第1話ー2.
文字数 1,908文字
「わたし、九槍菜摘 。これからは同じ3組だよ。よろしくね」
なんて可愛いんだ。笑顔が眩しいという意味を僕は今、彼女から教えられたような気がする。だから今日は笑顔眩しい記念日にしよう。
こんな可愛い女子が同じ学年にいたなんて。しかも同じクラスだって?
敦史には悪いが、彼女の存在だけで今年のクラス替えは大当たりだと思えた。
よろしくねなんて、女子から言われたのも初めてかもしれない。だったら今日はよろしくね記念日でもある。
笑顔眩しい記念日とよろしくね記念日。これからは毎年盛大に祝おう。あわよくば彼女——九槍菜摘と一緒に。
この時の僕は顔中の表情筋から力が抜けてスライム化した、だらしのない表情をしていたに違いない。いや。表情だけではない。脳味噌すらも蕩 けて耳や鼻から流れ出る勢いだったはず。
けれど、そんな平和な時間も空間も幻想も長続きはしなかった。
「奏多 !」
不意に斜め後ろから飛んで来た声が、僕たち二人の間を切り裂くように目の前の床に音を立てて突き刺さった。その怒気に満ちた低い声は僕の名を読んでいた。念のため申し添えると、それはまぎれもなく女子の声である。そして聞き覚えのある、いや。僕がよく知っている声でもあった。
弛 み切っていた心も表情も脳味噌も、まるで液体窒素を浴びたT1000のように瞬時に凍り付いた。
恐る恐る声の矢が飛んで来た方向に顔を向ける。確認するまでもないことだったが、そこで仁王立ちしていたのはターミネーターでもサラ・コナーでもない。綾杜遥香 だった。
「は、はるか……」
遥香は荒れ狂う太陽コロナのような怒りのオーラを可視化させていた。いや。そんなものが見えるはずはない。けれど、僕の目には確かに見えた。本能が感知したと言ってもいい。
綾杜遥香——陸上部短距離のエースに相応 しい、無駄な膨らみを全て削ぎ落としたかのような肢体。それでも最近はそこに、見ているとくすぐったくなるような曲線が感じられるようになった。
遥香は跳躍前の助走のように大きな歩幅で近づいて来ると、僕の腕を取って自分の腕を絡ませた。肩や肘の関節が抜ける恐怖を感じた。
もはや僕は捕らえられた宇宙人、あるいは敏腕刑事に確保された憐れなコソ泥のようだった。肘のあたりに微かに感じられる彼女の胸の温もりだけが、溺れる僕にとっての藁 だった。
「何してんの?」
僕にそう言いながら、鋭角な視線は何故か菜摘ちゃんに突き刺さっていた。
菜摘ちゃんは怯えた小鹿のように少しだけ後退 った。無意識だと思う。怖くて怯えているんだ。彼女のことは僕が守ってあげなければ。
「な、何って、何組になったかの確認を」
「そうじゃない!」
「そうじゃないってどういうことだよ。現にこうやってクラス発表をだな」
弁明は容赦なく遮られる。
「ち、が、う! 何をそんなにデレデレしてんのって言ってるの!」
まずい。スライム化しただらしない表情を見られていたようだ。つまり現行犯だ。言い逃れなどできないことは経験則で骨身に染みている。けれど、それでも諦めてはいけない。確かに僕は遥香以外の女子に、見惚 れ、トキメキ、脳味噌を溶かし、相好を崩壊させた。お前はスライムにでも転生したのかと言われかねない醜態だった。もう少し時間があれば、頭の中ではさらに劣悪淫猥な妄想を膨らませていたことだろう。それは紛れもない事実だ。けれど、あのシチュエーションでは仕方がないではないか。全ては抗うことのできないフォースのせい。不可抗力だ。目の前で転 けそうになった人を助けた。これは褒められこそすれ、非難される事案ではないはずだ。その相手がたまたま可愛い女の子だったのは僕のせいじゃない。彼女の身体が柔らかくて、とてもいい匂いがしたのも僕の責めに帰する事象ではない。突然の出来事に我を失い、ほんの少しだけ余計に彼女を抱きしめる形になったのだって故意ではないし、ましてや恋なんかではない。彼女が僕の名前を呼んで、よろしくねと、高原に咲く可憐な花のような微笑みを浮かべたのだって僕のせいじゃない。だったら、そんな状況でそんな相手に少しくらいデレた表情を見せたことを誰が責められようか。
しかも、だ。これが最も重要なポイントなのだが、僕と遥香は付き合っているわけではない。そう、遥香は僕の彼女じゃあないのだ。なのに、どうして彼女でもない女からこんな束縛を受けなければいけないのか。
僕は星が一回瞬くほどの短い時間の間に、そんな自己正当化の論理を頭の中で組み上げた。後はそれを言葉にして、遥香にぶつけるだけだ。正義は我にあり。
けれど、僕にそんな機会が与えられることはない。そんなことはよく分かっていた。
なんて可愛いんだ。笑顔が眩しいという意味を僕は今、彼女から教えられたような気がする。だから今日は笑顔眩しい記念日にしよう。
こんな可愛い女子が同じ学年にいたなんて。しかも同じクラスだって?
敦史には悪いが、彼女の存在だけで今年のクラス替えは大当たりだと思えた。
よろしくねなんて、女子から言われたのも初めてかもしれない。だったら今日はよろしくね記念日でもある。
笑顔眩しい記念日とよろしくね記念日。これからは毎年盛大に祝おう。あわよくば彼女——九槍菜摘と一緒に。
この時の僕は顔中の表情筋から力が抜けてスライム化した、だらしのない表情をしていたに違いない。いや。表情だけではない。脳味噌すらも
けれど、そんな平和な時間も空間も幻想も長続きはしなかった。
「
不意に斜め後ろから飛んで来た声が、僕たち二人の間を切り裂くように目の前の床に音を立てて突き刺さった。その怒気に満ちた低い声は僕の名を読んでいた。念のため申し添えると、それはまぎれもなく女子の声である。そして聞き覚えのある、いや。僕がよく知っている声でもあった。
恐る恐る声の矢が飛んで来た方向に顔を向ける。確認するまでもないことだったが、そこで仁王立ちしていたのはターミネーターでもサラ・コナーでもない。
「は、はるか……」
遥香は荒れ狂う太陽コロナのような怒りのオーラを可視化させていた。いや。そんなものが見えるはずはない。けれど、僕の目には確かに見えた。本能が感知したと言ってもいい。
綾杜遥香——陸上部短距離のエースに
遥香は跳躍前の助走のように大きな歩幅で近づいて来ると、僕の腕を取って自分の腕を絡ませた。肩や肘の関節が抜ける恐怖を感じた。
もはや僕は捕らえられた宇宙人、あるいは敏腕刑事に確保された憐れなコソ泥のようだった。肘のあたりに微かに感じられる彼女の胸の温もりだけが、溺れる僕にとっての
「何してんの?」
僕にそう言いながら、鋭角な視線は何故か菜摘ちゃんに突き刺さっていた。
菜摘ちゃんは怯えた小鹿のように少しだけ
「な、何って、何組になったかの確認を」
「そうじゃない!」
「そうじゃないってどういうことだよ。現にこうやってクラス発表をだな」
弁明は容赦なく遮られる。
「ち、が、う! 何をそんなにデレデレしてんのって言ってるの!」
まずい。スライム化しただらしない表情を見られていたようだ。つまり現行犯だ。言い逃れなどできないことは経験則で骨身に染みている。けれど、それでも諦めてはいけない。確かに僕は遥香以外の女子に、
しかも、だ。これが最も重要なポイントなのだが、僕と遥香は付き合っているわけではない。そう、遥香は僕の彼女じゃあないのだ。なのに、どうして彼女でもない女からこんな束縛を受けなければいけないのか。
僕は星が一回瞬くほどの短い時間の間に、そんな自己正当化の論理を頭の中で組み上げた。後はそれを言葉にして、遥香にぶつけるだけだ。正義は我にあり。
けれど、僕にそんな機会が与えられることはない。そんなことはよく分かっていた。