第6話
文字数 1,935文字
幼い頃のわたしを見つめるわたしがいた。
お祖母ちゃんの肩叩きをして貰ったお小遣いの硬貨を握り締めて、花屋さんに走るわたし。
小さい子どもがお花屋さんに憧れるのはお花が綺麗だから——それだけじゃなくて店員さんが優しいからじゃないかしら。毎日綺麗な花に囲まれて仕事をしていると自ずと優しくなれるのか。あるいはお花屋さんになろうって思う人は初めから心根の優しい人が多いのか。
その花屋さんの、若くて、店内に並ぶ花にも負けず可愛らしい店員さんは、にこやかに身体を屈めて小さなわたしに視線を合わせてくれる。
「いらっしゃいませ」
それなのに対するわたしは緊張のせいか表情が硬く、お姉さんと目を合わせようともしない。ごめんね。お姉さん。
わたしは知っている。だってわたしのことだから。大したことじゃない。お母さんが風邪で寝込んでしまった。それだけのことだ。けれど、幼いわたしには「それだけのこと」じゃない。お祖母ちゃんが「お薬飲んで寝てたら治るから大丈夫」って言ってくれても、心配で心配で仕方ない。だって——。
花屋のお姉さんは優しく訊ねてくれる。
「どのお花にしましょうか?」
何も言えない。強張った表情。瞬きも出来ないほど、ぐっと見開いたまんまの目。ぎゅって握り締めた小さな拳。その拳の中に幾ら入っているんだったけなあ。幾らも入っていないのは間違いない。駄菓子屋さんでなら幾つかお菓子が買えるかもっていう程度。
その拳に気がついたお姉さんは、自分の手を広げてわたしの前に差し出して、ここに載せてごらんって笑うけど、硬直した幼いわたしは動かない。
「じゃあ、誰にあげるお花なの?」
一旦手を引っ込めたお姉さんに今度はそう聞かれて「お母さん」って答えた、その「か」と「あ」の間にわたしの声は既に涙声になっていた。
涙というものはその一粒一粒が見えない糸か何かで繋がっているのかもしれない。一旦零れてしまうと次から次へと連なって止まらなくなる。やがて鼻水やら涎やらも合わさって収拾がつかなくなる。それらを手で拭うこともせず、顔中ぐちゃぐちゃにして泣きじゃくる幼いわたし。
レジのところからティッシュを持って来てくれたお姉さんが、そっと目の下やら鼻のしたやらに当ててくれる。そしたら余計に涙は勢いを増す。泣き声も大きくなる。泣きながら何かを言っているみたいだけど、自分でも聞き取れない。何っているんだ、わたし? そう思って必死に解読を試みて、やっとどうやら「お母さんが病気なのぉ」なんてことを言っているらしいことを理解した。
「大丈夫だよお。泣かなくていいよお」
そう言われて、収まりかけた涙がまた勢いを取り戻した。ああ、こんな子、わたしなら勘弁して欲しいって思っちゃう。でもお花屋さんは偉大だ。いつもは何も言わない花ばかり相手をしているはずなのに、どうしてこんな面倒な子の相手まで出来ちゃうのだろう。
「大丈夫大丈夫」お姉さんは繰り返す。大丈夫大丈夫って。
それでも更に泣き続けるわたしに、さすがのお姉さんも困惑している。ごめんね、お姉さん。許してあげて。ずっと大丈夫だよって言ってたお父さんが死んじゃったから、この頃のわたしは、大丈夫って言われても——ううん、大丈夫だって言われると余計に、心配になっちゃったんだと思う。ごめんね、お姉さん。
涙を拭ってくれたり、頭を撫でてよしよししてくれたり。お姉さん、さぞかし大変だったろう。長い時間をかけてやっと泣き止んだわたしは、観念したかのようにお姉さんの手に自分が持っていた小銭を委ねた。
ああそうか。何となく思い出したような気がする。わたしは知ってたんだな。わたしが持っているお金じゃお花は買えないって。そのくらいのことは分かる年頃だったんだ。偉いのか馬鹿なのか分からないわたしだな。
でも、お姉さんは何も言わずに小さな花束を作ってくれた。ピンクと白のガーベラを組み合わせた可愛い花束。
「花言葉って分かる? ピンクのガーベラは感謝、白のガーベラは希望だよ」
幼いわたしは小さく頷いた。本当に分かっていたのかしら。甚だ怪しい。自分が握っていたあれっぽっちの小銭がこんなに可愛らしい花束に化けて、ただただ驚いていただけのような気もする。
お姉さん、ありがとう。
感謝。お母さん、いつもありがとう。
希望。お母さん、早く元気になってね。ずっとわたしのそばにいてね。
——そんな気持ちを託せるようにしてくれたんだね。
「じゃあね。気をつけて帰るんだよ」
店の前で手を振って見送ってくれたお姉さん。
ガーベラは比較的お手頃価格なお花かもしれないけれど、それでもきっとあの花束は大赤字だったろうに。
自分のお給料から足してくれたのかな。
本当にありがとう。
お祖母ちゃんの肩叩きをして貰ったお小遣いの硬貨を握り締めて、花屋さんに走るわたし。
小さい子どもがお花屋さんに憧れるのはお花が綺麗だから——それだけじゃなくて店員さんが優しいからじゃないかしら。毎日綺麗な花に囲まれて仕事をしていると自ずと優しくなれるのか。あるいはお花屋さんになろうって思う人は初めから心根の優しい人が多いのか。
その花屋さんの、若くて、店内に並ぶ花にも負けず可愛らしい店員さんは、にこやかに身体を屈めて小さなわたしに視線を合わせてくれる。
「いらっしゃいませ」
それなのに対するわたしは緊張のせいか表情が硬く、お姉さんと目を合わせようともしない。ごめんね。お姉さん。
わたしは知っている。だってわたしのことだから。大したことじゃない。お母さんが風邪で寝込んでしまった。それだけのことだ。けれど、幼いわたしには「それだけのこと」じゃない。お祖母ちゃんが「お薬飲んで寝てたら治るから大丈夫」って言ってくれても、心配で心配で仕方ない。だって——。
花屋のお姉さんは優しく訊ねてくれる。
「どのお花にしましょうか?」
何も言えない。強張った表情。瞬きも出来ないほど、ぐっと見開いたまんまの目。ぎゅって握り締めた小さな拳。その拳の中に幾ら入っているんだったけなあ。幾らも入っていないのは間違いない。駄菓子屋さんでなら幾つかお菓子が買えるかもっていう程度。
その拳に気がついたお姉さんは、自分の手を広げてわたしの前に差し出して、ここに載せてごらんって笑うけど、硬直した幼いわたしは動かない。
「じゃあ、誰にあげるお花なの?」
一旦手を引っ込めたお姉さんに今度はそう聞かれて「お母さん」って答えた、その「か」と「あ」の間にわたしの声は既に涙声になっていた。
涙というものはその一粒一粒が見えない糸か何かで繋がっているのかもしれない。一旦零れてしまうと次から次へと連なって止まらなくなる。やがて鼻水やら涎やらも合わさって収拾がつかなくなる。それらを手で拭うこともせず、顔中ぐちゃぐちゃにして泣きじゃくる幼いわたし。
レジのところからティッシュを持って来てくれたお姉さんが、そっと目の下やら鼻のしたやらに当ててくれる。そしたら余計に涙は勢いを増す。泣き声も大きくなる。泣きながら何かを言っているみたいだけど、自分でも聞き取れない。何っているんだ、わたし? そう思って必死に解読を試みて、やっとどうやら「お母さんが病気なのぉ」なんてことを言っているらしいことを理解した。
「大丈夫だよお。泣かなくていいよお」
そう言われて、収まりかけた涙がまた勢いを取り戻した。ああ、こんな子、わたしなら勘弁して欲しいって思っちゃう。でもお花屋さんは偉大だ。いつもは何も言わない花ばかり相手をしているはずなのに、どうしてこんな面倒な子の相手まで出来ちゃうのだろう。
「大丈夫大丈夫」お姉さんは繰り返す。大丈夫大丈夫って。
それでも更に泣き続けるわたしに、さすがのお姉さんも困惑している。ごめんね、お姉さん。許してあげて。ずっと大丈夫だよって言ってたお父さんが死んじゃったから、この頃のわたしは、大丈夫って言われても——ううん、大丈夫だって言われると余計に、心配になっちゃったんだと思う。ごめんね、お姉さん。
涙を拭ってくれたり、頭を撫でてよしよししてくれたり。お姉さん、さぞかし大変だったろう。長い時間をかけてやっと泣き止んだわたしは、観念したかのようにお姉さんの手に自分が持っていた小銭を委ねた。
ああそうか。何となく思い出したような気がする。わたしは知ってたんだな。わたしが持っているお金じゃお花は買えないって。そのくらいのことは分かる年頃だったんだ。偉いのか馬鹿なのか分からないわたしだな。
でも、お姉さんは何も言わずに小さな花束を作ってくれた。ピンクと白のガーベラを組み合わせた可愛い花束。
「花言葉って分かる? ピンクのガーベラは感謝、白のガーベラは希望だよ」
幼いわたしは小さく頷いた。本当に分かっていたのかしら。甚だ怪しい。自分が握っていたあれっぽっちの小銭がこんなに可愛らしい花束に化けて、ただただ驚いていただけのような気もする。
お姉さん、ありがとう。
感謝。お母さん、いつもありがとう。
希望。お母さん、早く元気になってね。ずっとわたしのそばにいてね。
——そんな気持ちを託せるようにしてくれたんだね。
「じゃあね。気をつけて帰るんだよ」
店の前で手を振って見送ってくれたお姉さん。
ガーベラは比較的お手頃価格なお花かもしれないけれど、それでもきっとあの花束は大赤字だったろうに。
自分のお給料から足してくれたのかな。
本当にありがとう。