第3話ー2.
文字数 2,046文字
廊下の方から賑やかな声が聞こえてきた。もう終わったクラスがあるみたいだ。
僕たちのクラスはやっと全員の席替えが終わって、まだ担任の先生から明日以降の予定とか持ち物とかの説明を聞いているところだ。
「ちゃんとメモっとけよお」
ほとんどの生徒が先生にそう言われる前からノートに鉛筆を走らせていた。
もちろん僕も真新しいノートに、これもまた春休みの間に買ったばかりの新品のシャープペンシルの書き味を楽しみながらメモを取っていた。
が、途中で漢字を書き間違えた。
あちゃあ……。せっかく綺麗なノートの1ページ目なのに。
綺麗に消せるかな。
僕は筆箱の中から消しゴムを取り出そうとした。
——あれ?
無い。
消しゴムが無い。
忘れて来てしまったみたいだ。
どうしよう。
シャープペンシルにも小さな消しゴムが付いてはいる。けれど、その消しゴムを使って綺麗に消せた試しがない。
普段なら消しゴムが無くったって、そこまで拘ることもない。二本線で消してもいいし、何ならぐちゃぐちゃに塗りつぶしたってどうってことはない。
だが、新学年の新学期初日の真っ新 なノートの1ページ目。その状況が僕に普段は無い拘りを生んでいた。
うーん……。
ノートを見下ろしながら悩んでいると、ふと視線を感じて隣の席に顔を向けた。
菜摘ちゃんと目が合った。その小さな顔の横で、右手の親指と人差し指で消しゴムを摘まみ、僕に見せるようにして持っている。
「貸そうか?」
とっても小さな声だったけど、愛らしい唇の動きも相まって僕には伝わった。
「いいの?」
僕の方もほとんど声には出さずに口の動きだけで問いかけると、口角を上げて頷いてくれた。
ところが、僕が消しゴムを受け取ろうとして右手を伸ばすと、菜摘ちゃんは自分の胸の前で両方の手をグーにした。ちょうど猫か何か動物のモノマネでもするかのように。
——どういうことだ?
僕が首を捻ると、また彼女の唇が動いた。ニャー、とは言わない。
「どーっちだ?」間違いなく、彼女はそう言った。
な、なんて可愛いんだ!
喜び戸惑う僕をよそに、彼女はもう一度唇の動きだけで繰り返した。「どーっちだ?」って。しかもすごく楽しそうに。
もしも彼女が「どっちだにゃあ?」とでも言おうものなら、僕は間違いなく気絶していただろう。
辛うじて意識を保っていた僕は、小さな二つの握りこぶしを見比べながら、冷静に考えるよう努めた。ついさっき、彼女は右手に消しゴムを持っていた。次に気づいた時にはもう両手がグーになっていた。持ち替えた素振りも感じられなかった。であれば、消しゴムは右手の中にあるはず。
僕は一口で食べられそうなほど愛らしい握りこぶしのうち、右側を指差した。
すると菜摘ちゃんは一瞬だけ真顔に戻ったかと思うと、その反動を利用したかのように更に笑顔の照度を上げた。そして、握り締めたままの右手を僕の方に差し出してきた。
僕はその下に手のひらを上に向けて右手を伸ばす。
消しゴムは、きっとその中にあるはずだ。
けれど、彼女はもったいぶるようにして、すぐにはこぶしを開こうとしない。
その表情は相変わらず楽しそうで、僕には彼女の頭の中で鳴り響いているドラムロールの音が聞こえるような気がした。
たらららららららららららららららららららららららららぁ~~~~~
固唾を呑んで彼女のこぶしを見つめる。
たららららららららららららららららららららららぁ~~~~っ、
たんっ!
ついにこぶしが開かれた!
と思ったら、次の瞬間、僕の手は彼女の柔らかな手のひらに包まれていた。
そう。彼女は握手をするかのように僕の手を握ったのだ。
え?
えっ?
何?
焦る僕。
その手の中に消しゴムの気配はない。僕の右手は、ただただ温かくて柔らかい菜摘ちゃんの手の感触に包まれている。
顔の表面温度が急上昇するのが分かった。
いつも遥香に言われる表現を借りるなら、この時の僕の顔は表情筋が崩壊して雪崩現象を起こしていた——ということになるのだろう。
「びっくりした?」菜摘ちゃんが僕の顔を覗き込むようにして囁く。
——ど、ど、どういうこと?
全然言葉にならなかった。
そんな僕を見て、菜摘ちゃんは小さく声を立てて笑った。そして握っていた手を離すと、そのままになっている僕の手のひらに消しゴムをちょこんと置いた。
「はい、どうぞ」
何の変哲もないMONO消しゴムと、笑顔満開でとても楽しそうな菜摘ちゃんを見比べる。
ありがとうの言葉も出ない。
「びっくりした?」彼女はまたそう言った。
当たり前だ。びっくりするに決まってる。見れば分かるだろう。けれど、それを素直に認めるのも抵抗があった。
「あ、いや、その……」
「ドッキリ大成功」
「どっきり?」
「そ。ドッキリ。これはわたしが仲多くんに仕掛けたドッキリ第1号だよ」
「第1号って、それは、つまり……」
「そ。これからもどんどん仕掛けていくから、楽しみにしていてね」
超新星爆発のような笑顔に、僕はとどめを刺された。
僕たちのクラスはやっと全員の席替えが終わって、まだ担任の先生から明日以降の予定とか持ち物とかの説明を聞いているところだ。
「ちゃんとメモっとけよお」
ほとんどの生徒が先生にそう言われる前からノートに鉛筆を走らせていた。
もちろん僕も真新しいノートに、これもまた春休みの間に買ったばかりの新品のシャープペンシルの書き味を楽しみながらメモを取っていた。
が、途中で漢字を書き間違えた。
あちゃあ……。せっかく綺麗なノートの1ページ目なのに。
綺麗に消せるかな。
僕は筆箱の中から消しゴムを取り出そうとした。
——あれ?
無い。
消しゴムが無い。
忘れて来てしまったみたいだ。
どうしよう。
シャープペンシルにも小さな消しゴムが付いてはいる。けれど、その消しゴムを使って綺麗に消せた試しがない。
普段なら消しゴムが無くったって、そこまで拘ることもない。二本線で消してもいいし、何ならぐちゃぐちゃに塗りつぶしたってどうってことはない。
だが、新学年の新学期初日の真っ
うーん……。
ノートを見下ろしながら悩んでいると、ふと視線を感じて隣の席に顔を向けた。
菜摘ちゃんと目が合った。その小さな顔の横で、右手の親指と人差し指で消しゴムを摘まみ、僕に見せるようにして持っている。
「貸そうか?」
とっても小さな声だったけど、愛らしい唇の動きも相まって僕には伝わった。
「いいの?」
僕の方もほとんど声には出さずに口の動きだけで問いかけると、口角を上げて頷いてくれた。
ところが、僕が消しゴムを受け取ろうとして右手を伸ばすと、菜摘ちゃんは自分の胸の前で両方の手をグーにした。ちょうど猫か何か動物のモノマネでもするかのように。
——どういうことだ?
僕が首を捻ると、また彼女の唇が動いた。ニャー、とは言わない。
「どーっちだ?」間違いなく、彼女はそう言った。
な、なんて可愛いんだ!
喜び戸惑う僕をよそに、彼女はもう一度唇の動きだけで繰り返した。「どーっちだ?」って。しかもすごく楽しそうに。
もしも彼女が「どっちだにゃあ?」とでも言おうものなら、僕は間違いなく気絶していただろう。
辛うじて意識を保っていた僕は、小さな二つの握りこぶしを見比べながら、冷静に考えるよう努めた。ついさっき、彼女は右手に消しゴムを持っていた。次に気づいた時にはもう両手がグーになっていた。持ち替えた素振りも感じられなかった。であれば、消しゴムは右手の中にあるはず。
僕は一口で食べられそうなほど愛らしい握りこぶしのうち、右側を指差した。
すると菜摘ちゃんは一瞬だけ真顔に戻ったかと思うと、その反動を利用したかのように更に笑顔の照度を上げた。そして、握り締めたままの右手を僕の方に差し出してきた。
僕はその下に手のひらを上に向けて右手を伸ばす。
消しゴムは、きっとその中にあるはずだ。
けれど、彼女はもったいぶるようにして、すぐにはこぶしを開こうとしない。
その表情は相変わらず楽しそうで、僕には彼女の頭の中で鳴り響いているドラムロールの音が聞こえるような気がした。
たらららららららららららららららららららららららららぁ~~~~~
固唾を呑んで彼女のこぶしを見つめる。
たららららららららららららららららららららららぁ~~~~っ、
たんっ!
ついにこぶしが開かれた!
と思ったら、次の瞬間、僕の手は彼女の柔らかな手のひらに包まれていた。
そう。彼女は握手をするかのように僕の手を握ったのだ。
え?
えっ?
何?
焦る僕。
その手の中に消しゴムの気配はない。僕の右手は、ただただ温かくて柔らかい菜摘ちゃんの手の感触に包まれている。
顔の表面温度が急上昇するのが分かった。
いつも遥香に言われる表現を借りるなら、この時の僕の顔は表情筋が崩壊して雪崩現象を起こしていた——ということになるのだろう。
「びっくりした?」菜摘ちゃんが僕の顔を覗き込むようにして囁く。
——ど、ど、どういうこと?
全然言葉にならなかった。
そんな僕を見て、菜摘ちゃんは小さく声を立てて笑った。そして握っていた手を離すと、そのままになっている僕の手のひらに消しゴムをちょこんと置いた。
「はい、どうぞ」
何の変哲もないMONO消しゴムと、笑顔満開でとても楽しそうな菜摘ちゃんを見比べる。
ありがとうの言葉も出ない。
「びっくりした?」彼女はまたそう言った。
当たり前だ。びっくりするに決まってる。見れば分かるだろう。けれど、それを素直に認めるのも抵抗があった。
「あ、いや、その……」
「ドッキリ大成功」
「どっきり?」
「そ。ドッキリ。これはわたしが仲多くんに仕掛けたドッキリ第1号だよ」
「第1号って、それは、つまり……」
「そ。これからもどんどん仕掛けていくから、楽しみにしていてね」
超新星爆発のような笑顔に、僕はとどめを刺された。