第4話ー3.
文字数 3,368文字
「山って?」
「昔住んでたあたりの小さな山なんだけど、星を観ながらキャンプしようと思って行ったら途中で迷子になっている女の子を助けることになっちゃったんだよ」
「その女の子って?」
「小学校の一年生か二年生くらいだと思うんだけど」
昔住んでたあたりの山?
小学校低学年の迷子の女の子?
「へ、へえ。そうなんだ……」
「どうかした?」
今度は奏多の方がわたしの顔を覗き込むようにしてきたけれど、わたしの方が視線を合わせられなかった。
「ううん。何でもないよ」
何でもない。何でもなくないはずがない。
「で、どういう話?」
「二回目の三連休の時はちょっと天気が怪しかったなんだけど、どうしても行ってみたくなってさ」
奏多の言う天気は普通の感覚の転機とはズレがあることがある。多くの人が晴れていると感じる程度の薄曇りだったとしても、奏多のモノサシでは悪天候だということがままある。星の観測に影響するからだ。現にその三連休は安定した晴れの天気が続いたというのが一般的な認識のはずだった。
「それって天文部としての活動なの?」
「いや。まあ星を観ることが天文部の活動だって言えばそうなんだけど、正式な部活動ではなくて個人的に一人で行っただけ。天体観測ってほどでもなくって、ただ星を眺めてほうっとしたかっただけなんだ」
「ふうん……」
わたしは先を促したつもりだった。
「自転車に一人用のテントを積んで行ったんだけど、思ったよりも時間がかかってさ、朝出たのに着いたらもう夕方近くになってて、ちょっと後悔したよ」
別に面白い話でもないのに、奏多は自分で言って自分で笑った。
「そんなに時間をかけて、いったい何処まで行ったのよ?」
奏多が部活動としてだけではなく個人的にも、学校近くの山にテントを持って天体観測に行く話は何度か聞いたことがあった。
「小学校の低学年の頃まで住んでた町なんだよ。母方の田舎で、けっこう自然が豊かなところだよ。街の中心部から少し外れると田んぼや畑が広がっていて、山も近くて。夜になると星が綺麗なんだよ」
わたしは訳も分からず鼓動が速まるのを感じていた。
何だろう、この感じ?
そんなはずはないのに、何故だか奏多がこれから何を話すのかを知っているような、そんな気がする。そんなはず、あるわけないのに。
頭の中を何かが猛スピードで駆け巡る。あまりも猛スピード過ぎて、それが何なのかは掴めない。
「何年振りかでそこに行ってみたくなったんだ」
登山道の入り口に自転車を置いて、陽が傾きかけた山道を最低限のキャンプ道具一式を担いで歩いたらしい。
「暫く歩いて山道らしくなったあたりで、声が聞こえたような気がしたんだ。でもはっきりとは聞き取れなくて、そもそも人の声なのか鳥とか動物の鳴き声なのか、それとも風の音なのかも判然とはしなかった。立ち止まって耳を澄ませてみたけど、何も聞こえない。気のせいかなと思ってまた歩き始めた。そうしたら、少し歩いたところでまた聞こえたんだ。また立ち止まってみると今度は聞こえる。それも子どもの声みたいだった。だから呼び掛けてみたんだよ。おーいって」
おーい?
「誰かいるのぉって」
——誰かいるのぉ?
そう叫ぶ声が聞こえた気がした。
「そしたら返事があったんだよ」
——助けてぇ。
「助けてぇって、女の子の声で」
——助けて。
頭の中に声が響いた。心の中かもしれない。
涙混じりに助けを求める声——。
それはわたしの声だ。
——助けて。
傘を叩く雨の音が大きくなったような気がして、ふと隣を見ると奏多がこっちを見ていた。
心臓が跳ねた。
いつもならすぐに照れて視線を外すはずの奏多は、じっとわたしを見たままだ。
思わず、誰?って問いかけそうになった。
「な、何?」
「聞いてた?」
「も、もちろん、聞いてるよ。どうしてそんなこと言うの?」
「いや。何か様子が変な気がしたから」
「そんなことないよ」
「本当に?」
「本当だよ。気のせいだってば」
「だったらいいんだけど」
様子が変だった?
何で?
そんなはずはない。だって理由がないもの。
わたしは自分に言い聞かせるようにして一度姿勢を正し、今度ははっきりと奏多に先を促した。
「で、どうなったの?」
「ああ、ちゃんと声が確認できてからは早かったんだ。歩いていた道から外れて少し下ったところで女の子が一人、座り込んで泣いていたんだ。どうやら別のところで足を滑らせて道を外れてしまって、そのまま迷っちゃったみたい。暫く一人で歩き回ったみたいだったけど、運よく登山道のすぐ近くにいたから声が聞こえたんだね。僕がそばまで行ったときは安心したせいか泣いてばっかりで、何を聞いてもよく分からなかったんだけど、幸い怪我も擦り傷程度みたいだったから、とにかく暗くなる前に連れて下りなきゃって思って。その子を負ぶって山を下りて、近くの交番まで行ったらちょうど大人が集まってて、その子の捜索を始めようとしていたところだったらしくて。後のことはお巡りさんに任せてすぐに山に戻ったんだけど」
「嘘でしょ?」
咄嗟に言ってしまった。
「何で? どうして嘘だって思うの?」
「あ、いや。ごめん。違うの。ちょっと吃驚 しただけ」
「吃驚?」
「嘘だなんて思ってなくても驚いた時とか、つい嘘って言っちゃうことあるでしょ」
「そんなに吃驚するようなことかな」
「だって奏多が通りかからなかったら、どうなっていたか分からないじゃない」
「大人の人たちも捜し始めるところだったみたいだし、どっちみちすぐに見つかったとは思うけど」
「でも、その時間、奏多が来てくれるまで、その子はすごく不安だったと思うよ。怖かっただろうし。だから少しでも早く見つかってよかったよ」
「まぁそうかもね。でも遥香、やっぱり何か、顔色が悪そうだけど、大丈夫?」
また奏多が心配そうに顔を覗き込んで来た。
慌てて顔を背ける。
「大丈夫だってば」
完全にいつもとは立場が逆転している感じ。何とか誤魔化して形勢を立て直さなきゃ。
けれど、相変わらず頭の中は訳の分からないものが猛スピードで渦巻いているし、心臓は痛いくらいに鼓動を打っている。それなのに血の巡りは悪くて、身体が冷たくなるのを感じていた。
大丈夫。ちゃんと話を聞けば大丈夫。
「お手柄だったね。その子の名前とか聞いたりしたの?」
「それがさ、負ぶって歩きながら名前も聞いたりしたんだけど、よく聞き取れなくて。ハルコって言ったような気がしたから、適当にハルちゃんって呼んで話し掛けてたんだけど」
ハルコ……。
ハルちゃん……。
奏多……。
カンタ……。
「そういう時って交番で連絡先を聞かれたりしないの?」
「何も聞かれなかったよ。ていうか、早く山に戻りたくて、大人たちが良かった良かったとか言い合っている間に隙を見て黙っていなくなっちゃったからさ」
「その後、また山に行ったんだ?」
「そりゃそうだよ。わざわざ遠くまで自転車で行ったし、何よりその子を見つけた場所に荷物を置きっ放しだったからね」
「そうか。……そうだよね」
「でも不思議なんだよ」
「何が?」
「次の日、山から下りて帰る時、交番の前を通った時にお巡りさんと目が合ったからさ、昨日の女の子大丈夫でしたかって訊いたらさ」
奏多はそこで言葉を切って、またこっちを見た。
「何?」
「そしたら、そんな女の子は知らないって言うんだよ」
「嘘……」
そんなはずはない。
いや。でも、もしかしたら……。
「これは確かに吃驚するよな。でも本当だよ。前の日のお巡りさんの名前も憶えてたからさ、武内さんにお世話になったんですけどって言ったら」
「言ったら?」
「そんな警官はいませんって」
「え?」
「怖くない?」
「それはさすがに変だよ……」
「だろ? まあ、名前は記憶違いって可能性もあるんだけどさ、何かの間違いじゃありませんかって食い下がったんだけど、逆に僕の方がおかしい奴みたいな空気になっちゃったから途中で諦めて、お騒がせしましたって言って帰って来ちゃった。どう思う?」
わたしが急に足を止めた。奏多は急には止まれず少し前にまで行ってしまって、わたしは雨に濡れた。
慌てて戻りながら傘を差し出してくれる奏多。
奏多が何かを言ったようだったけれど、傘を打つ雨の音に包まれたわたしの耳にその言葉は届かなかった。
(第4話「DVD」終)
「昔住んでたあたりの小さな山なんだけど、星を観ながらキャンプしようと思って行ったら途中で迷子になっている女の子を助けることになっちゃったんだよ」
「その女の子って?」
「小学校の一年生か二年生くらいだと思うんだけど」
昔住んでたあたりの山?
小学校低学年の迷子の女の子?
「へ、へえ。そうなんだ……」
「どうかした?」
今度は奏多の方がわたしの顔を覗き込むようにしてきたけれど、わたしの方が視線を合わせられなかった。
「ううん。何でもないよ」
何でもない。何でもなくないはずがない。
「で、どういう話?」
「二回目の三連休の時はちょっと天気が怪しかったなんだけど、どうしても行ってみたくなってさ」
奏多の言う天気は普通の感覚の転機とはズレがあることがある。多くの人が晴れていると感じる程度の薄曇りだったとしても、奏多のモノサシでは悪天候だということがままある。星の観測に影響するからだ。現にその三連休は安定した晴れの天気が続いたというのが一般的な認識のはずだった。
「それって天文部としての活動なの?」
「いや。まあ星を観ることが天文部の活動だって言えばそうなんだけど、正式な部活動ではなくて個人的に一人で行っただけ。天体観測ってほどでもなくって、ただ星を眺めてほうっとしたかっただけなんだ」
「ふうん……」
わたしは先を促したつもりだった。
「自転車に一人用のテントを積んで行ったんだけど、思ったよりも時間がかかってさ、朝出たのに着いたらもう夕方近くになってて、ちょっと後悔したよ」
別に面白い話でもないのに、奏多は自分で言って自分で笑った。
「そんなに時間をかけて、いったい何処まで行ったのよ?」
奏多が部活動としてだけではなく個人的にも、学校近くの山にテントを持って天体観測に行く話は何度か聞いたことがあった。
「小学校の低学年の頃まで住んでた町なんだよ。母方の田舎で、けっこう自然が豊かなところだよ。街の中心部から少し外れると田んぼや畑が広がっていて、山も近くて。夜になると星が綺麗なんだよ」
わたしは訳も分からず鼓動が速まるのを感じていた。
何だろう、この感じ?
そんなはずはないのに、何故だか奏多がこれから何を話すのかを知っているような、そんな気がする。そんなはず、あるわけないのに。
頭の中を何かが猛スピードで駆け巡る。あまりも猛スピード過ぎて、それが何なのかは掴めない。
「何年振りかでそこに行ってみたくなったんだ」
登山道の入り口に自転車を置いて、陽が傾きかけた山道を最低限のキャンプ道具一式を担いで歩いたらしい。
「暫く歩いて山道らしくなったあたりで、声が聞こえたような気がしたんだ。でもはっきりとは聞き取れなくて、そもそも人の声なのか鳥とか動物の鳴き声なのか、それとも風の音なのかも判然とはしなかった。立ち止まって耳を澄ませてみたけど、何も聞こえない。気のせいかなと思ってまた歩き始めた。そうしたら、少し歩いたところでまた聞こえたんだ。また立ち止まってみると今度は聞こえる。それも子どもの声みたいだった。だから呼び掛けてみたんだよ。おーいって」
おーい?
「誰かいるのぉって」
——誰かいるのぉ?
そう叫ぶ声が聞こえた気がした。
「そしたら返事があったんだよ」
——助けてぇ。
「助けてぇって、女の子の声で」
——助けて。
頭の中に声が響いた。心の中かもしれない。
涙混じりに助けを求める声——。
それはわたしの声だ。
——助けて。
傘を叩く雨の音が大きくなったような気がして、ふと隣を見ると奏多がこっちを見ていた。
心臓が跳ねた。
いつもならすぐに照れて視線を外すはずの奏多は、じっとわたしを見たままだ。
思わず、誰?って問いかけそうになった。
「な、何?」
「聞いてた?」
「も、もちろん、聞いてるよ。どうしてそんなこと言うの?」
「いや。何か様子が変な気がしたから」
「そんなことないよ」
「本当に?」
「本当だよ。気のせいだってば」
「だったらいいんだけど」
様子が変だった?
何で?
そんなはずはない。だって理由がないもの。
わたしは自分に言い聞かせるようにして一度姿勢を正し、今度ははっきりと奏多に先を促した。
「で、どうなったの?」
「ああ、ちゃんと声が確認できてからは早かったんだ。歩いていた道から外れて少し下ったところで女の子が一人、座り込んで泣いていたんだ。どうやら別のところで足を滑らせて道を外れてしまって、そのまま迷っちゃったみたい。暫く一人で歩き回ったみたいだったけど、運よく登山道のすぐ近くにいたから声が聞こえたんだね。僕がそばまで行ったときは安心したせいか泣いてばっかりで、何を聞いてもよく分からなかったんだけど、幸い怪我も擦り傷程度みたいだったから、とにかく暗くなる前に連れて下りなきゃって思って。その子を負ぶって山を下りて、近くの交番まで行ったらちょうど大人が集まってて、その子の捜索を始めようとしていたところだったらしくて。後のことはお巡りさんに任せてすぐに山に戻ったんだけど」
「嘘でしょ?」
咄嗟に言ってしまった。
「何で? どうして嘘だって思うの?」
「あ、いや。ごめん。違うの。ちょっと
「吃驚?」
「嘘だなんて思ってなくても驚いた時とか、つい嘘って言っちゃうことあるでしょ」
「そんなに吃驚するようなことかな」
「だって奏多が通りかからなかったら、どうなっていたか分からないじゃない」
「大人の人たちも捜し始めるところだったみたいだし、どっちみちすぐに見つかったとは思うけど」
「でも、その時間、奏多が来てくれるまで、その子はすごく不安だったと思うよ。怖かっただろうし。だから少しでも早く見つかってよかったよ」
「まぁそうかもね。でも遥香、やっぱり何か、顔色が悪そうだけど、大丈夫?」
また奏多が心配そうに顔を覗き込んで来た。
慌てて顔を背ける。
「大丈夫だってば」
完全にいつもとは立場が逆転している感じ。何とか誤魔化して形勢を立て直さなきゃ。
けれど、相変わらず頭の中は訳の分からないものが猛スピードで渦巻いているし、心臓は痛いくらいに鼓動を打っている。それなのに血の巡りは悪くて、身体が冷たくなるのを感じていた。
大丈夫。ちゃんと話を聞けば大丈夫。
「お手柄だったね。その子の名前とか聞いたりしたの?」
「それがさ、負ぶって歩きながら名前も聞いたりしたんだけど、よく聞き取れなくて。ハルコって言ったような気がしたから、適当にハルちゃんって呼んで話し掛けてたんだけど」
ハルコ……。
ハルちゃん……。
奏多……。
カンタ……。
「そういう時って交番で連絡先を聞かれたりしないの?」
「何も聞かれなかったよ。ていうか、早く山に戻りたくて、大人たちが良かった良かったとか言い合っている間に隙を見て黙っていなくなっちゃったからさ」
「その後、また山に行ったんだ?」
「そりゃそうだよ。わざわざ遠くまで自転車で行ったし、何よりその子を見つけた場所に荷物を置きっ放しだったからね」
「そうか。……そうだよね」
「でも不思議なんだよ」
「何が?」
「次の日、山から下りて帰る時、交番の前を通った時にお巡りさんと目が合ったからさ、昨日の女の子大丈夫でしたかって訊いたらさ」
奏多はそこで言葉を切って、またこっちを見た。
「何?」
「そしたら、そんな女の子は知らないって言うんだよ」
「嘘……」
そんなはずはない。
いや。でも、もしかしたら……。
「これは確かに吃驚するよな。でも本当だよ。前の日のお巡りさんの名前も憶えてたからさ、武内さんにお世話になったんですけどって言ったら」
「言ったら?」
「そんな警官はいませんって」
「え?」
「怖くない?」
「それはさすがに変だよ……」
「だろ? まあ、名前は記憶違いって可能性もあるんだけどさ、何かの間違いじゃありませんかって食い下がったんだけど、逆に僕の方がおかしい奴みたいな空気になっちゃったから途中で諦めて、お騒がせしましたって言って帰って来ちゃった。どう思う?」
わたしが急に足を止めた。奏多は急には止まれず少し前にまで行ってしまって、わたしは雨に濡れた。
慌てて戻りながら傘を差し出してくれる奏多。
奏多が何かを言ったようだったけれど、傘を打つ雨の音に包まれたわたしの耳にその言葉は届かなかった。
(第4話「DVD」終)