第4話ー1.

文字数 1,924文字

 奏多と初めての相合傘は続いている。

 奏多が言うところの空を埋め尽くした黒い羊の群れは相変わらずで、雨足は少し落ち着いたものの止む気配はない。

 相合傘を堪能するには好ましい。晴ればかりが必ずしも「良い天気」だとは限らない好事例だ。

 ただし、この雨を「黒い羊の何かが落ちてきている」と考え始めるとやっぱり良い気持ちはしないので、羊のことは忘れようと思った。

 先に見える小さな交差点の歩行者用信号が赤になった。
 奏多の歩くスピードが遅くなるのが分かった。きっと本人は無意識だ。そして横断歩道までまだ5メートルはあろうかという位置で足が止まった。それはほぼ予想通りの場所だった。

 なるべく顔は前に向けたまま、奏多の様子を伺う。彼は交差点から視線を逸らすように、わたしとは反対側のどこか一点を見つめていた。

 前に聞いたことがある。
 休日、街で偶然奏多を見つけた時のことだ。
 その時の彼も、交差点で信号待ちをしている人の群れから数メートル下がった場所に立っていた。信号待ちにしては交差点までの距離があり過ぎる。けれど、信号待ち以外にはそこに立っている理由が思い浮かばない。強いて言えば誰かと待ち合わせをしているといったところか。

 わたしはとりあえず奏多がいたことが嬉しくて声をかけた。何してんのよと。奏多は交差点を渡った先の何処かへ買い物に行く途中だというようなことを言ったはず。詳しく覚えていないのは、どうしてそんな離れた場所で信号待ちをしているのかということの方が気になったからだ。

 質問をし直すと、奏多は素直に答えてくれた。小学三年の時、交通事故を目撃したことがあるのだと。

 交差点の中で車同士が接触し、弾き飛ばされた一台が信号待ちをしていた人の中に突っ込んだ。幸い奏多自身はまだその交差点に向かって歩いているところだったので難を逃れたが、ほんの数メートルしか離れていない場所で事故の瞬間を目の当たりにした。飛んで来た車両の下敷きになって痛い痛いと泣いていた女性の声が耳から離れないと言っていた。

 目撃してしまった光景も壮絶に衝撃的だったものの、それよりも、あとほんの数秒、自分の歩みが早ければ自身も事故に巻き込まれていたという事実の方がダメージが大きかった。彼は淡々とそう語った。そして、それ以来、交差点ではかなり下がって信号待ちをするようになったのだと。それは無意識で、気づけばそうするようになっていたのだとも。

 今だって彼は信号や車道までの距離など意識はせずに、この場所で足を止めたのだろう。

 そしてもう一つ。これはわたしが彼を観察していて気づいたことだけれど、信号待ちをしている間の彼は交差点の方には目を向けない。まるでそこに見てはいけない何かがあるかのように。

 直接巻き込まれたわけではなくても、事故は彼の心のどこかに大きな傷を残してしまったんだろうなと思う。
 普通の怪我なら手当もしてあげられるけど、心の傷にはなす術がない。わたしは無力だ。

 気づけば二人とも黙り込んでいて、傘を打つ雨音だけがわたしたちを包み込んでいた。

 このまま黙ってお(しと)やかに相合傘を(たしな)むのも悪くない。そうは思うけれど、奏多と一緒に、特に信号待ちで黙り込むのは嫌だった。少しでも気を紛らせてあげたい。

 いや——。

 自分の気を紛らせたいだけなのかも——。

「ね、ほんとは何のDVDを観るのよ」

 沈黙を蹴散らすように、手っ取り早く話を蒸し返してみた。

「別に何でもいいだろ」

 奏多はどこか素っ気ない。でも気づかないふりをする。

「何でもいいけど、教えてくれてもいいじゃない」

 確かに何でもいい。とは言え、どうでもいいわけではない。彼がどんな映画を好んで観るのかは知っておきたいし、あわよくば……。

「言わないなら、女の子には言えないエッチなやつだって3組の女子に言いふらしちゃうんだから」

 今年もまた奏多と同じクラスになれなかった。わたしが4組で奏多は3組。クラス編成をどうやって決めているのか、教育委員会に対する情報公開請求を真剣に考えたほどショックの最上級だった。それでもグレずに真っ直ぐ良い子に育っているわたしを、親も教育界も地域社会ももっと自慢していいと思う。
 
「な、何でそうなるんだよ」

 奏多の台詞に感情がこもり始めた。
 脅迫が効いたってのもあるだろうけど、信号が青になって再び歩き始めたからかもしれない。

「奏多が素直に言わないからでしょ」

 やっと彼が口を割ったのは、数年前にヒットしたサスペンス系の恋愛映画だった。アマゾンのタイムセールで安くなっているのを見つけて、ついポチってしまったらしい。

「えー、いいなぁ。わたしも観たくなってきた」

「今度、貸そうか?」

「えっ……」
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