第1話ー3.
文字数 1,485文字
「九槍さん、おはよう」
菜摘ちゃんに対する遥香の言葉は、やけに事務的だった。対して菜摘ちゃんの方は友好的に見えた。
「遥香ちゃん、おはよ。やだな、菜摘って呼んでよ」
「
二人は知り合いのようだ。
だが二人の言葉は、その字面からは読み取れない棘 を纏っている。こんな言葉のやり取りの間に立っていたら、全身血塗れになってしまうことだろう。
遥香と菜摘ちゃん。体格は五分だ。愛らしさや美しさでも二人はいずれも引けを取らない。けれど、全身から醸し出す威圧感では遥香の方が何万倍も勝っていた。菜摘ちゃんは太陽に呑み込まれそうな月、あるいは肉食獣の恐怖を嗅ぎ取ったハムスターのようだ。
ごめんね、菜摘ちゃん。守ってあげたいのはやまやまだけど、僕だって対抗する術は持ち合わせていないんだ。ここは勇気ある撤退が唯一の選択肢だよ。きっとまたチャンスは来る。辛くても、ここは引くんだ。
そんな僕の熱い思いが通じたのか、菜摘ちゃんは最後の力を振り絞るようにして儚げな笑みを浮かべた。
「あ、うん、そうね。そうだった。じゃあ仲多くん、また後で。教室でね」
溶けかけた雪だるまのような幽 けき笑顔が胸を締め付ける。
「あ、うん。また」
菜摘ちゃんに右手を上げて応じると、再び弛みかけた頬が弛み切る前に遥香につねられた。
「痛 っ!」
「また、そんな顔して! ちょっとこっちに来なさいよ」
僕は遥香に腕を引かれるまま、誰もいない下駄箱の影まで連行された。
「どうするんだよ、こんなところに来て。そろそろ教室に行かなきゃいけない時間だぞ」
そんな僕の言葉は虚しくも華麗にスルーされた。
「すぐ女子にデレデレするんだから……。わたし、全部見てたんだからね!」
「さっきのは仕方ないだろ。僕が受け止めないとあの子、倒れて怪我してたかもしれないじゃないか」
「助けた後、すぐに離れればいいでしょ」
「だって……」
遥香は一拍置いて、意地の悪い目つきで言った。
「いい匂い、したんでしょ?」
僕は黙って小さく頷いた。そうだ。僕は無駄に素直な人間なんだ。
「彼女、柔らかかった?」
今度はもう少し大きく頷いたら、脛 を思い切り蹴り上げられた。あまりの痛さに比喩ではなく飛び上がった。
「痛えっ! 何するんだよ。ほんとに怪我したらどうするんだよ」
「ばか」
今までこっちを睨みつけていた遥香は、そう言って俯いた。
前髪が彼女の表情を隠す。
「な、なんだよ。どうしたんだよ」
そのまま僕に近づいて来るので、また何かしら攻撃されるのではないかと身構えた。
ところが、遥香は顔を上げることなく、頭を僕の胸に押しつけるようにして立ち止まった。先ほどまでの荒れ狂う太陽コロナのようなオーラはすっかり影を潜めている。
「は、はるか?」
「わたし、4組だよ……」
「え?」
「また奏多と同じクラスになれなくて、わたし悲しかったんだから……」
僕は遥香の肩に置きかけた両手を、やっぱり置けなくて、宙に漂わせるしかなかった。
「それなのに、奏多は他の女の子と楽しそうにしてて……わたし、余計に悲しくなっちゃったんだから……」
「ご、ごめん……そんなつもりはなかったんだけど、さ……」
「だめだよ」
「な、何が?」
「わたし以外の女の子と、楽しそうにしちゃ——だめ」
そこで遥香はようやく顔を上げ、夕日に染まる乙女のような表情で僕を見た。
次の言葉はほとんど声にはなっていなかったけれど、愛らしい唇の動きだけでも、しっかりと僕の心に突き刺さった。
「……わたしだけ、だよ」
(第1話「クラス替え」終)
菜摘ちゃんに対する遥香の言葉は、やけに事務的だった。対して菜摘ちゃんの方は友好的に見えた。
「遥香ちゃん、おはよ。やだな、菜摘って呼んでよ」
「
九槍
さん、そろそろ時間だから、教室へ行く前にお手洗いにでも行っといた方がいいんじゃないかしら」二人は知り合いのようだ。
だが二人の言葉は、その字面からは読み取れない
遥香と菜摘ちゃん。体格は五分だ。愛らしさや美しさでも二人はいずれも引けを取らない。けれど、全身から醸し出す威圧感では遥香の方が何万倍も勝っていた。菜摘ちゃんは太陽に呑み込まれそうな月、あるいは肉食獣の恐怖を嗅ぎ取ったハムスターのようだ。
ごめんね、菜摘ちゃん。守ってあげたいのはやまやまだけど、僕だって対抗する術は持ち合わせていないんだ。ここは勇気ある撤退が唯一の選択肢だよ。きっとまたチャンスは来る。辛くても、ここは引くんだ。
そんな僕の熱い思いが通じたのか、菜摘ちゃんは最後の力を振り絞るようにして儚げな笑みを浮かべた。
「あ、うん、そうね。そうだった。じゃあ仲多くん、また後で。教室でね」
溶けかけた雪だるまのような
「あ、うん。また」
菜摘ちゃんに右手を上げて応じると、再び弛みかけた頬が弛み切る前に遥香につねられた。
「
「また、そんな顔して! ちょっとこっちに来なさいよ」
僕は遥香に腕を引かれるまま、誰もいない下駄箱の影まで連行された。
「どうするんだよ、こんなところに来て。そろそろ教室に行かなきゃいけない時間だぞ」
そんな僕の言葉は虚しくも華麗にスルーされた。
「すぐ女子にデレデレするんだから……。わたし、全部見てたんだからね!」
「さっきのは仕方ないだろ。僕が受け止めないとあの子、倒れて怪我してたかもしれないじゃないか」
「助けた後、すぐに離れればいいでしょ」
「だって……」
遥香は一拍置いて、意地の悪い目つきで言った。
「いい匂い、したんでしょ?」
僕は黙って小さく頷いた。そうだ。僕は無駄に素直な人間なんだ。
「彼女、柔らかかった?」
今度はもう少し大きく頷いたら、
「痛えっ! 何するんだよ。ほんとに怪我したらどうするんだよ」
「ばか」
今までこっちを睨みつけていた遥香は、そう言って俯いた。
前髪が彼女の表情を隠す。
「な、なんだよ。どうしたんだよ」
そのまま僕に近づいて来るので、また何かしら攻撃されるのではないかと身構えた。
ところが、遥香は顔を上げることなく、頭を僕の胸に押しつけるようにして立ち止まった。先ほどまでの荒れ狂う太陽コロナのようなオーラはすっかり影を潜めている。
「は、はるか?」
「わたし、4組だよ……」
「え?」
「また奏多と同じクラスになれなくて、わたし悲しかったんだから……」
僕は遥香の肩に置きかけた両手を、やっぱり置けなくて、宙に漂わせるしかなかった。
「それなのに、奏多は他の女の子と楽しそうにしてて……わたし、余計に悲しくなっちゃったんだから……」
「ご、ごめん……そんなつもりはなかったんだけど、さ……」
「だめだよ」
「な、何が?」
「わたし以外の女の子と、楽しそうにしちゃ——だめ」
そこで遥香はようやく顔を上げ、夕日に染まる乙女のような表情で僕を見た。
次の言葉はほとんど声にはなっていなかったけれど、愛らしい唇の動きだけでも、しっかりと僕の心に突き刺さった。
「……わたしだけ、だよ」
(第1話「クラス替え」終)