって、水面から上へ突き出して、下は水中へ伸びているみたいだぜ」
「どういうことだい?」
 その子供が身振りを交えて説明するには、3センチくらいの直径の鉄パイプが1本、水中から上を向いて突き出しているのだそうだ。
 まるで『すいとんの術』で水に潜る忍者の竹筒みたいだが、誰も手を触れていないのに、そのパイプが何やらウネウネと動いているらしい。
「鉄パイプが動くって、風でも吹いているのかい?」
「まさか…。こんな箱の中で水が流れているはずもないし」
「そのパイプ、ちょっと触ってみろよ」
「えっ、怖いよ…。どうしようかな…」
 しかし彼は、結局誘惑に負けてしまった。それが自分の人生を大きく変えたと後で後悔していたが、子供が向こう見ずなのは、いつの時代も変わらない…。
 結論だけを述べよう。そのパイプの下には本当に人間がおり、しかも強盗殺人犯、沢田その人だったのである。
 警察に追われ、こんなところに身を潜めていたのだ。
 深夜の小学校に人けはない。良い隠れ場所と思ったのかもしれないが、この小学校が深夜には、実は人間以外の物によって支配されているのだとは、沢田は全く知らなかったのだ。
 沢田だけでなく、誰一人知らないことであった。
 毎日毎日、朝になると校内にはゴミ一つなく、異様に清潔であることに誰も疑問を持たなかったとは先に書いたが、その答えはこんなところにあったのだ。
 戦争中、この空母は建造工事が進められ、昼も夜も作業員の姿が絶えることはなかっただろう。
 しかしN市によって借り上げられ、小学校へと変わる前の数年間は、誰一人立ち入ることのない場所だったのだ。
 だから”彼ら”にとっては、身を潜めて隠れ、繁殖を行うためのまたとない聖域であったろう。
 それはともかく、水中から忍者の竹筒のごとく突き出していた鉄パイプを、とうとう僕たちは力任せに引き抜いたのだ。
 子供の行動力、向こう見ずさを甘く見てはいけない。
 パイプは、ユラユラと動く割には意外と重く、多少の力が必要ではあった。
 結局そのパイプは長さが30センチに満たないと分かり、ついには全長が水面上へ現れたが、最初はまず、
『誰がどういうつもりで、鉄パイプの下に肌色のゴム袋なんぞを結びつけたのか』
 と思えた。
 まったく大きなゴム袋である。多少の弾力があり、ところどころシワも寄っており、まるで大人と同じぐらいのサイズがある。
「よーいしょ」
 ついに僕たちは、鉄パイプと共にそのゴム袋らしきものを引っ張り出し、床に落とすことに成功したのだ。
 バシャン、バチン。
 水しぶきとともに、はしたない大きな音がした。
 しかしそれは、実はゴム袋なんぞではなかったのである。
 袋の中身も、ただの水ではなかった。重くはないが、中身も袋と共に引っ張り出され、床に落ちた。
 数秒の間、袋はまるで生きているかのようにヌメヌメとうごめいていたが、どこかに穴が開いていたらしい。ついに中身たちはいっせいに逃げ出し、床の上を一目散。
 それこそクモの子を散らすように逃走を始めたのだ。
 いったい何百匹、あるいは何千匹いたのか。あんなものを見るのは、僕もこの時が初めてだった。
 思うに、昨夜はこういうことが起こったのだ。
 警察に追われ、強盗殺人犯の沢田は、深夜の空母小学校の中へ逃げ込んだ。
 巨大な無人の空間である。とりあえず警察の目からは逃れることができた。
 持っていたロウソクに火をつけ(奪われた紙幣と共に、これは後に鉄箱の底から発見された)、沢田は船内の様子を探った。
 陸地から見とがめられては困るので、電灯のスイッチを入れることができなかったのである。
 24時間はここに潜んでいるつもりだったのだろうが、明日も学校があるから、教室以外のどこかに隠れ場所を見つけなくてはならない。
 そこで手近なドアを見つけたが、南京錠で鍵がかかっている。
 しかし問題ではない。強盗侵入を行うため、タタキの七つ道具の中に工具が入っているのだ。
 そのドアの向こうに、長く人の立ち入ったことのない部屋を見つけ、沢田はここに身を落ち着けることに決めた。
 24時間待ち、警察の警戒がゆるんだころを見計らってN市から脱出すればよい。
 ところが沢田は知らなかった。夢にも思っていなかった。
 疲れた体を床に横たえ、ウトウトしていたところだったかもしれない。
 体の上をはいまわる何百もの細かな足の感触。
 その意味に気づき、沢田は雷に打たれたように飛び上がった。
 血走った目で悲鳴を上げ、とっさに逃げ道を探るが、部屋の出口あたりにはさらに大群が待ち構えており、とても通り抜けることはできないし、他に逃げ道もない。
 しかも沢田の体にまとわりついている何十匹かは、すでに皮膚を咬み破ろうとしているのだ。
「そうだ。何のためにあるのか知らねえが、あそこのでかい鉄製の水槽の中に…」
 何に使うものか、沢田の仕事道具の中に、長さ30センチほどの鉄パイプがあった。
「あいつらは海岸に住み、泳ぎは得意だが潜水はできない…」
 漁師の子として生まれた沢田には、多少の知識があったのである。大あわてで荷物をかき集め、鉄水槽のへりを登り、水中へと身をおどらせた。
 もちろん、鉄パイプを口に当てることも忘れない。
 水に入ると、沢田の体にまとわりついていた連中は息苦しくなり、すぐに離れていった。
「へへへ、まるで忍者の『すいとんの術』みたいだが、我ながらいい考えだったぜ…」
 だが沢田は気が付かなかったのだ。なるほど、”彼ら”は潜水はできない。
 しかし水面を泳ぐのは非常にうまいのだ。鉄製水槽の表面をはい上がり、水面を泳ぎ渡り、沢田が呼吸口として使っている鉄パイプの中へ入り込むなど、造作もない。
 1匹2匹ではなく、10匹20匹でもなく、恐らくは100匹単位でパイプを通り、沢田の口の中へと侵入したのだ。
 何が侵入したのかって?
 もちろんフナムシである。
 体長は5センチといったところ。長いひげと長いシッポ。
 昔の装甲車のような丸みのある体に、ゲジゲジのような14本の足。
 読者の皆さんも、海岸などで見たことがおありであろう。岩やコンクリートの上をサッと走るあれである。
 人は誰も知らなかったことだ。フナムシたちは昼は船底深くに潜み、うまく姿を隠していたが、夜間は船全体を根城としていたのだ。
 昼間のうちに人間を襲ったりしないだけの知恵は、カニの親戚のくせして備えていたのだろう。
 だが夜は違う。夜間、船の内部はフナムシの王国だった。
 沢田は、そこへノコノコと現れたのだ。何千匹というフナムシの群れに襲われ、体を内側から食われて、沢田は死んだのである。
 僕たちが肌色のゴム袋と思い、無邪気に水から引き上げたのは、食べ残された沢田の皮膚であった。
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