第3話ー3.

文字数 2,017文字

 何とか平常心を取り戻し、いざ貸してもらった消しゴムを使おうとして気づいた。その消しゴムもまだ真っ(さら)だということに。どの角もしっかり尖ったまんま、真っ白だ。この新品の消しゴムの角を、僕が最初に使ってしまってもいいものだろうか。しかも、たかが新学期の連絡事項の漢字の書き間違い程度のことで。

 僕は消しゴムを持ったまま、しばし固まった。
 その様子に気づいたらしい菜摘ちゃんが、また囁くようにして声を掛けてきた。

「どうしたの?」

「やっぱりいいよ」

 僕は今借りたばかりの消しゴムを差し出す。



「どうして?」

「だって、この消しゴム、まだ真っ新だし、何か、悪いよ」

「そんなのいいよ。気にしないで。どうせいつかは使うんだから」

「でも……」

 菜摘ちゃんは全く受け取ろうとする素振りを見せない。

「早く使っちゃって。もうホームルーム終わっちゃうよ」

「あ、ああ。うん」

 何て優柔不断な男だろう。
 僕は自己嫌悪を感じながらも、なるべく消しゴムにダメージを与えないよう、優しく優しくノートの表面を撫でるかのようにして間違った文字を消した。
 案の定、消しゴムの角が黒くなってしまったので、こっそりとノートの何も書いていない場所でこすって黒い部分を取り除いた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 ああ、何て平和な時間だろう。
 これは途轍もなく幸せな学校生活が送れる予感……。

 そのはずだったのに——。
 
 そんな予感は一瞬で吹き飛んだ。

 僕はその、頬に突き刺さるような視線の痛みを感じた時点で悟っていた。そっちを見てはいけない。そう自分に言い聞かせた。なのに、まるで何かに操られているかのように、僕は廊下の方に顔を向けた。

 案の定、少しだけ開かれた窓の隙間からこちらを睨みつける遥香の視線とぶつかった。その瞬間、平和な光と温もりに包まれていたはずの世界には暗雲が立ち込め、光は遮られ、雨雪混じりの暴風が吹き荒れ始めた。

 いや。違うか。この教室にいる限りは安全だ。教室から一歩踏み出した瞬間、僕を待ち受けるのは——。

 ホームルームが終わらなけばいい。でなくても、長引いて、遥香が先に帰ってしまえばいい。
 神様——。

 神も仏も無いとはこのことか。
 ほどなくして担任教師はホームルーム、つまり本日の予定は全て終了したことを告げた。

 起立。礼。

 着席の号令はかからず、生徒たちはそれぞれに引き上げ始める。

「仲多くん、またね」

 僕の天使、菜摘ちゃんも残像が残りそうなほど輝く笑顔を残して立ち去ってしまった。
 ああ、待ってよ、菜摘ちゃん……。
 呼び止めたいのはやまやまだったけれど、彼女まで巻き込んでしまうわけにはいかない。
 僕は力なく、固い椅子に腰を下ろした。

 さよなら、菜摘ちゃん。短い間だったけど、いい夢が見れて嬉しかったよ。

 しばらく立ち上がれず、気づいた時には教室には僕一人が残されていた。
 そこへ遥香がやって来る。
 僕は俯き加減に反対側に顔を向け、遥香のことは見ないようにしていた。

「奏多」

 僕の名を呼ぶ遥香の声は、想像に反してとても穏やかなものだった。
 遥香はもう僕の席のすぐ側、真正面に立っていた。

「な、なに?」

 そう言いながら恐る恐る顔を遥香の方に向けたものの、顔は見られない。お腹のあたりから胸のところまで視線を上げるのが精いっぱいだった。ただ胸のあたりに視線があっただけで胸を見ていたわけではない。けれど、遥香はそこに反応した。

「どこ見てるのよ」

「べ、別に、何も見てないよ」

「ま、いいけど。奏多、まだ帰らないの?」

「あ、か、帰るよ、もちろん」

「みんな帰っちゃったのに、一人で何しているのよ?」

 遥香の口調は穏やかさをキープしている。
 もしかして取り越し苦労だったのか。いつも他の女子と仲良くしているところを見られて遥香に詰められるから、過度に怯えてしまっていただけなのか。

 うん。そうだ。冷静に考えてみれば、遥香から文句を言われるようなことを僕は何一つしていない。ただ菜摘ちゃんから消しゴムを借りただけじゃないか。それだって僕が貸してくれと言ったわけでもない。

 菜摘ちゃんから仕掛けられたドッキリでだらしない表情を晒してしまった自覚があったがために、勝手に遥香に対する後ろめたさを感じてしまっていたけれど、遥香があの場面を見ていた可能性は低いはずだ。仮に見られていたとしても、僕に何か悪い点があっただろうか。あのドッキリを、ただでさえ可愛い菜摘ちゃんから、あんなに可愛く仕掛けれられたなら、普通の男ならだれでも表情筋がスライム化しておかしくないはず。そうだ。僕は何も悪くない。

「さて。帰ろっかな」

 僕はわざとらしくそう言いながら席を立ち、鞄を持った。

「じゃあ、遥香。僕は帰るから。部活だろ? 頑張ってな」

 台本を読むかのように早口で遥香にそう告げ、僕は立ち去ろうとした。
 けれど——。
 やはり甘かった。
 僕は制服の肘のあたりを遥香に摘ままれて、動けなかった。
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